室井は眉間に皺を寄せていた。
怒っているわけではない。
心底困っていたのだ。
「…って、話し聞いてます?室井さん」
むうっと膨れっ面を作る青島に、室井は慌てて頷いた。
「聞いてる」
「本当にぃ?」
大きな瞳にじーっと見つめられると、何故か居心地が悪くなる。
『見られている』、という気がするのだ。
実際見られているわけだが、それを強く意識させるような目をしていた。
室井がひきつりながらもう一度頷くと、青島はニッコリと笑った。
「でねっ」
室井の返事に満足したのか再び話し出す青島に、室井はひっそりと溜息をついた。
決して、青島の話しを聞くのが嫌なわけではない。
彼と語り合ったことなど数えるほどしかないが、そんな時はいつだって室井は胸を熱くした。
理想を同じくする男がいる。
共に頑張ろうと約束できる男がいる。
青島と話すたび、そう思えた。
だから、彼と話すのは嫌いではない。
室井が困っている理由は青島の話しに付き合わされているからではなく、青島が酔っ払っていたからだった。
所用で湾岸署に訪れた室井を誘ってくれたのは、すみれだった。
たまたま、手の空いている刑事課の連中で飲みに行く約束があったらしい。
接待ではないのだろうが室井が出る幕ではない気がしたので丁重にお断りしようと思ったのだが、そうできなかったのはすみれの他に青島からも「たまには一緒に飲みませんか?」と誘われたからだった。
それでも、断ったって構わなかった。
断ったとしても青島はしつこくは誘わなかっただろうし、彼らにとっても室井がその場にいなくても困りはしないのだ。
だけど、なんとなく、そうはしなかった。
深い意味はない。
ただ単に、今日は直帰する予定で時間に余裕があり、付き合ってもいいかと思っただけである。
直接ではないにしろ上司である自分と酒など飲んで楽しいものだろうかと思わなくはなかったが、それこそ誘ってきたのは向こうの方で、室井が気にすることではない。
そう思って参加した飲み会は、いつも騒々しい湾岸署の刑事課のメンツらしいすこぶる騒々しいもので、何度かのこのこと着いて来たことを後悔する場面に遭遇した。
それでも腰を上げずに今まで居座ったのは、隣に座った青島が熱心に声をかけてくれたからだ。
やはり青島と話すのはいい。
彼の存在は室井の心の深くにある信念や希望に強く語りかけてくるものがある。
室井はそう思っていた。
青島が酔っ払って、呂律が怪しくなるまでは。
「だからね、俺は思うんすよ、本店と所轄はこのままじゃいけないって」
青島が熱弁を振るう。
室井もその意見には同感だし、酔っ払っていない時ならちゃんと話し合いたかった。
青島と理想を共有できることは、室井の喜びでもあったのだ。
だが、しかし。
「同じ警察官同士一致団結してですねぇ……ここ、ちょっと熱くないです?室温下げてもらいましょうか……あ、酒が空きましたね、すいません、お代わりください!……ええと、何の話しだっけ?」
首を傾げた青島に、室井はまた溜め息を吐いた。
さっきからこんな調子だった。
最初は普通に会話をしていたはずの青島だったが、いつのまにやら酒が過ぎていたようで、ふと気付けば完璧な酔っ払いの出来上がりである。
青島が酒に弱いとは聞いていなかったから、意外な気もした。
助けを求めるつもりですみれに視線を向けると、微笑みが返ってきた。
おまけに手まで振られる。
―青島君のことは任せた。
すみれの顔にそう書いてある。
隣の真下を見ればそのすみれに酔い潰されたのか、テーブルに突っ伏して「ゆきのさ〜ん」とぼやいている。
彼女は仕事があるため不参加だった。
それが悔しかったのかもしれない。
和久は若い刑事に何やら楽しげに説教をしている。
誰も助けてはくれなさそうだった。
「室井さん、聞いてますか?」
また咎めるような眼差しが飛んでくる。
「聞いてる」
「…室井さんはエライっ」
いきなり誉められて、室井は目を剥いた。
話しを聞いていたからかと思ったが、もちろんそうではなかった。
「あの本店で頑張ってんだもん、エライよ」
どうやら警察官室井慎次を誉めてくれているらしい。
「室井さんがキャリアになってくれて良かった」
青島がニッコリ笑う。
「信じられる男がいて良かった」
室井の頬が熱くなった。
同じように信じた男からの最大限の賛辞だ。
酔っ払い相手に真剣になっても仕方がないが、嬉しくないわけがない。
なんと返そうか迷ったが、室井は一言だけ返した。
「そうか」
照れをごまかすためにグラスに口をつける。
その腕を青島に掴まれ、室井はまた目を剥いた。
「俺、本気で言ったんですよ?」
真剣な眼差しに射抜かれて、何故かドキリとする。
彼の力のある眼差しは好きだったが、どうしたことが妙な気分にさせられる。
室井ももしかしたら酔っ払っているのかもしれない。
何かを勘違いしたくなる眼差し。
青島の強い視線にそう感じて、室井はたじろいだ。
「青島、分かったから…」
「本当?本当に分かってる?」
