青島は久しぶりに台所に立った。
室井と一緒に暮らしてからというもの、家事のほとんどを室井がしてくれていたため、料理をする機会がなかったからだ。
今日は室井が新城に連れられて本庁に行っており、休暇の青島が料理をするのが当然だった。
いつも美味い食事を提供してもらっているのだから、たまには手のこんだ料理でもご馳走しようかと冷蔵庫を覗きこむが、レパートリーは限られている。
悩んでみても、大した料理は思い浮かばなかった。
代わりに、室井さんは大丈夫かなと、心配事が頭に浮かぶ。
新城が室井を本庁に連れて行くのはこれが二回目だが、もちろん仕事をさせているわけではない。
事細かに報告は受けていないが、新城なりに早く室井に記憶を取り戻してもらおうと、手を尽くしてくれているようだった。
室井に職場復帰してもらわないと困るのは、青島ばかりではないのである。
今日は青島もついて行きたいと言ってみたが、それは新城にすげなく断られた。
室井さんの保護者かと鼻で笑われただけである。
残念だったが、新城の言う通り、いくら記憶喪失とはいえ室井は青島の子供ではなく、登庁する室井に同伴するのもおかしな話だった。
新城のことだから何か無茶をしていないかと失礼な心配もあるのだが、一応病人相手だから無理難題は押し付けていないと信じるしかない。
青島には食事でも作りながら、大人しく室井の帰宅を待つしかできることはなかった。
夕方に帰宅した室井は、口数が少なかった。
元から多くはないが、このところあまり元気がないから余計にそれを感じた。
スーツから部屋着に着替えた室井をテーブルにつかせて、青島はグラスにビールをついだ。
「疲れました?」
「ちょっとな…」
愚痴や弱音は中々溢さない人、それは記憶を無くす前から変わらない。
多くは語ろうとしないが、口の重さでなんの成果もなかったことは容易に想像がついた。
全くガッカリしなかったと言えば嘘になるが、過度な期待はしていなかった。
「早く飯くって風呂入って寝ちゃいましょう」
どことなく暗い顔をしている室井に明るく言えば、室井は青島をじっと見つめて小さく頷いた。
室井がぽつりと話し出したのは、食事が終わった頃だった。
「これまで俺が関わったらしい捜査の資料を見せてもらった」
重そうな口を開いて、室井はようやく今日本庁であった出来事を口にした。
新城はこれまで室井が担当した事件の捜査資料を用意し、室井に読ませたようだった。
「そうですか。結構、室井さん、優秀だったでしょ?」
茶化すように青島は笑ったか、室井は真顔だった。
「君が死にそうになってる事件があった」
「え?」
青島はきょとんとした。
いきなり言われて驚いたが、青島が腰を刺された事件のことだとすぐに気が付いた。
抱かれた時にその傷痕の理由を問われたことがあったが、青島は咄嗟に交通事故でと嘘を吐いていた。
何も覚えていない室井に、本当のことは言えなかったのだ。
室井が低い声で言う。
「俺のせいじゃないのか」
「それは違うっ」
青島は思わず声をあげた。
あの事件のあらましが、どの程度詳細に資料に残されているのかは青島の預かり知らぬところだが、責任者が室井で被疑者確保時に負傷したのが青島であるという事実をみれば、室井の責任と感じるかもしれない。
だけど、事実が全てではない。
あの時、室井を信じて指示を仰いだ青島と、青島を信じて確保を命じた室井には、事実よりもずっと確かで大事な何かがあった。
それがなければ、二人とも今頃警察官ではなくなっていたかもしれない何かだ。
それは、二人にとって、怪我や降格よりもずっと大切なものだった。
だけど、今の室井にはそれが分からない。
「それを言ったら、室井さんだって降格させられてます。お互い様だったんですよ」
「命に代えられるものなんかありはしないだろう」
「そうかもしれない。でも、俺は生きてます」
「そんな問題か」
室井が声を荒げた。
記憶を無くしてから、初めてのことだった。
「俺は…俺は、恋人を危険に晒して平気な男だったのか」
まるで嫌悪するような声で吐き出した室井に、青島は驚いた。
室井は青島の怪我に少なからず責任を感じていたが、あの時の二人にとってあの時の行動は信じる正義に従ったに過ぎず、警察官としての信念を貫いたという自負があった。
今の室井には警察官としての正義も信念も何もない。
所轄も本庁もなく、ただ青島を信じ、自分の正義に忠実に従った室井の行動も、今の室井から見れば、無謀にも恋人を死地に追いやった情け容赦のない男となる。
それは青島の知る男の姿と全く重ならない。
「そんなふうに言わないでください。貴方はそんな男じゃないよ」
青島は必死に言葉にした。
室井に室井を否定させるのが酷く辛かった。
ここにはいない人なんだと、思わされるのが嫌だったのかもしれない。
室井は険しい顔を崩さなかった。
