■ キスの意味(後編)


「これはこれは室井管理官っ」
袴田が電話口で頭をペコペコとさげた。
青島はそれをちらりと見て、聞き耳を立てる。
「はっ、これからですか?はい、分かりました。お待ちしております」
袴田がそう言うのを聞くと、青島はさりげなく席を立った。
いつも騒々しい刑事課だから、こそこそと青島が出て行っても気付かれないことの方が多い。
青島は、そのまま刑事課を出る。
室井には会いたくなかった。


キスしたことを覚えていなかったからといって、幻滅したわけではない。
そんな乙女な思考回路は、青島だって持ち合わせていない。
あれは、酔っ払ってのことである。
室井が覚えていないのも無理のないことだと思うし、それ以前に覚えていて意味のあるキスではなかった。
言わば、あれは事故にすぎない。
青島もそう思っていた。
そのはずなのに、青島にはどうしても忘れられなかった。
青島にとってだけは、意味のないキスではなかったということだ。


特に急ぐ用事でもない聞き込みにでかけることにして、青島は湾岸署を後にした。
―室井さんだって過ちでキスした男に惚れられたりしたら、気持ち悪いだろうし。
歩きながら、自嘲する。
キスされたから惚れたわけではないが、キスされなければ気付くことはなかったかもしれない。
自分の気持ちに気付いてからは、室井を意識して避けるようになった。
気持ちを整理できるまで、顔を合わせたく無かったのだ。
青島もいい大人だから、会えば何事もないように振る舞う術くらいは身につけている。
だけど、胸が痛まないわけじゃない。
鈍感な青島だって、自分の身は可愛かった。
傷口は広げたくないし、できればこのまま何事もなかったように塞いでしまいたかった。
「…いつになったら、平気になるかなぁ」
嫌味なまでに快晴な空を見上げながら呟いて、苦く笑った。





