室井は酷い頭痛を覚えた。
机に肘をついて額を手で押さえる。
「おい、シンジ」
肘が滑って、思い切り顔面を机に殴打した。
ゆっくり顔を上げると恐ろしい形相で一倉を睨み付ける。
「ナマハゲ?」
一倉の暴言はあえてシカトした。
構っているだけの余裕は無い。
「気色の悪いことを言うな」
「名前呼んだだけじゃねぇか」
「俺も呼んでやろうか」
「ぞっとしねぇなぁ」
室井は一倉を一瞥して、スピーカーに集中する。
青島の声と刑事たちからの報告と、聞き漏らさないように注意しながら。
「名前くらいで動揺するなんて、愛されてて良かったな」
「……」
室井は無言だ。
言いたいことが無かったわけじゃない。
実はあり過ぎて言葉にならなかったのだ。
当たり前だろう。
青島が愛してくれているのは、俺に決まってる。
しかし、被疑者かも知れない男が同じ名前…本名ではないだろうが。
互いに名乗りあっているわけだから、名前を呼び合うつもりなんだろう。
すると、俺ですら互いに苗字で呼び合っているというのに、その男がシンジと呼ばれ、青島はシュンと呼ばれるのか?
くだらない…くだらないことだ。
だけど、やはり面白くない。
…それにあまり「可愛い」とか、言われて欲しくない。
そんなことは俺だけが知っていればいい。
あいつが可愛いのは事実だが。
思考回路がショートでもしたのか、びっくりするくらいくだらないことが頭の中を占める。
まるで難問でも解いているのかと思わせるような表情の室井に、一倉は苦笑を浮かべた。
「くだらないこと、考えてんだろう」
室井の眉がピクリと反応する。
「事件のことだ」
「事件には変わり無いかも知れないが、どうせ青島のことばっかだろう」
室井は取り合わず、手元の資料を眺める。
部下から、青島たちがホテルに入ったとの報告が入った。
刑事たちをホテル内に潜入させ、フロントで部屋を確認させる。
部屋の傍で待機するように指示を出した。
「また違ったりしてな」
「被疑者じゃなくても、今度は麻薬取締法には引っ掛かる」
「そうだな…」
不意にスピーカーから青島のくぐもった声が聞こえた。
『…んっ…っ…ちょ…』
室井と一倉は一瞬沈黙する。
今の声は、つまり。
「キス、されてるな」
一倉の言わずもがなな一言に、室井は手にしていた書類を握り絞めてグシャグシャにしてしまった。
前回の時は室井は本部にいなかったしイヤホンで聞いていたわけではないので、青島がキスされているのを中継で聞くことは無かった。
後から青島から聞いてはいたが、そんなことは忘れるほどキスをしたので、先日の件はもういいとして。
新たに生中継されても、嬉しいわけがない。
―青島に隙があるんじゃないのか?
一瞬思ってしまって激しく自己嫌悪する。
立場上、あからさまな抵抗が出来ないことくらい、室井だって理解しているというのに。
―あいつが身体を張って仕事をしてるというのに、俺は…。
心の中で心底青島に謝罪しながらも、スピーカーから漏れる青島の声に平常心ではいられなかった。
「現場、行くか?」
見かねたのか、一倉が苦笑して言った。
「……行かない」
失敗をした前回とはわけが違う。
青島も本庁の刑事も頑張ってくれている。
自分が信じて待たないでどうする。
そういう想いが室井にはあった。
頑なな室井に、一倉は「しょうがねぇなぁ」というふうに肩を竦めた。
男の唇を受けながら、こいつらはどうしてこうせっかちなんだ!と心の中で叫ぶ。
が、良く考えてみれば,ソレ目的のナンパなのだから当然と言えば当然なのだ。
愛を語ってベッドに入る必要は全くない。
―語られたって困るしね。
青島は思いながら男の胸を押し返した。
「せっかちな男は嫌われるよ」
シンジは青島の腰を抱いたまま、微笑している。
「シュンはムードを大事にする方なんだ?」
「そういうわけじゃないけど……サルじゃないんだから、いきなり突進してこないでよ」
言うとシンジが声を立てて笑った。
「僕をサル扱いするなんて、シュンが初めてだ」
ちょっとナルシストの気があるのかもしれないと、青島は思った。
確かに整った容貌をしている。
だが瞳があまり笑わない。
それが青島には薄気味悪く感じられた。
青島は適当に男に合わせながら、少し身体を離す。
「アンタ、イイ男だもんね。サル扱いは失礼だったかな」
「いいよ。それより、名前で呼んでくれないのかい?」
意地悪く言われるが、今度はあまり動揺することなく受け流す。
「…シンジ」
一拍空いてしまったが、上出来だろう。
青島が男を見上げると、男はふっと微笑んで青島の頬に触れた。
「もしかして、その男のことが忘れられない?」
どうやら完全に元彼だと思っているらしかった。
「そ…んなんじゃないってば」
忘れる必要の無い人だ。
