翌日は真下の部屋から真っ直ぐ署に向かい、仕事が終わると早々に帰宅した。
睡眠不足だし、精神的にも疲れていた。
真下とのキスなどものの数にもならないが、自分からしたくてしまったことが悔やまれた。
舌までいれて、やる気満々である。
真下に「ああやって室井さんを誘うんですか」とからかわれれば、赤面する思いである。
当分酒は控えようと思いながら自分の部屋に入り、少しの違和感を感じた。
一瞬なんだか分からなかったが、部屋が少しだけキレイになっていた。
それは間違い探しをする程度の違いである。
昨日の朝斜め読みして投げ出した新聞がキレイに畳まれてあり、テーブルの上にあったはずの飲み掛けのコーヒーカップがなくなっている。
その代わりに、テーブルの上に置手紙が一枚。
青島はそれを手に取った。
『時間ができたから勝手に来ていた。
帰らなかったから、勝手に帰る。すまない。
夜勤だったのか?ちゃんと休養をとって、食事もするように。
近いうちに、また会おう。 室井』
青島は疲れた気持ちが、更に沈んでいくのを感じた。
夕べ、室井が会いに来てくれていたのだ。
知っていれば真下となんか飲みに行かなかったのにと、薄情な考えが浮かぶ。
青島だって、室井に会いたかった。
しかも、室井がこの部屋で一人で青島の帰りを待っていてくれた頃、青島が何をしていたのかといえば―。
「なんだよもぉ、俺のばかぁ」
思わずぼやく。
ぼやいたところで、所詮自業自得でしかない。
青島は置き手紙をテーブルに置くと、携帯電話を取り出した。
リダイヤルで呼び出した番号は、もちろん室井の番号だ。
会いたいとか謝りたいとか声が聞きたいとか、そんな単純な思いで電話をかける。
しばらく呼び出し音が続いたが、ほどなくして室井の声がした。
『はい』
「あ、青島です、お疲れ様です」
『お疲れ様、夕べはすまない』
勝手に来て勝手に帰ったことを謝っているのだろうが、青島には室井に謝られる覚えが一つもない。
見えもしないのに、慌てて首を振る。
「いや、こっちこそすいませんでした」
『俺が勝手に行ったのだから、気にしないでくれ』
「でも、俺も会いたかった」
理由になっていないし、「でも」の意味も分からない。
後悔の念で気ばかり焦っている青島に、室井は柔らかい声で言った。
『そっか…それならよかった』
その声を聞いたら、益々会いたくなって仕方ない。
近いうちに会えないかと聞こうと思ったが、先に室井が口を開いた。
『夕べは夜勤だったのか?』
「いや、あの、…友達と飲んでて」
不意の質問に咄嗟に答えて、自身の口から出た言葉に驚いた。
―真下とって言えばいいじゃん。
なにも真下と酒を飲んだことまで隠す必要はない。
―なんで隠してんの、俺。
真下と酒を飲み、酔い潰れて、真下の部屋に泊まったと言えば良かったのに、後ろめたさからか口を付いたのは曖昧な言葉だった。
『朝まで飲んでたのか?』
呆れたような室井の声に、また咄嗟に返事をしてしまう。
「酔い潰れて、友達の部屋で寝てました」
言いながら、青島は困った顔になる。
嘘ではない。
嘘ではないが、ありのまま全てを伝えているわけでもない。
『…全く、君は』
溜息交じりに呟くが、怒っている様子はなかった。
『あまり飲みすぎるなよ』
身体に良くないし仕事に響く、と少々お説教っぽい口調で注意をされるが、青島の言葉をそのまま受け取っているようだった。
尚更、青島の表情が曇る。
やましいことなどありはしないのに、それは自信を持って言えるのに、嘘ではないにしろ室井に隠し事をしている。
それが酷く気持ちが悪かった。
『青島?聞いてるのか?』
「あ、ああ、聞いてます聞いてます、気をつけます、はい」
『…なら、いいが』
慌てた青島の声に、室井が苦笑している。
その声が温かく感じて、青島は思わず言った。
「会いたいです」
『青島?』
とっさに誤魔化して言った言葉は今更訂正もできないが、その分せめて全力で室井に愛情を伝えたい。
「なるべく早く、会いましょうねっ」
青島の意気込みの意図など知る由もないのだろうが、室井もそれに応じてくれた。
『必ず』
次に会う時には精一杯愛しあおうと、青島は勝手に心に誓った。
電話を切った室井は、苦笑していた。
青島も子供ではないから、酒の飲み方にまで口を挟むつもりはないが、酔い潰れるまで飲むのはどうかと思う。
それこそ子供じゃないのだが、自分の酒量くらいは覚えておくべきだろう。
だが、たまにはハメをはずしたくなる気持ちは分からないでもないから、強くも言えない。
―仕方のないヤツだ。
そう諦めて、苦く笑うしかない。
ただ一つだけ後悔していた。
「…遠慮しないで、電話すれば良かったな」