「分かってるから」
何がなんだか正直なところ良く分からなかったが、青島の視線から逃れたいがために頷く。
それを見て納得したのか、青島は嬉しそうに笑った。
「なら、いいです」
あんまりにも嬉しそうに笑うから、室井はその顔を馬鹿みたいに凝視してしまった。
―なんて顔をして笑うんだろう、この男は。
酔っ払っているとはいえ、無防備過ぎる。
青島に室井を警戒する理由などないはずだからそれで当然といえば当然なのだが、いい年をした男性がそんなに全開の笑顔を他人に見せる機会はそうそうないだろう。
少なくとも、室井にはない。
元々愛想の良い男だということは知っているが、キャリアの自分に向けて下心もなくそうする男は少ないので、余計に戸惑ってしまう。
夢や理想を語る時の真っ直ぐな彼の視線なら受け止められるが、ただひたすらに嬉しそうで楽しそうな笑顔にはまだ慣れなかった。
つい凝視していたその顔からそっと視線を逸らす。
その途端、室井の肩に何かがしなだれかかってくる。
何かも何も、室井の隣に座っているのは青島俊作しかいない。
ぎょっとして振り返ると、やはり青島だった。
青島が室井の肩に寄りかかり、身を寄せているのだ。
「俺ね…」
室井に寄りかかっていることに気付いているのかいないのか。
「警察官になって良かったです」
ぼんやりとした青島の声に、心の中で「俺もそう思っている」と応えるが、口からは出なかった。
室井の肩に頭を預けたまま、青島は視線だけを持ち上げて室井を見つめる。
―大きな目だ。
だからどうしたということが、頭を過る。
「室井さん」
―なんだ。
返事をしようとして、やっぱり声にならずに驚いた。
緊張しているのだと、随分遅れて気が付いた。
何故。
青島が自分の身体に触れている。
ただそれだけなのに。
「室井さん」
青島は返事もできずにいた室井を、もう一度呼ぶ。
根性で視線だけ合わせると、青島がふにゃりと笑った。
「室井さんがいて良かった…」
顔に力が入り過ぎて眉間に皺を寄せた室井を置き去りにして、呟いたきり目を閉じる。
「青島?」
ようやく声が出たのはいいが、呼び掛けた相手からの返事はない。
落とした視線の先には、目を閉じた青島の顔。
―長い睫だ。
またもどうでもいいことが頭に浮かぶ。
そんなことを考えている場合じゃないと気付き、慌てて青島の肩を掴んだ。
「おい、青島、寝るんじゃないっ」
「んー…」
小さく唸りながら、更に室井に身を預けてくる。
ほとんど胸に寄り沿われて、室井は青島の両肩を掴んだまま、硬直した。
「あらら、青島君、眠っちゃったみたいですね」
横から呑気な声をかけてくるのはすみれだった。
助けを求めるようにすみれを見ると、すみれはニコリと応じた。
「室井さん、悪いんですけど、それ、持って帰ってくれます?」
室井には言われた言葉の意味が分からなかった。
―それって、どれだ。
―持って帰るって、何を。
―どこに???
脳内を占めるのは疑問符ばかり。
呆然としている室井に構わず、すみれは手を叩いて「そろそろお開きにしますよー」と声をかけている。
室井はようやく慌てた。
「恩田君っ」
「なんですかー?」
気のない返事を返すすみれに、室井は気持ち詰め寄る。
実際は青島を支えていたから身動きも出来なかった。
「そ、それとは、どういう」
「それ、青島君」
すみれが無造作に青島を指さす。
やはりと思うが、納得している場合じゃない。
青島を持って帰れと言われているのだ。
「青島をもっ…連れて帰るって、私が?」
「青島君そんなだし、一人じゃ帰れないでしょ。室井さんの部屋に泊めてあげてくださいよ」
不意に冷静な思考回路が戻ってくる。
室井は青島を連れて帰るのが嫌なわけではない。
一晩くらい止めてやるのもやぶさかではない。
それくらいの好意は青島に対してあった。
だが、今この場で、室井がそうしなければならない理由がない。
青島の同僚が何人もいることだし、キャリアの室井がそうするより彼らに任せた方がずっと自然だ。
「君たちで面倒をみてやった方が良いだろう」
室井がそう言うと、すみれが嫌そうな顔をした。
「私の部屋に連れてくなんて、やーよ」
本当に嫌そうに言う。
もちろん、室井だってすみれに連れて帰れとは言っていない。
二人の仲が良いのは知っているが、そういう関係ではないことも知っている。
それ以前に、上司として、異性を部屋に泊めるよう勧めるのもおかしな話しだ。
「君に連れて帰れとは言ってない。他にもいるだろ」
「う〜ん、まぁいますけどね…」
すみれは考えるような仕草で面子を見渡す。
和久は相変わらず若い刑事を捕まえて楽しげに説教をしていたが、大分赤ら顔で呂律が怪しい。
和久に青島を背負って帰れというのは酷だろう。
第一、腰が悪いことを理由に断られるに決まっている。
「こんな青島君を預けるとなるとねぇ」
すみれが呟くから、なんとなく視線を落とす。
室井の胸に寄り添ってうつらうつらしている青島がいた。
