青島は報告書を前に、ペン回しをしていた。
つまりちっとも捗っていないということである。
元から苦手な報告書ではあるが、今は頭が別のことを占めているから、余計に書けない。
青島は渋面になりながら溜息を吐いた。
先日の室井とのキスが頭から離れない。
―…なんて、俺はどこの乙女だ。
自分で自分に頭痛を覚え、頭を抱えた。
あれから数日経っている。
それなのにやけに生々しい感触が、唇に残っている気がするのだ。
覚えているというより、忘れられないでいるといった方が正しいのかもしれない。
青島は無意識に自分の唇に触れて、気付いては赤面した。
ここ数日、何度も繰り返している。
さすがにまずいと思った。
室井とのキスが忘れられないなんて、大問題である。
「せんぱ〜いっ」
聞き覚えのある情けない声に、白紙の報告書を眺めていた青島は顔を上げた。
案の定、警視庁初のネゴシエーターがいる。
「真下?なんでこんなとこにいんだよ」
「そんな冷たい言い方しないでくださいよ」
「お前、ちゃんと仕事してんの〜?」
「そんなことより、先輩」
空いている和久の席に腰を降ろすと、足で椅子を動かしながら近付いてくる。
その勢いに押されて、青島は軽く身を逸らした。
「な、何よ」
「とうとう室井さんに身も心も奪われたって本当ですかっ」
一瞬辺りが静まり返り、青島も頭が真っ白になる。
が、すぐに頬を染めた。
「バ、バカ、お前、何言ってんの、バカじゃないの」
焦りすぎて、ろくな言葉が出て来ない。
―み、身も心もってなんだよ。どっちもどうにもなってないよ。
突っ込みどころ満載な真下の発言に、赤くなるやら青くなるやらだ。
大体「とうとう」とは、どういう意味なんだと思う。
「え?だって聞きましたよ?先輩が室井さんと…」
「だから、あれは酔っ払って」
「ええ!酔った勢いでエッチしちゃったんですか!」
とんでもない誤解に目を剥くと、青島は耳まで染めた。
「キスしかしてないよっ」
叫んで、ハッとする。
いくつもの目と耳がこちらに向いていたからだ。
目撃者がいっぱいいたため、あの日のことは署内では有名な出来事になっている。
もちろん笑い話になっているのだ。
だからといって、わざわざ自分で宣言することではない。
―室井さんとキスしたなんて…。
声に出して再確認するようなことではない。
「っ」
青島は真下の腕を掴むと、引きずるように刑事課を出た。
喫煙室に入ると真下の腕を離し、青島は疲れたようにソファーに身を投げ出した。
「で?どうなんですか?」
隣に腰を降ろした真下が、また詰め寄ってくる。
「どうって……だから室井さん、酔っ払ってたんだってば」
「室井さんが酔っ払ってたということは、まさか先輩から押し倒したんですか!?」
「だから、ヤってないってっ」
うんざりしながらも、こればかりは室井の名誉のためにも、きっちり誤解を解いておいてやらねばならない。
この口の軽いネゴシエーターが、こんな噂を本庁に持って帰ったら大変なことになる。
青島は言わば被害者だが、何故か室井の名誉を守るために必死になっていた。
「室井さん、ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで……その、酒に飲まれちゃったというか、不可抗力というか、本意じゃないというか」
しどろもどろになりながらもあの日のことを説明すると、真下も半信半疑にだが頷く。
「はぁ…室井さんが酒癖悪いなんて、それはまた意外な……んで、先輩は唇を奪われちゃったわけですね?」
「奪…」
真下の物々しい言い草に、青島は呆れた顔をした。
「んな、大層なもんかよ、男の唇なんて」
「先輩、隙だらけだからなぁ」
人の話を聞いているのかいないのか、真下は一人納得している。
ムッとして反論しようとした青島を遮って、真下は続けた。
「僕はねぇ、これでも心配してるんですよ?」
溜息交じりに言われて、青島は眉をひそめる。
「な、何をだよ」
「先輩の貞操です」
「……あ?」
何を言われたのかすぐに理解できず、青島はポカンと口をあけてマヌケ面を晒した。
