遠慮なく欠伸を漏らした青島は、背もたれに寄りかかり大きく伸びをした。
朝からだらしないと袴田が顔をしかめるが、急な夜勤で一睡もしていない青島の知ったことではない。
仕事が一段落し、青島はようやく帰宅できる。
「青島君、仕事終わったんなら、早く帰りなさいよ」
袴田がしっしと、犬でも払うように手を振るから、青島は膨れた。
「そんな言い方ないでしょ」
夜通し寝ずに働いた部下に言う言葉かと思ったが、袴田は空いていた和久の席に座った。
早朝のため、刑事課は人気が少なかった。
青島に身を寄せた袴田が、小声で話しかけてきた。
「だって、室井さん、今一人でしょ?何かあったら、どうするの」
袴田が気にしていたのは、青島宅預かりになっている室井のことだった。
もっといえば、その室井に何かあって青島の責任問題になり、ひいては上司の袴田の責任問題に発展しないかと心配しているのである。
室井の身の心配を全くしていないわけでもないのだろうが。
「一晩くらい家を空けても大丈夫ですよ」
記憶は相変わらず戻らないが、今の室井は日常生活において困るようなことはない。
生活面においては、トラブルを抱えていない青島よりも余程しっかりしていた。
つまり青島がだらしないだけかもしれない。
どちらにせよ、徘徊して歩いているというなら一人にしてはおけないが、青島宅で青島の帰宅を待ってくれている男を、特別心配する理由もなかった。
一人で心細くはないだろうかという心配はなくはなかったが、本音はともかく室井は怯えたり焦ったりすることもなく落ち着いてみえた。
「そうは言ってもねえ、新城さんに任されてるしねえ」
「大丈夫だったら。あの室井さんですよ?そうそう無茶なことはしませんて」
「そうかなあ…あの人、冷静なようでいて、時々とんでもないことやらかすから」
眉をひそめた袴田が青島を睨む。
「君のせいもあると思うけど」
何だか雲行きが怪しくなってきたので、青島は愛想笑いをして席を立った。
「一服したら、さっさと帰ります」
そうしなさいと頷いた袴田は、また犬を払うように青島を払った。
喫煙室で一服しながら、青島は携帯電話を取り出し、室井に電話をかけた。
昨夜、帰れそうになくなった時点で、連絡はしてあった。
室井の携帯電話は現在、使用できなくなっていた。
ロックがかかっており、パスワードも漏れなく忘れてしまっているから、発信が出来ない。
着信を受けることは出来るので、青島が電話をかける分には支障がなかった。
数回のコールで、室井に繋がった。
「おはようございます、青島です」
『おはよう…と言っても、君は寝てないんだろ』
「はは、そうでした」
『仕事は終わったのか』
「はい。なんで、もう少ししたら帰ります」
『そうか、飯を用意しておこう』
「すいません、助かります」
本当にこれではどちらが世話になっているか分からないなと苦笑した。
用は済んだから、じゃまた後でと青島が挨拶する前に、室井から話し掛けてきた。
『…大丈夫か』
「え?」
『声が疲れているようだが』
急な夜勤だったのだから当然疲れてはいるが、電話で分かるほどかと、自分のことだが驚いた。
そして、電話でも変化が分かるほど、室井が青島のことを気にかけてくれていることが、嬉しかった。
そんな喜びが伝わっても困るから、青島は笑って誤魔化した。
「声に疲れが出るなんて、俺も歳ですねえ」
『少し元気がないように感じただけだが。疲れているなら、早く帰って来い』
労るような声に、胸が疼く。
今の彼は恋人ではないと自分に言い聞かせないと、余計なことを口にしそうだった。
「…もう、帰りますから」
なんとかそれだけ言うと、また後でと断り、電話を切った。
未練がましく携帯電話を眺めて、煙草を吸い深い溜め息と一緒に煙を吐く。
「帰るコールなんて、マメねー」
掛けられた声に驚いて振り返れば、すみれが立っていた。
いつからいたのか、ニヤニヤしている。
「青島君、彼女できたんだ?」
どうやら恋人に帰るコールをしていると思われたようだ。
ある意味間違ってはいないが合ってもいない誤解に、青島は苦笑した。
すみれは青島の自宅にいるのが、室井だなんて知りもしない。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、誰に帰るコールなんかしてんのよ」
そう聞き返されると困る。
すみれは青島が照れていると判断したのか、ニヤニヤしていた。
「仲良しならいいじゃない、隠さなくても」
「いや、本当に」
「てか、青島君の彼女、年上?」
「…うん、まあ、そうね」
どう言い訳しても信じてもらえなさそうだったから、青島は面倒くさくなって話を合わせることにした。
「へえ、なんか意外ね」
「そう?」
「うん、青島君、女の子に甘えられたりするの好きそうだから、年下のがいいのかと思って」
「あー…」
特別年下が好きだと思ったことはないが、確かに甘えられたり頼りにされたりすると無駄に張り切ってしまう性質ではあった。
「でも、甘えるのも上手だもんね」