幸せそうな顔に、室井の頬が強張る。
どうしてこんなことになっているのかいまいち釈然としないが、腹を立てているわけではなかった。
どうしたらいいのか分からないだけである。
「室井さんがどーしても嫌なら、真下君にでも任せるけど」
仕方なさそうに言うすみれの声に、室井は真下を見た。
机につっぷして、既に鼾をかいている。
「…あれは、誰かを任せられる状況なのか?」
「むしろ、誰かに任せたい状況ね」
すみれがのん気なことを言う。
それでいてどうやって青島を任せようというのか。
室井は幾度目かの溜息をついた。
「私が潰したようなものだから、責任を持って連れて帰ろう」
青島は勝手に酔いつぶれたのであって、室井が無理矢理飲ませたわけではないから室井のせいではない。
責任を取らなければならないとは思っていないが、だからといって見捨てていくのも忍びなかった。
そう思う程度に、彼は室井にとって大事な人だった。
すみれはニコリと笑った。
「そっ。じゃあ、お願いしまーす」
面倒事を室井に押し付けてすっきりした顔をしているすみれに眉を寄せつつ、室井は青島の肩を抱いた。
「青島、歩けるか?」
「…んー」
意味を成さない返事が帰ってくる。
覗き込んで見れば、目を閉じたままだった。
抱きかかえていくこともできないことはなかったが、できることなら自分の足で歩いてもらいたかった。
「寝るんじゃない」
「ん〜〜〜?」
「もう少しでいいから起きててくれ」
しつこく声をかけると、青島はようやく顔をあげた。
「起きてますよー…」
起きたの間違いだろうと内心で突っ込みながら、室井は青島の肩を支えて立ち上がった。
青島を押し込むようにタクシーに乗ると、室井の自宅に向かう。
さすがに青島も目を覚ましていたが、フラフラと身体の位置が定まらない。
見かねた室井は、青島の頭を引き寄せると自分の肩を貸した。
「室井さん…?」
ぼんやりとした青島の視線がぶつかる。
それが妙に頼りなげに見えて、室井は苦笑した。
「寄りかかってろ、頭ぶつけるぞ」
すぐに青島は嬉しそうな笑みを見せた。
「ありがとうございます〜」
「いや」
「あれ?どこ行くんですかー」
タクシーの中だということにようやく気付いたらしい。
「帰るんだ」
俺の家にとはなんとなく言い辛くて、そう答えた。
「やーですよー」
青島がぐりぐりと室井の肩に額を押し付けてくる。
普段の彼なら、室井に対してこんなことは絶対にしない。
いくらキャリアと所轄刑事とは思えないほど親しい間柄でも、ここまで気安い関係ではなかった。
他の刑事と比べると圧倒的に気安いが、青島なりに年上の上司に対する礼儀を持って室井に接してくれていた。
そんな相手に、甘えるような仕草をされては室井も困る。
ただ、不思議なことに、不愉快なわけではない。
対処に困っているだけだった。
「青島」
困りながら名前を呼ぶと、青島が子供のように主張した。
「まだ帰りません、もっと飲みたい」
「君は酔っ払ってる、もうやめた方がいい」
「室井さんと一緒に飲むんです」
駄々を捏ねていると言って差し支えないが、どうしたことかそれすら不愉快ではない。
自分と一緒に酒が飲みたい、と訴えてくる青島を可愛いとすら思った。
男に対して可愛いもなにもない。
そう思わなくもないが、彼の知らない一面を見たような気がして、悪い気分ではない。
懐いてくる後輩を「可愛く」思うような感情は自分にもあるのだなと思うと、それはそれで自分の知らない一面でもあり、やっぱり悪い気分ではなかった。
「また、いつでも飲めるだろ」
室井が苦笑してそう言うと、青島は問いかけるように室井の目を覗きこんだ。
「いつでも?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
青島の大きな目が、一瞬にして三日月になる。
何がそんなに嬉しいのか幸せそうに微笑んでいる青島が、酷く可愛く見えた。
それはついさっき青島に対して感じたばかりの感情と同じはず。
だが、どういうわけか、同じではないような気がして室井は焦った。
もっと衝動的で、もっと本能的な何かが―。
「約束っすよっ」
青島に声をかけられて、室井はハッとした。
急に何を考えていたのか分からなくなる。
目の前の青島に「また飲もう」という約束を要求されていることだけは理解し、頷いた。
「ああ」
それで青島は安心したらしく、再び室井の肩にしっかりと頭を預けて目を閉じた。
室井は黙って、窓の外に目を向けた。
―思ったより、俺も酔っ払ってるな。
思考が怪しいのは自身も酔っているせいだと苦笑して、それ以上考えることをやめてしまった。
事実、この時の違和感を、室井は翌日覚えていなかったのだから、室井自身酔っていたことには違いなかった。
可愛いというよりは愛しいと感じていたことに、室井は気付いていなかった。
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