そんなことは気にも止めず、真下は一人ペラペラと喋り出す。
「雪乃さんも心配してますよ?先輩、抜けてるようでしっかりしてるとみせかけて、やっぱり変なところ抜けてるから」
大分失礼な分析である。
「そりゃあ、先輩が好きな相手とそうなるなら構いませんけど、先輩鈍いですから、流されて絆されて気付いたら…なんてことにもなりかねませんし」
一応本当に心配してくれているのかもしれないが、好き勝手なことを言う真下に渋面になる。
「俺は流されもしないし、絆されもしないよ」
露骨に疑わしげな視線を向けられて、青島は真下にデコピンをかましてやった。
「あいた」
「大体、流されて人なんか好きになれないでしょ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。お前、好きでもない人とキスして、興奮するか?」
そりゃあそうですけど…とブツブツ零す真下を後目に、青島は自分自身の言葉に絶句した。
「先輩?どうしたんです?」
「…え?」
「顔、真っ赤ですけど」
青島は片手で口元を覆った。
触れなくても、自分の顔が熱を持っていることは良く分かった。
青島は慌てて立ち上がる。
「悪い、用事思い出した」
そう言って、驚いている真下をおいて、青島は早足で喫煙室を後にした。
好きでもない人とキスをしても、興奮しない。
自分で言った言葉に酷く驚いた。
それならあの時、室井にキスをされた時に感じた快感はなんだったというのか。
青島も酔っ払っていたからだろうか。
気分が高揚していたから、室井の唇に反応してしまったのだろうか。
―それとも…。
青島は真っ赤な顔のまま、署内をうろうろしていた。
刑事課にはまだ戻れない。
動悸が治まるまでは、戻れそうに無かった。
屋上にでも避難しようかと思い階段を昇り、ふと、踊り場の窓から外を見る。
いつも人の出入りの多い湾岸署らしく雑然としている玄関前を眺め、青島は硬直した。
門の辺りに見慣れたコートを見付けて、目を剥く。
一拍おいて、青島は何も考えずに走り出した。
「室井さん!」
青島が声をかけると、室井は目を見張ったが、すぐに気まずそうに目を伏せた。
頷くような小さな礼をくれるから、青島も慌てて返す。
「どうしたんです?こんな所に突っ立って…」
「いや…」
「うちに、用事ですか?」
「いや……」
室井は眉を寄せたまま、押し黙ってしまった。
これは間違いなく、用事があるのは青島だろう。
青島は異常に早く脈打つ鼓動に気が付かないふりで、笑みを作った。
「もしかして、用事あるの、俺にですか?」
室井の表情が益々強張る。
嘘がつけないから、誤魔化すこともできないのだ。
青島はわざとに声を立てて笑った。
深刻になって重たくするようなことではない。
ないはずだった。
「酒の席でのことですから、気にしないでくださいよ〜忘れて忘れて」
苦しそうに表情を歪める室井の顔から、後悔が見て取れた。
青島に向かって深く頭を下げる。
「申し訳なかった」
青島は慌てて、室井の肩を掴んだ。
「やめてくださいよ、そんな大したことじゃ…」
なかったはずだと青島自身思っている。
室井に改めて謝ってもらうほどのことではない。
たかがキスである。
女の子のファーストキスでもあるまいし、酒の勢いでされたところで痛くも痒くもない。
―なのに、いつまでも忘れられない俺がおかしいんだ…。
室井の肩を掴んだまま言葉をなくした青島に、室井は少し不安そうに顔をあげた。
思わぬ顔の近さに、青島はハッとすると慌てて身体を離した。
自然と頬が熱くなる。
すぐ耳元で心臓が鼓動を打っている気がする。
室井が少し驚いた顔で青島を見つめていた。
青島は直視できなくて、視線を逸らした。
―俺…なんで…。
自分で自分自身の行動が信じられない。
室井を見ていて動悸がするなんて、それではまるで―。
「…すまない。本当に申し訳ないことをした」
また謝られて、青島は慌てて首を振る。
「だから、本当に気にしないでいいんですってば。忘れてくださいよ」