青島は否応なく室井のことを思い出してしまい、シンジから視線を反らした。
頬から首筋に向かって撫でられて、鳥肌が立つ。
「妬けるね…」
シンジの手が青島のネクタイを緩める。
―まずい。
室井のことなど思い出している場合ではない。
早いところ被疑者かどうか確認しないと、このままでは全裸にされたって捜査は終わらない。
「ねぇ、待ってよ」
「焦らすの、好きなの?」
からかうような口調で、シンジは青島の耳たぶを舐めた。
「シンジともそうやって寝たの?」
「…っ」
またも脳裏に室井が浮かぶ。
捜査だというのに、変な罪悪感と嫌悪感が沸いてしまう。
自分も室井も引っ掛かるモノが無いわけではないが、捜査だとちゃんと割り切っているつもりだ。
なのに、こう一々室井の存在を被疑者から引き出されると、堪らなくなってくる。
「楽しませてくれるんじゃないわけ?」
元彼の話をされて不機嫌になったように、青島は意識して膨れっ面になった。
不意にシンジが薄く笑う。
そのサディスティックな表情に、青島は少し引いた。
「そんな男のことなど、忘れさせてあげるよ」
言葉と同時にベッドに突き飛ばされた。
当たり前のようにのしかかってくる男に、思わず足が出る。
その足を手で受け止めると、シンジはまた薄く笑った。
「気持ち良くなりたいんじゃないの?」
「普通じゃイヤだって言ってるだろ」
このまま男に襲われても尾行中の刑事たちがいるはずだから大丈夫だとは思うが、だからと言って押し倒されたいわけもない。
「薬以外でも天国を見せてあげられるけど?」
冗談ではない。
薬以外に用はないのだ。
ここにきて出し渋るところを見ると、もしかしたらまたハズレなのかもしれない。
青島は嬉しくないことを考えていた。
もしそうなら、この男の下にいる意味が全く無いことになる。
「約束、違うんじゃない?」
男を下から見上げながら、身体を起こそうと試みる。
シンジは相変わらず口元だけで笑っている。
いい男な分だけ、笑わない目が不気味に見えた。
「ちょっと気が変わってね」
「…?」
「薬で訳が分からなくなる前に、楽しみたくなった」
そう言いながらポケットから細い紐を取り出して、押さえこんでいた青島の手首を頭の上で一つに纏めてしまった。
「君みたいなイキのいいのを、泣かせたり喚かせたりするのが好きなんだ」
青島は呆然とした。
言葉も無い青島を怯えていると取ったのか、シンジの目が初めて笑った。
『…するのが好きなんだ』
明らかに興奮している男の声に、一度キレイに伸ばした書類をまた握りつぶしてしまった。
「一倉…」
室井が低く抑えた声で呼ぶと、一倉は苦笑した。
「前言撤回するか?」
前言とは「現場に行かない」と言ったことだ。
室井が言いたかったのはまさにそれで、苦虫を噛み潰した顔になった。
青島のことも部下のことも信頼している。
信頼しているが、それとこれとは最早別問題なのだ。
室井の気持ちの問題である。
こんなものを聞かされては、もう黙って待っていられなかった。
「俺はいいと思うが?」
一倉が肩を竦めて言った。
からかわれると思っていた室井は、拍子抜けする。
「一倉?」
「刑事も人間だしな。感情が優先することもあるだろう」
「しかし…」
珍しく優しい言葉を掛けてくれる一倉に戸惑いながら、尚も迷う。
「今お前が現場に行って困るのは、俺くらいだ。気にすんな」
一倉の気楽な一言に、心が決まった。
席を立つと、コートを掴む。
「ここは任せた。現場についたら連絡を入れる」
「りょーかい。動きがあったら携帯に電話する」
室井が振り返らずに出て行くと、一倉はまた苦笑した。
「まあ、我慢した方か…」
「心配しなくていいよ。縛ってヤると興奮する子もいるし、犯したまま殴るとイク子もいる」
―わぁ〜…正真正銘Sの人だ。
何が楽しくてシンジが笑っているのか分からずに、青島は背筋が寒くなる。
そして、ふと気が付く。
やはり被疑者の可能性があるではないか。
どう考えてもこの男はサドだ。
プレイのつもりで首を絞めて興奮のあまり力加減を誤ったのなら、充分有り得ることだった。
「俺、そういうのはしたことないや」
青島は抵抗を止めると、シンジを見上げた。
「きっと癖になる」
「アンタはどういうのが好みなの?」
「僕の好みに合わせると、君死んじゃうかもよ?」
青島の目が鋭くなる。
死んじゃうとはそれだけの快感を与えてくれると言う意味か。
それとも文字通り―。
青島は薬じゃなくて、事件に的を絞ることにした。
もし被疑者なら、このまま自白させられるかも知れない。
法的に効果の無い自白かもしれないが、後から取調べで役に立つはずだ。
「なんか危なそうな男だね」
至近距離でシンジが優しく笑う。
薄ら寒い。
「そういうヤツは好みじゃない?」
「…惹かれるね。ゾクゾクする」