思わず、一人呟く。
夕べ電話するだけしておけば、きっと早めに切り上げて帰って来てくれただろう。
夜勤だったのかと思っていたし、突然勝手に来たのだからと遠慮したが、勿体無いことをした。
今夜は青島は空いていたようだが、生憎と室井はまだ本庁にいた。
今日は遅くまで帰れそうにない。
携帯電話を胸ポケットにしまい、再び歩き出す。
一休みしようと、喫煙所に向かうところだった。
煙草は吸わないが、喫煙所には自動販売機がある。
喫煙所に向う途中で青島からの電話があり、人気のない廊下に少しだけ立ち止まって話をしていたのだ。
青島の声を聞いて気分転換にはなったが、コーヒーが飲みたかったのでそのまま喫煙所に向かう。
喫煙所には、先客がいた。
見知った顔が二つ。
「笑い事じゃないんだよ、小池君」
情けなくぼやくのが真下で、肩を震わせて笑っているのが小池である。
室井はなんとなく足を止めた。
「だって課長があんまりにも情けないから」
小池は言いながらも、笑っている。
―あの小池君が明るくなったのは、やはり真下君のせいだろうか。
室井が言うのも何だが、以前の小池は、何か楽しいことはあるんだろうかと余計なお世話にも心配したくなるほど暗かった。
真下の元についてからというもの、別人のように明るくなった。
交渉課準備室の課長である真下のカラーが、職場に影響を及ぼしているのかもしれない。
いささか頼りない課長ではあるが、真下の無駄な明るさとシリアスに向かない思考回路が、上手く作用することもあるのだろう。
実は小池が警察官としての自覚と誇りを持ったことに、少なからず室井が影響していたことを、室井本人は知らなかった。
なんにせよ、明るくなることはいいことだ。
小池にとっても悪いことではないだろうと、室井は思っていた。
「笑い事じゃないんだってば」
更に嘆く真下の言葉を聞きながら喫煙所に入ろうとして、続いた真下の言葉に足を止める。
「室井さんに知られでもしたら」
自分に知られたら困ること。
つまり、何かしら室井にとって良くない話題を真下が持っているということだ。
室井の眉間に皺が寄る。
立ち聞きしたいわけではないが、どうしても気になった。
「別に課長が悪いわけじゃないでしょう」
打ちひしがれている真下に小池は苦笑している。
「どっちかと言えば、被害者だ」
「そうそう、そうなんだよ、そうなんだけどね」
「それでも室井さんが怖いんですか」
呆れたような小池の声を聞きながら、室井は首を傾げた。
真下が室井を怖がる理由が思い当たらない。
権力に弱い彼なりに敬意を持って接してくれていることは室井も知っているが、怖がられている覚えは無かった。
「まあ、青島さんが絡むと熱い人だって噂は聞いたことありますけど…」
小池の一言に、室井の眉が寄る。
そんな噂が立っていること自体驚きだが、それよりも今ここで青島の名が出るということは、青島が原因で室井を怒らせるようなことが真下の身に起こっているということだ。
「先輩とは忘れようってことで話はついてるんだけどさぁ」
室井はゆっくりと二人に近付いた。
「全く災難だよ」
「なにがだ」
声をかけたら、真下が軽く飛び跳ねた。
それくらい驚いたらしい。
小池も目を丸くして室井を見ている。
すぐに二人の顔が強張ったから、今の室井がどんな表情をしているか想像に難くない。
だからといって、室井にはそんなことに構っている余裕は無い。
「なにがだ?」
繰り返し尋ねると、ようやく真下は口をパクパクさせて言葉を探し始めた。
「む、室井さん、いや、あの」
視線を泳がせる真下を、ぐっと見つめる。
力が入りすぎて、ほとんど睨みつけるような強さだった。
「何が災難なんだ?真下警視」
なんとか室井に視線を合わそうとしていた真下だが、耐え切れなくなったのかあからさまに視線を逸らした。
「真下警視」
もう一度呼ぶと、すぐに「はいっ」と返事をし立ち上がり、今にも敬礼しそうな勢いだ。
威圧するだけの力が篭っていたのだろう。
室井はそのまま、もう一度繰り返した。
「何が災難だったんだ?」
言外に「言え」と命令しているのと同じだった。
逡巡する真下が小池を見たが、小池は肩を竦めるだけである。
余計な口を出して飛び火でもしたら困ると思っているのかもしれない。
助けはないと知ると、真下は室井に視線を戻した。
室井はずっと真下から視線を逸らさない。
視線の強さに逃げられないことを悟ったのか、真下の眉が情けなく八の字になった。
「じ、実はですね…」
真下は観念して、全てを話し出した。
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