「いや、その、実は、覚えていないんだ」
一瞬の間の後、青島は逸らしていた視線を室井に向けた。
「その、あの日の記憶が途中からないんだ」
酷く気まずそうな表情で、室井は言った。
「一倉から大体の話を聞いて…自分の酒癖も知っていたから事実なんだろうとは思うのだが、その、俺は、君に…」
最後の方は本当に言い辛いそうに、言葉を濁した。
青島は呆然としたまま、何とか口を動かした。
「室井さん…覚えてないの?」
「す、すまない」
「何にも?」
「君と隣の席で酒を飲んでいたことは覚えているのだが…」
冷や汗でも掻きそうな勢いの室井に、青島はそれが事実なのだと悟る。
一気に気が抜けた。
―そうか。
―覚えてないのか、室井さん。
―なら、忘れるまでもないよな。
―記憶にないんだから。
「あ、青島、やはり怒っているだろうか…」
急に黙り込んでしまった青島に、室井がそっと声を掛けてくる。
視線を向けると、心配そうな不安そうな眼差しで見つめていた。
青島はニコリと笑って、首を振る。
「まさか。怒るほどのもんじゃないですよ」
「しかし…」
「室井さんが覚えて無いなら、話は早いです。何もなかったってことで、忘れましょうよ」
その方がお互いにとっても、いいに決まっている。
室井は覚えてもいない青島とのキスを、青島に悪いという理由で引きずるだろう。
そんなことは、青島は望んでいない。
複雑な表情を浮かべている室井に、青島は小首を傾げて見せた。
「ね、そうしましょう!何もなかったーってことで、ね?」
あのキスを無かったことにしてしまえば、何の問題もない。
室井が覚えていないのだから、後は青島が忘れてしまえばいいだけのこと。
―そんなこと、簡単だ。
生真面目な性格がわざわいしてか、室井は難しい表情を崩さなかったが小さく頷いた。
「…そうだな、その方がいいのかもしれない」
「はい。じゃあ、そういうことで!」
青島は手を挙げると、室井に軽く敬礼した。
「さて、俺は仕事に戻ります。室井さんも、戻った方がいいですよ」
「あ、ああ…」
「また機会があったら、一緒に飲みましょうねっ」
返事も聞かずに室井に手を振って、青島は署内に戻っていった。
「青島君?」
玄関に入ったところで、すみれに呼び止められる。
「何?すみれさん」
「何?じゃないわよ。どうしたの?」
「だから、何が」
「何か泣きそう」
言われて、青島は驚いた。
慌てて頬に触れる。
自分が泣きそうな顔をしているなんて、思いもしなかった。
「何にも無いよ…別に」
「嘘、誰かに苛められた?」
小学生に聞くような質問に、青島は思わず笑みを零した。
そのせいで変に震えた唇で、すみれの言ったことが嘘じゃないことが分かる。
眉を寄せ唇を噛むと、少し考え込んだすみれが両手を広げて見せた。
「仕方ない。胸、貸してあげるから、泣いてもいいわよ」
青島は一瞬きょとんとして、それからやっぱり笑ってしまった。
「高そうだから、いらない」
「あら、同僚には安くしておくわよ」
「……胸は勿体無いから、肩貸して」
ぽつりと呟いて腰を曲げると、すみれの肩に額を乗せた。
小さな溜息が耳元できこえる。
「仕方が無いから、肩はただで貸してあげるわよ」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。
青島は泣いてはいなかったが、顔を上げずにすみれに感謝した。
室井が覚えていなくて、良かったのだ。
生真面目な人だから、きっと青島よりも引きずる。
青島だったら、酒の席のことだからと割り切れるし、笑って許せる範疇である。
だからこれで良かったのだ。
―あの日のキスはなかったことに。
それで、良かったはずだった。
それなのに。
室井は覚えていなかった。
青島が忘れられなかったキスを。
忘れるどころか、覚えてすらいなかったのだ。
それにショックを受けて、青島は漸く気が付いたのだ。
―俺は、室井さんのこと…。
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