危ない男が好きだなんて、古い映画の台詞じゃあるまいし。
青島は自分の台詞に寒くなったが、シンジは満更じゃないようだった。
無機質な頬に赤身がさしている。
自分に酔えるタイプ、やはりナルシストだ。
そしてサディスト。
出来ればお近づきになりたくないタイプ。
だが、今は出来る限り近づかなければならない。
「アンタはどうすると興奮すんの?」
青島が挑発的に微笑むと、シンジの手が唇に触れてくる。
「僕を気持ち良くしてくれるの?」
いつの間にか立場が逆になっている。
青島がシンジに嵌って落ちたとでも思っているのかもしれない。
唇に触れている指先に噛み付いてやろうかと思っていると、その指で青島の首筋をなぞる。
シンジの喉が上下した。
―絞めてやりたいとか思われてるんだろうか。
青島は反射的に身震いをした。
それが怯えに見えたのか興奮に見えたのか知らないが、シンジの加虐心に火を付けたことは確からしい。
「僕の言うことを聞いていれば、君も気持ち良くしてあげるよ。…いい声で泣いてくれればね」
青島の泣き叫ぶ声が聞きたいというのは嘘でも冗談でもないようだ。
シンジの手が強引に青島のシャツを開くから、ボタンが飛んだ。
シャツが破れてしまい、青島は思わず労災おりるかなぁと考えてしまった。
呑気なことを考えながら、身をよじる。
サディストでナルシストとくれば、自尊心が強いはず。
抵抗してやれば、あっさり本性を剥き出しにするだろうと思ったのだ。
案の定。
乾いた音が響いて、頬を張られた。
それほど痛くはない。
「言うことを聞いたらって言ってるだろ?」
自分で叩いた頬を優しくなぜてくる。
マゾなら喜ぶかもしれないが、生憎青島はマゾじゃない。
シンジを睨み付けながら、口角を上げた。
「乱暴されるのは、好きじゃないんだよね」
「君はいい声をあげて泣いてくれればそれでいい」
この場合、文字通り涙を流して泣けということだろう。
「嫌だと言ったら?」
挑発的に笑ったら、シンジが薄く笑って青島の首に手を掛けた。
「殺すよ?」
力は全く入っていない。
青島はなおも挑発的に話す。
「そういう威しって、格好悪いよ」
「脅しだと思うのかい?」
「違うの?」
「さぁ」
クスクス笑う病んだ男。
「気持ち良くしてくれるんじゃないの?」
「気持ち良くなったまま、死ねるかもしれないよ」
どこか恍惚とした表情。
想像したくもないが、ホテルで殺した男との行為を思い出しているのかも知れない。
青島はこの男が被疑者であると、半ば確信していた。
根拠は特にない。
青島の勘だ。
―違ってても、こんなヤツ逮捕しちゃった方が世の中のためだ。
青島は少しだけ怯えたふりをした。
「…殺したこと、あるの?」
男は嬉しそうに笑った。
「怖い?」
「怖い…けど…」
青島がツバを飲みこむと、喉仏の辺りを嘗められた。
「興奮する?」
期待を込めた男の一言に乗ってやる。
「堪んない」
溜息でも吐くように言うと、シンジはまた恍惚とした表情で青島を見下ろした。
青島の向こうに死体でも見えているのかもしれない。
「あるよ…」
青島は息を飲んだ。
シンジはうっとりした表情で青島の髪や頬をなぜた。
「最初は嫌がってたけど、薬飲ませたらいい声で泣いてくれてね」
君にちょっと似てるかな、と微笑まれる。
「途中からただよがるだけになっちゃってつまらなくなったから」
「殺したの?」
「苦しむ顔が見たくなってバスローブで首を絞めたらね…死んじゃった」
青島は本日何回目かの鳥肌が立った。
不快感で全身の毛穴が開く。
こいつは想像以上にイカレテいる。
青島は刑事たちが乗り込んで来ないから、もう少し突っ込んだことを聞いた。
多分室井も決定的な一言を望んでいるはず。
「それって…今ニュースで騒いでるアレ?」
男の眉がピクリと動く。
ストレート過ぎたかと思ったが、今更引けない。
青島は一くくりにされた腕を男の首に回した。
「俺にだけ、秘密教えて?俺はちゃんとアンタの言うこと聞くから」
殺したと聞いて従順になったふりをする。
男の機嫌を伺うように、青島は小首を傾げた。
俗に言う色仕掛けになってしまっていることに、青島は全く気が付いてない。
欲情した眼差しで見下ろしてくるシンジが、頷いた。
「いい子だ…」
キスしてくる。
どうしたものかと思案しているうちに、シンジは唇を離して微笑んだ。
「そうだよ」
「え?」
「僕がやったんだ」
目を見開いた青島に、シンジは満足そうだった。
「心配しなくても、君も気持ち良くイカせてあげるよ」
―どこに!
青島は思わず突っ込んだ。
再び顔を寄せてきた男に青島が膝蹴りをいれるのと、ドアが勢い良く開くのと、ほぼ同時だった。
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