刑事課に戻った青島は、いきなり袴田に腕を掴まれて目を剥いた。
「な、何ですか」
「何ですかじゃないよ、どこに行ってたんだっ」
「どこって聞き込みですけど…それより、なんすか一体」
「全く、君はまた何をやらかしたのっ」
「は?や、だから、何が…」
何を責められているのか分からずに目を白黒させていると、反対の腕を魚住にとられる。
「取調室に、お客様がお待ちだよ」
「お客さん?…え?取調室?」
青島はいきなり不安になった。
―最近は大人しくしてるよなぁ。特に問題も起こしてないし、取調されるような真似は…。
などとあれこれ考えているうちに、二人に挟まれたまま取調室の前まで連れてこられてしまう。
「くれぐれも粗相のないようにねっ」
袴田に睨まれて、怒られる身に覚えのない青島は渋々と頷いた。
「失礼しまーす」
断ってからドアを開ける。
開いたドアから中を覗いて、青島は呆然とした。
「室井さん…」
取調室の中には、室井がいた。
難しい顔で、椅子に座っている。
青島が外出して結構な時間が経っていたから、もうとっくに帰っていると思っていた。
会いたくない人がそこにいて困惑するのと同時に、不安にも思う。
室井に待たれていた理由が分からない。
やっぱりいつの間にか何かを仕出かしたのかもしれないと思った。
「…かけてくれ」
青島は逡巡したが、まさか回れ右するわけにもいかない。
素直に室井の向かいに腰を降ろした。
室井は余程言いたいことでもあったのか、青島が切り出すまでもなく、口を開いた。
「こんなところですまない。君に聞きたいことがあると言って、袴田さんに頼んでここで待たせてもらった」
「…俺、また何かしました?」
恐る恐る尋ねると、室井は難しい表情のまま首を振った。
「そうじゃない……こうしないと会ってもらえないと思っただけだ」
真っすぐな視線に射ぬかれて、青島は身体を強張らせる。
「ここのところ、俺のことをずっと避けているだろう」
頬に赤みがさした。
―バレてた。
だけど、認めてしまうわけにはいかない。
認めたら、理由も話さなくてはならないからだ。
青島は笑みを作った。
「そんなことするわけないでしょ」
「嘘だ」
「嘘じゃないですって」
「今日だって俺が来る直前まで刑事課にいたと袴田さんに聞いた」
あのおっさんは余計なことを…と心の中で罵る。
が、袴田が悪いわけではなかった。
「それに今日だけじゃないだろ」
室井に睨まれているんじゃないかと思うほど強い眼差しで見つめられる。
「そんなこと」
「キスのこと、怒っているのか?」
不意をつかれて赤面する。
前に謝罪に来た時は、躊躇って濁してはっきりと言葉にしなかった。
吹っ切れたのか自棄になっているのか知らないが、室井は今度はきっぱりと言葉にした。
「酔っ払っていたからなんて、言い訳する気はない。本当にすまなかったと思ってる」
室井の真摯な謝罪が、青島には余計に悲しかった。
謝って欲しいわけではない。
怒っているわけでもない。
室井が覚えてもいないキスで気持ちに気付かれされたことは悲しかったが、それで室井を責めるほど子供じゃない。
青島はただ、そっとしておいて欲しかっただけだった。
「たかが、キスでしょ?いつまでも根に持ったりしませんよ」
室井から視線を逸らし、頭を乱暴に掻く。
「…なら、何故避けるんだ」
抑えてはいるが咎めるような室井の声に、青島もイライラしてくる。
悪いのは青島ではない。
青島が室井を避けているのはキスのせいではないので室井が悪いわけでもないが、青島が責められる筋合いのことでもなかった。
傷ついているのは、青島の方だ。
言葉にしなければ伝わらないのだから、室井に分かるわけもない。
だけど青島も分かって欲しいと思っているわけではない。
そんなことは望んでいないのだ。
分かってくれなくてもいいから、もうそっとしておいて欲しかった。
室井と一緒にいても胸が痛まなくなるまで、触れないで欲しかっただけだった。
「避けてないって言ってるでしょ」
「そうは思えないから、聞いてるっ」
「しつこいなっ」
「…っ」
室井はテーブルに乱暴に両手をついて、立ち上がった。
「俺はあんなことくらいで、君と物別れしたくないっ」
目を丸くして見上げた青島に、室井は眉間に皺を寄せて続ける。
「非があるのは俺だ。そのことに関しては開き直るつもりはない。だけど、図々しい願いだが、許して欲しい。償いはするから」
どこまでも真剣な室井に、青島はイライラした気分も忘れて、口をポカンと開けたまま室井を見上げた。
たかが、キスである。
しかも青島みたいないい年をした男に対するキスだ。
それをまるで、女の子の初めてを奪ったかのように、償いまですると言う。
それは全て、青島とこれっきりになるのが嫌だからだ。
約束があるからかもしれないし、室井が生真面目だからにすぎないかもしれない。
それでも、青島の心を動かすには充分だった。
―敵わないなぁ。
惚れた方が負けなのだと良く聞くが、惚れてなくたってこの男にはきっと勝てない。
そう思いながら、青島は苦笑した。
「償うっていうことは、何でもしてくれるんですか?」
室井はハッとしたように、慌てて頷く。
「ああ……俺にできることしかしてあげられないが、できることなら何でも」
らしい答えに、青島はニヤリと笑った。
「じゃあ、もっかいキスしてください」
目を剥いた室井が、そのまま硬直する。
その顔が面白くて、青島は破顔した。
「じょーだんですよっ」
笑いながら席を立つ。
「男同士のキスなんて、そんなふうに冗談ですませられることなんですよ〜」
室井に視線を向けると、まだ固まったままだった。
青島は少しだけ切なく微笑んだ。
「大丈夫。もう、避けたりしませんから」
軽く頭を下げて、ドアに向かった。
―本当は。

本当は、丸きり冗談だったわけではない。
今したら、きっと室井も忘れない。
それがどんなふうに室井の心に残るかは分からない。
それでも、どんな形にせよ、青島とキスしたことはきっと忘れない。
そうなればいいと、少しだけ真剣に思った。

―意味はないけどね。
自嘲しながら青島がドアノブに手をかけると、背後から肩を掴まれる。
「…?」
何事だろうと思いながら振り返った青島は、至近距離にあった室井の顔にぎょっとした。
掴まれた肩を力いっぱい引かれて、身体の向きを変えられる。
そのまま背中をドアに押し付けられた。
「ちょ、何…っ」
室井の身体を押し退けようとした青島の手を取ると、室井はそのまま青島の唇を塞いだ。
もちろん唇で。
「!」
青島は目を剥いた。
今は酒の席ではない。
湾岸署の取調室で、自分に触れているのは室井である。
当然どちらも酔っ払っていない。
素面である。
素面で素面の室井とキスをしているのだ。
それを理解すると、青島は真っ赤になった。
抵抗するべきか迷って、室井に掴まれた手をぎこちなく動かしたが、逆に握りしめられて、尚更頬が熱くなる。
―なんで。
―どうして。
―なんで。
青島が動揺のあまり固まっているうちに、室井の舌が口内に侵入してきた。
青島は眉を寄せて躊躇ったが、長くはもたなかった。
目を閉じると自分から唇を開いて、室井の舌を求める。
室井の手を握り返して、口内を愛撫する舌に応じる。
青島が反応を返したせいか、尚更キスが激しくなった。
握った手はそのままで、空いた腕が青島の首筋に回される。
青島は片手を室井の背中に回し、スーツをキツクにぎりしめた。