すみれは納得したように頷いている。
「そうかなあ」
「上手に真下くんとか使ってるじゃない」
「人聞き悪いこと言わないでよ」
「こりゃ、失敬」
悪びれずに舌を出すすみれに、青島は溜め息を吐いた。
甘え上手という自覚も無かったが、室井には甘やかされていたように思わなくはない。
室井に寄りかかって生きていたつもりはないが、室井が青島に対して甘いことは事実だった。
それは、ある意味、今の状況でも変わらない気がする。
記憶を無くしている室井は、青島に迷惑をかけているという負い目があるせいか、以前にも増して青島の世話を焼いてくれている。
他にすることがないからかもしれないが、それにしても青島に対して甲斐甲斐しい。
食事を作り、茶碗を洗い、洗濯をして、掃除機をかけて、風呂を沸かす。
朝は寝過ごさないように起こしてくれるし、時には不規則になりがちな青島の体調を気遣って心配してくれたり注意してくれたりもした。
母親のようにと言えば大袈裟だが、それに近い甲斐甲斐しさは、以前の室井にはない甲斐甲斐しさだった。
当たり前である。
本庁の第一線で活躍している室井に、そんな時間があるわけがない。
そのせいか、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる室井の好意は嬉しく思うのに、時々堪らなく寂しかった。
「なんか元気ないね」
すみれが不思議そうに首を傾げるから、青島は肩を竦めて見せた。
「そりゃ、徹夜明けだからね」
「そうじゃなくて、最近ずっと元気なくない?」
青島は苦笑して頬を撫ぜた。
そんなになんでも顔に出るタイプなのかと、自嘲した。
喜怒哀楽が表情に出やすい自覚はあったが、ポーカーフェイスも得意なつもりだった。
必要であれば感情をコントロールして、嘘を吐くことも誤魔化すことも青島には難しくなかった。
今だって、ずっと平気な振りを続けている。
恋人が記憶喪失になり、自分のことも忘れられてしまった状況で、平然としていられる人などいるはずがないのだ。
だからといって、嘆き悲しんでいたところで、どうにかなるわけがない。
それが分かっているから、青島はひたすらに信じ、待っていた。
室井を励まし支えながら、ただひたすらに室井が室井自身を取り戻す日を、ただ待っている。
室井を信じて疑ってはいないが、それでもやはり辛くないわけでは無かった。
初めこそ、記憶を無くしても根本は変わらない室井を嬉しく思ったものだが、今の室井は間違いなく室井なのに明らかに室井ではなかった。
青島は、それを日増しに実感していた。
そのせいで青島の元気がないように見えるのかもしれない。
毎日顔を合わせているすみれだから、微妙な変化に気付いたとしても不思議ではなかった。
「恋人と上手くいってないわけじゃないんでしょ?」
すっかり恋人が待っていると思っているすみれに、青島は曖昧に笑った。
「仲良くやってるよ」
「そのわりに、幸せそうでもないね」
「…はっきり言うなあ」
半ば感心する勢いで呆れれば、すみれは何故か胸を張った。
「だって、事実だもん」
すみれは時に遠慮がない。
「相談乗ってあげよっか」
ランチでいいわよと笑うすみれに遠慮はなくても、心配してくれているのは確かだろう。
日頃はあまりプライベートに干渉してこないすみれだから、ただの好奇心とは思えない。
冗談っぽく気を回してくれるすみれの好意が嬉しかった。
青島はやんわりと笑った。
「ありがと。でも、特に何かあったってわけじゃないんだよ。最近忙しかったから、そのせいかな」
「ああ、なんか本庁の手伝いもさせられてたもんね。それで、一体なんの事件だったわけ?」
「極秘任務だから、言えないんだ」
すみれが酷く胡散臭い視線を寄越した。
本庁から青島にそんな任務が回って来るはずがないと思っているのだろう。
青島自身苦しい言い訳だなと思うが、室井の記憶喪失は相変わらず秘せられている。
いくら相手がすみれでも、青島が漏らすわけにはいかなかった。
「まあ、危ないことじゃないならいいけどさ」
すみれが肩を竦めた。
本庁のことになどあまり関わりたくないだろうから、すみれもそれ以上は突っ込んでこなかった。
「それは大丈夫だよ」
すみれを安心させるように笑って頷き、青島は煙草を灰皿に捨てた。
「さて、そろそろ帰ろうかな」
「彼女待ってるしね」
からかうすみれの視線に苦笑だけ返し、青島は立ち上がった。
すみれが後ろから着いてくる。
「室井さん」
不意にすみれが呟くから、青島は立ち止まり振り返った。
「大丈夫かしらね、まだ入院してるんでしょ?」
少し眉をひそめて、心配顔だった。
「うん、そうみたいだね」
「お見舞いは行った?」
「いや、面会は控えるように言われてるから」
実際は青島の部屋にいてぴんぴんしているのだから、見舞う場所などないし見舞われても困る。
そのため、新城が面会謝絶と周知していた。
「そんなに悪いのかしら…」
顔をしかめたすみれに、青島も眉を下げて密かに返事に困った。
