室井はワイシャツの袖のボタンをとめながら、自分のベッドを占領している男を見下ろした。
人の枕を抱えて、気持ち良さそうな顔で寝息を立てている。
もう起こしてやらなければ、遅刻するだろう。
そう思いながら、なんとなく起こすのを躊躇っていた。
自分でも何を躊躇っているのか良く分からない。
考えてみれば、他人を起こすという状況は、随分久しぶりだった。
それも、相手はあの青島俊作である。
本庁と湾岸署共通の問題児で、室井に警察官としての使命を思い出させた男が、室井の部屋で、しかも室井のベッドで寝ている。
そう思うと、少しおかしかった。
「…青島、起きろ」
声をかけてみる。
青島の眉が少し動いただけで、起きる気配はない。
室井は溜め息をついて、青島の身体に手を伸ばした。
布団の上から触れて、軽く揺さぶる。
「起きろ青島、遅刻するぞ、おい、青島」
しつこく呼び掛け揺すぶると、青島は煩わしそうに眉を寄せ、唸りながらも薄っすらと目を開けた。
「ん〜〜〜…もう少し……」
「ダメだ、遅刻するって言ってるだろ」
起きるんだと言って、青島の顔を覗き込む。
ぼやけた視線だが目が合った気がして、名前を呼んだ。
「青島」
その途端、青島の目が見開かれた。
一気に覚醒したらしく勢い良く起き上がってくるから、室井も慌てて身を引いた。
「え…?え?室井さん?」
青島が目を丸くして室井を見上げている。
「そうだが」
「な、なんでいんの」
どうやら混乱しているらしい。
あれだけ酔っぱらっていたのだから、記憶が曖昧でも無理はない。
だからといって、室井が呆れないわけではない。
酔っぱらった青島を連れて帰ってきてやったというのに、「なんでいんの」とは随分な言葉だ。
室井は深い溜め息を吐くと、良く聞けとばかりに「いいか」と前置きをして、徐に言った。
「ここは俺の部屋だ」
「室井さんの…?」
「夕べ飲み会だったことは覚えてるか?」
三秒ばかし考えて、青島は頷いた。
少し冷静になったのか、真顔で考え込む。
「室井さんの隣に座って…色んな話しをしたのは覚えてんですけど…」
記憶を遡れば、経緯は大体覚えてはいるらしい。
それらを思い出すのと同時に青島の顔が段々とひきつってくる。
「一緒に、タクシー乗りました?」
「ああ」
「一緒に帰った?室井さんと?」
「そうなるな」
「それで、ここは…」
「俺の部屋だ」
「……もしかして、泊めてもらった?」
今更なことをおっかなびっくり問われて、室井は真顔で深く頷いた。
「ああ」
途端に青島の顔が激しく強張った。
「マジですか、室井さんちに泊めてもらった…」
徐々に顔が赤くなる。
「す、すいません、俺飲みすぎたんすね。迷惑かけました?かけましたよね、泊めてもらったんだから、かけたに決まってる。うわー、すいません」
赤面しながらやみくもに言葉を発する青島を、室井は目をみはって見下ろした。
青島は目に見えて動揺していた。
何事にも動じないような落ち着いた男では全くなかったが、たかだか酔い潰れたくらいでこれほど動揺するような繊細な男だとは思っていなかった。
良く言えば肝の座った、悪く言えば大胆不適な男である。
いくら上司である室井に迷惑をかけたのだとしても、青島のことだから「すいませーん」と笑って済ますだろうと思っていたのだ。
そうされたら、少しくらいの迷惑ならば、呆れながらも憎めずに許してしまう。
青島にはどこかそうさせる雰囲気があった。
少なくても室井にとっては、青島はそういう男であった。
なのに目の前の青島ときたら、何をそんなにと迷惑をかけられたはずの室井が驚くくらい、うろたえている。
「室井さんが部屋まで運んでくれたんすか?すいません、重かったでしょ?あ、もしかして、ベッド占領した?他にも迷惑かけたんじゃないっすか?」
相変わらず赤い顔で視線を泳がせながら度々謝る青島に、室井は苦笑を漏らした。
夕べから、いつもの青島とは違って見える。
今まで知らなかった一面を見ているだけなのだろうが、困ったことに可愛く思えた。
微笑ましいという感情に近いかもしれない。
世話を焼かされたはずなのに、これだけ動揺しうろたえている青島を見ると、どうでも良くなってくる。
「…室井さん?」
苦笑していた室井を、青島が困った顔で見上げてくる。
叱られる直前の子供みたいだ。
そう思うと、やはり微笑ましく見える。
室井は一つ咳払いをした。
「肩は貸したが、君は自分で歩いていたから、それほど重くなかった」
突然言われた言葉に驚いたようだったが、先の青島の質問への答えだった。