「何…考えて……」
何とかそれだけ口にした青島に、室井は言った。
「君がしてくれと言ったんだ」
そうか…、と青島は納得する。
確かにその通りだ。
青島がしてくれと頼んだのだ。
室井は青島の願を聞いてくれただけ。
青島は呆然としたまま、それを理解した。
両頬を室井の手に包まれて、ビクリと身を硬くする。
「そんな卑怯な言い訳する気はない」
だからそんな顔しないでくれと囁かれて、頬を撫ぜられる。
どんな顔をしていたのか青島には分からなかったが、室井の優しい眼差しに何故か目の奥が熱く感じられた。
「室井さん?」
掠れた声に、室井は苦く笑う。
「俺がしたかったからしたんだ」
「……何を?」
鈍いのではなくて信じられなかったから、聞き返した。
室井は苦笑を深める。
「君に、キスしたかったから、したんだ」
噛み砕くように言われて、ゆっくりとその言葉を理解する。
理解すると、激しくうろたえた。
「え…ええっ?な、なんで…っ」
「理由なら、ちゃんと話す」
だけどその前にと言って、室井が顔を寄せてくる。
「もう一度、してもいいか?」
とっさに言葉がでなかったが、再び近づいてくる室井に「これは夢かもしれない」などと思いながら、青島は瞳を閉じた。
キスの後、青島抱き寄せたままで室井が一言だけ囁く。

ずっと、君が好きだった。





「ずっとって、いつからだったんですか?」
湾岸署からの帰り道。
隣を歩く室井に聞いてみた。
「もう、随分前だ」
横目でちらりと見ると、室井は真っ直ぐ前を見たまま、少し眉を寄せていた。
青島の視線に気が付いたのか、こちらを振り返る。
「全然気付いてなかったろ」
気まずそうに頷くと、室井は苦笑した。
「そうだろうと思ってた」
「仕方ないでしょ。自分の気持ちだって……キスされて気付いたんだ」
青島がそう言い訳すると、今度は室井の方が気まずそうに視線を逸らした。
気持ちを通わせたって、後ろめたいことには変わり無いらしい。
恐らく「覚えていない」ことが、室井の心にも引っかかっているのだろう。
「悪癖があるのは自分でも知っていたから、いつも自制して飲んでいるんだが」
「この間は飲み過ぎちゃったんですか?」
「いや…」
横目でまた青島を見て、室井は眉を寄せた。
「緊張してたから酔いが早かったんだ」
「え?」
「君が傍にいたから」
静かな声に、青島の頬が染まる。
「一倉に聞いて、後悔した」
それはもう本当に悔しそうに眉をひそめて呟くから、青島は笑みを零した。
「も、いいですよ?」
覚えていて貰えなかったことは悲しかったけど、室井の気持ちを知った今、悲しむ理由はないような気がする。
青島はからかうように笑った。
「さっきのキスは忘れてないですよね?」
一瞬目を見張った室井だが、すぐに真顔で頷いた。
「もちろんだ」
「なら、もういいです」
室井との初めてのキスは色気も何もなかったが、二度めは悪くなかった。
室井の記憶に残るのは、二度めのキスで充分。
青島はそう思うことにした。
「…酔っ払って君にキスしたことも後悔したが、」
「え?」
「何も覚えていなかったことが、凄く悔しかったんだ」

確かに触れたはずの唇の感触を何一つ覚えていなかった。
二度と触れられることはなかったかもしれないのに。

「自業自得だが……忘れたくなかった」
室井の静かな告白に、青島は驚いた。
先のキスを覚えていなかったことを、室井も悲しんでいたのだ。
―なんだ…俺と一緒じゃん。
そう思うと、自然と笑みが浮かぶ。
「意味のないキスじゃ、なかったんですね」
思わず呟くと、室井が首を傾げた。
「うん?」
「はは…」
なんでもないと、笑いながら首を振る。
少し怪訝そうな顔をした室井に、青島はやっぱり笑ったまま言った。
「その分、これからいっぱいしましょうね」


これから覚えていられないほどのキスをすることになるが、二人がそれを嘆くことは絶対にない。










END

2005.11.12

あとがき


大したお話じゃないのに、時間が掛かってしまいました(^^;
最後までお付き合いくださった皆様、有難う御座いました!

室井さんの汚名は少しか返上できましたでしょうか〜?(汗)
覚えていなかったキスはやっぱり思い出せておりませんが…。
本人もいたく後悔しているようですし、許してやってくださいませ!(笑)

それにしても、かなり諦めムード満々な青島君でしたね;
ちょっとらしくなかったかな〜。

この後は、「深酒する時は俺と二人の時だけにしてください!」とか約束して、
青島君が墓穴を掘るといいと思います(笑)
酔っ払ったキス魔室井さんに自制という言葉はなさそうなので、
青島君が大変な目にあいそうです(ええっ)



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