「そんなことはないと、新城さんが言ってたけどね…」
曖昧な言い方しかできないが、すみれがあまり心配しても可哀想だからと、そう言っておいた。
面会謝絶でそれほど悪くないと言われても納得はいかないだろうが、すみれは青島を見上げて何故か納得した。
「そっか」
「なに?」
「青島君が元気なかったのって、室井さんが心配だからか」
すみれの言う心配と全く一緒ではないが、心配していることは間違いない。
「まあね」
青島は微かに口角をあげた。
「早く良くなって欲しいよ…」
それしか、今の青島に言える言葉は無かった。
湾岸署を出て帰宅した青島は、足早に自宅に向かった。
別に袴田のように一人でいる室井を心配しているわけではないが、それでもここのところ毎日顔を合わせている室井と一日以上会っていないだけで、早く顔を見たいと思った。
以前は一月会えないこともあったというのに、慣れとは恐ろしい。
会えないだけで落ち着かないなんてことは、室井と付き合いだして初めてのことだ。
厳密に言えば、今は付き合っているとは言えないが。
駅を出た青島が自宅に向かうと、マンションの前に室井がいた。
一人ではなく、女性と一緒だった。
にこやかに話しかけてくる女性に、室井もにこやかにとまではいかないが、無下にすることなく相手をしていた。
室井らしい律儀で真摯な応対に過ぎない。
一瞬、カッと腹の中が熱くなった。
何故だろうかと考える暇もなく、笑みを作ることに必死にならざるを得なかった。
室井と視線が合ったからだ。
「おかえり」
室井の挨拶に返事をしながら、青島はちらりと視線を室井の隣に立つ女性に向けた。
誰かと思えば、青島もよく知る隣人だった。
そんなことに、今更気が付いた。
「おはようございます」
彼女に笑いかければ、笑みが返ってきた。
それは室井に見せた笑顔となんら変わりがないように思えた。
無意識に内心でそんなことを測っていた。
今帰りですかお仕事大変ですねと当たり障りなく言い残して、彼女は先にマンションに戻って行った。
二人になると、青島は室井を見た。
コンビニのビニール袋を提げていたから、買い物に出ていたのだと見当がついた。
視線に気付いたのか、室井は少しだけ袋を掲げて見せた。
「牛乳が無かったから」
「そうですか」
「ついでに、煙草も買っておいたぞ」
そういえば買い置きがもう無かったかもしれない。
「ありがとうございます、助かります」
「いや」
衒いのない感謝に照れたのか、短く応えて室井がマンションのエントランスに入った。
青島も後に続く。
並んでエレベーターを待ちながら、青島は何気なく聞いた。
「お隣さんと何を話してたんすか?」
「うん?…ああ、久しぶりに晴れて良かったとかそんな話だ」
「あー、確かに最近雨多かったですもんね」
「洗濯物が乾かないと、ぼやいていた」
「室井さんに?」
「他に誰がいるんだ」
「そりゃ、そうだ」
青島は笑ったが、笑い声が乾いていたような気がした。
自宅に入ると着替えてくると室井に言い残して、青島は寝室に引っ込んだ。
ドアを閉めた途端、頭を抱えるようにして蹲る。
一瞬腹が熱くなり怒りに似たような衝動に駆られた。
あれは、間違いなく嫉妬だった。
室井は女性とただ立ち話をしていただけだ。
ただ少し、青島ではない誰かと二人でいただけ。
それだけなのに嫉妬した自分を嫌悪した。
こんなことは今までにないことだった。
嫉妬したことがないなどとは言わないが、ただ話しているだけの隣人に嫉妬するようなことは無かった。
手当たり次第に嫉妬するほど室井を信用していなかったわけではないから、それで当然だった。
だが、今は違う。
確かなものが、青島と室井の間には何もない。
青島は変わらず室井が好きで、室井を恋人だと思っているが、室井は違うのだ。
室井には青島に対する恋愛感情などないだろうし、青島が恋人であるなど夢にも思っていない。
室井が浮気をするわけがない、だけど今の室井が青島以外の誰かに好意を寄せることは浮気にも当たらない。
そして、それを止める権利は、今の青島には無かった。
当然、そんなことは理解していたつもりだったが、予想していなかったタイミングで湧いた嫉妬心に、改めてその事実を突き付けられた気分だった。
室井の記憶が戻らないのではないかという不安に加え、室井を誰かに奪われるのではないかという恐怖と、恋人の非常事態に結局は自分のことばかり考えてしまう自分に対する嫌悪感で、青島の頭はいっぱいになった。
漠然とした焦燥感にただただどうしようと心が悲鳴をあげるが、青島にできることなど何もない。
ただ祈ることしかできないのだ。
「青島?飯出来てるぞ」
中々部屋から出てこない青島に、室井がドアの向こうから声をかけてくれた。
青島は弾かれたように顔をあげた。
見えもしないのに、顔に愛想笑いが浮かぶ。
「はい、すぐ行きます」
お願いだから、早く戻って来て室井さん―。
本当はそう言いたかった。
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