きょとんとしている青島に、室井は続ける。
「ベッドは占領されたが、他に布団があったから心配しなくていい」
来客用の布団を敷いている間に、青島が室井のベッドで眠ってしまったのだ。
起こすのも移すのも面倒だったので、室井が来客用の布団で寝たのである。
さしたる問題ではない。
「かけられた迷惑は他にないから、それも心配いらない」
以上だと言う室井に、青島は瞬きを繰り返した。
「はぁ…」
「質問は?」
「ない…かな?」
曖昧に首を傾げた青島に、内心で笑って室井は頷いた。
「なら、飯を食え。遅刻するぞ」
青島を起こす前に、朝食の準備はしてあったのだ。
まだぼんやりしている青島に、室井はハンガーにかけてあった青島のスーツを差し出した。
「服は勝手に脱がしたぞ」
目を剥いた青島が、思い出したように自分の姿を確認した。
白いアンダーシャツとトランクス一枚の格好である。
同性相手とはいえ、意識のない人間の衣服を剥ぐことに抵抗はあったが、スーツのまま寝かせるよりは親切だろうと割り切って、室井が脱がせたのだった。
割り切ってはいるものの若干気まずく、室井は青島にスーツを押し付けると、とっとと寝室を出た。
「重ね重ねお世話になります…」
頂きますと両手を合わせてから、青島が申し訳なさそうに言った。
日頃態度がでかいとは言わないまでも、腰が低いとは言い難い彼が小さくなっている。
その様が妙に可愛らしく、やっぱり対処に困る。
夕べからこんなことが多い気がした。
「一人分も二人分も大差ない、気にするな」
そっけない口調だったが室井の気遣うような気持ちを悟ってくれたのか、青島は肩を竦めて笑みを溢すと、礼の言葉を口にした。
それに頷いて応じ、室井は味噌汁をすすった。
飲んだ次の日の朝は、これが美味い。
青島も味噌汁に口をつけて、ホッと息をついた。
「ちゃんとした朝飯、久しぶりだなぁ」
感慨深そうな声に、そんなに感激してもらえるような代物じゃないと思いつつ、青島に視線を向ける。
「いつも朝飯食わないのか?」
「食える時間があれば食いますよ、滅多にないですけど」
「ちゃんと食った方がいい」
「分かってはいるんすけどね、食う時間があるならその分寝てたくって」
へらっと笑う青島に呆れるが、彼らしいとも思えて苦笑してしまう。
「まぁ、忙しいのは分かるが」
所轄刑事の忙しさは、室井も理解している。
もちろんキャリアの室井が所轄の実態の全てを知り得るわけがないが、青島たちと関わり所轄の在り方を見ていくらか学んだつもりだった。
所轄にもよるだろうが、少なくても湾岸署では徹夜が三日続くこともあるという程度に忙しいらしかった。
青島が睡眠に執着する気持ちも理解できる。
寝られる時に寝ておくのも、刑事には大事なことだ。
遅刻しなければ、の話だが。
「そういう室井さんも忙しいんじゃないっすか?」
「忙しいには忙しいが、君らの忙しさとは違うだろう」
体力的にキツイのは、どう考えても所轄である。
「お互い難儀な商売ですねぇ」
青島のわざとらしい溜め息に、内心で笑った。
愚痴を溢しても、青島はこの仕事が大好きなのだ。
自分の仕事にやり甲斐も感じていて、政治と保身に懲り固まった警察に憤ってはいても未来を諦めてはいない。
室井にはそれが分かるから、青島という存在が嬉しかった。
「全くだ」
室井が気軽に同意すると、青島はちょっと笑った。
「…おかわり、あります?」
空になった味噌汁のお椀を差し出してくる青島に、室井は小さく笑みを溢した。
いつもの青島が帰ってきたようだった。
青島と一緒に部屋を出て、駅で別れた。
去り際に、今度改めてお詫びしますからと言っていた。
彼らしい気安い社交辞令かもしれない。
社交辞令は立場上聞き慣れていたが、取り立ててそれに心を動かされることはない。
言葉が上滑りしていくだけ。
だが、出世に興味のない青島のそれだけは、室井にとって心地のよいものだった。
確かな約束ではなくても、機会があったら叶えてみたい気にさせる。
お詫びなどいらないが、またこんな機会があれば良いのに、と室井にしては珍しいことを考えていた。
―へりで迎えに来てくださいね。
そう笑った男の顔が、不意に思い出される。
そんなことができるわけがないし、もちろん青島も冗談だったのだろうが、実際にやったらどんな顔をするだろうかと考えると、ちょっとおかしかった。
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