「室井さんは何も間違ってなかった。あれは俺のミスだったんだ。逮捕の瞬間が一番危険だと知っていたのに、他のことを考えたりしたからだ」
考えていたのは室井のことだったが、刺されたのは青島自身の責任であることに代わりはない。
和久にあれほど逮捕の時は気を付けろと言われていたのに、僅かでも気を反らしたのは青島のミスだった。
「ならば、そういうことが起こり得るということも想像できないほど、俺は無能だったのだろう」
吐き捨てる室井に、青島も我慢ができない。
アンタに何が分かると怒鳴りそうになって、驚愕した。
室井に、室井の何が分かると怒りを覚える。
つまり、目の前の室井を室井と認めないことになる。
認めていないわけではない。
目の前の室井は確かに室井だった。
彼が室井でないのなら、室井はどこに行ってしまったというのか。
青島は無意識に唇を噛み、痛みでそれに気付いて唇を開いた。
「…そうだとしたら、俺が室井さんの期待にも添えない無能ってことですよ」
低く沈んだ声に、ずっと険しかった室井の表情が動いた。
「違う、俺はそんなことを言いたいんじゃないんだ」
「わかってます。でも、過去の室井さんを否定しないでください。過去の俺たちを、」
後は上手く言葉にならなかった。
警察官としての自分の根底を否定されるのは辛かった。
何より、室井はここにいない、そう思うのが堪らなく怖かった。
室井が席を立った。
部屋を出ていってしまうのではないかと不安になったが、室井はただ青島の傍に寄り頭から抱き締めてくれた。
「すまない」
「…いいです、大丈夫」
「ただ怖かったんだ、自分の知らない自分の生き方が」
「うん、大丈夫、大丈夫だよ、室井さん」
青島は室井の背中を抱き返した。
「君を失うことが堪らなく怖い」
そんなことは俺も一緒だ、そう思ったが言葉にはしなかった。
失ってなどいない。
青島は室井を失ってなどいないのだ。
「ずっと一緒ですよ、室井さんと」
室井の包容がきつくなった。
「大事なことを忘れてしまってすまない」
何度謝らせてしまっただろうか。
俺こそごめん、その言葉も飲み込んだ。
どうしようもないことを謝られるのも、切ないものだ。
これ以上室井を苦しめたくはない。
「今だって、一秒後の過去ですよ」
「…ああ、そうだな」
「記憶なら、これからいくらだって作れます。二人の記憶もね」
「そうだ、そうだな」
室井の手が前髪をかきあげ、額に唇が触れた。
瞼や頬を掠め、唇が重なる。
酷く優しいそれは何の欲も感じさせなかったのに、室井は青島を欲しがった。
「青島」
「はい」
「抱きたい」
いいかと短く問われて、青島は小さく笑った。
今抱き合うことが、切なさや苛立ちをごまかすためであっても一向に構わなかった。
繋がることで埋められるものがあればいい。
そう思ったから、どうぞと応えた。
ふと青島が目を覚ましたのは夜中だった。
一緒に眠った室井の姿はベッドにも暗い部屋の中にもない。
室井がいたはずのシーツはすっかり冷えていて、ついさっきまでそこにいたという雰囲気ではなかった。
自分の部屋に戻ったのかもしれない。
酷く寂しい気持ちになったが、室井の部屋まで押し掛けていこうという気にはならなかった。
枕を抱えて、顔を押し付ける。
余計なことをしたのかもしれないと、青島は思い始めていた。
記憶を無くしている室井に、恋人だったことなど告げるべきではなかったのかもしれない。
知らなければ、室井は余計なことにまで思い煩うことはなかったはずだ。
ただでさえ、記憶がないことでストレスを抱えているのに、青島が恋人であることを知ったがために覚えもない過去の自身の行いに傷付いている。
青島が付けた傷といってもいい。
そう思えば、胸が痛かった。
何故、黙っていられなかったのか。
何故、あの時、室井の部屋であんなことを。
後悔してももう遅いのに、青島はそのことばかり考えて、僅かに枕を濡らした。
鼻をすすりそうになったが、ドアが開く気配に驚いて息を潜めた。
室井が戻ってきたことに、安堵した。
そっとベッドに入ってくる室井の身体からは煙草の香りがした。
身体に回される腕に、枕など放り出して室井にしがみつきたかった。
「青島」
室井が名前を呼んだ。
抱き締める腕の力が増す。
「青島」
返事など望んでもいないのだろうが、すがるような響きで名を呼ぶ。
室井にとっては何もかもが不確定な毎日の中で、青島だけはきっと確かに信じられる存在なのだ。
室井を愛した男として、また室井が愛した男として、微かでも室井の支えになれているのであれば、恋人だったと明かしたことに意味もあっただろうか。
自信はない。
ただ、そうであればいいなと思う。
自分のためではなく、室井のためにだ。
「ありがとう、青島」
耳に届いた声に、青島はひたすら枕にしがみついていた。
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