仕事を終えていつもより早い時間に帰宅した青島を見て、室井は盛大に顔をしかめた。
こうなる気はしていたから、青島は苦笑した。
「ちょっと、ヘマしちゃいまして」
スーツはボタンが飛びところどころ破け、砂ぼこりで薄汚れていた。
唇の端に絆創膏が貼ってあるが、それでは隠しきれない大きさの青アザが出来ていた。
帰宅が早かったのは、ボロボロに汚れて怪我をした青島に、袴田が気を遣ってくれたからだった。
「何事だ」
「犯人とちょっと格闘を」
「どこがちょっとだ、怪我は」
「頬と手のコレだけです、大したことないですよ」
翳して見せた手の甲にも絆創膏が貼ってあった。
犯人が触り回していたナイフが掠めたせいで、薄く皮膚が切れていた。
聞き込みの最中に偶然出くわした暴行犯と争ったせいだった。
怪我を負ってしまったが、襲われていた女性が無傷だったのが不幸中の幸いだった。
「切られたのか」
室井が眉間に皺を寄せたまま、青島の手を取った。
不意に触れた手に、少しドキリとした。
触るの久しぶりだな、と場違いな感慨に耽る。
もう随分、室井と触れ合っていない。
僅かに血がざわめいたが、そんな場合かと青島は内心で自嘲した。
室井の表情は相変わらず険しい。
心配してくれているのだと、青島には良く分かった。
「血が滲んでいる」
「もう止まってますよ」
「消毒はしたのか」
「それは、すみれさんがやってくれました」
「…すみれさん?」
「あ、同僚です」
そういえば、今の室井はすみれの存在など知らない。
慌てて付け足せば、室井は少し考えるような間を取った。
何か記憶に引っ掛かるものでもあるのかと待ってみたが、室井は結局そうかとだけしか言わなかった。
「気を付けてくれ」
室井が真摯に言った。
「大きな怪我に繋がっては大変だ」
室井が心から青島を心配してくれているのが分かる。
恋人だった時と丸きり一緒ではないが、寄せられている愛情は確かに感じられた。
それだけ、今の室井と青島も親しい関係になったということだ。
それは嬉しい。
とても嬉しいが、心のどこかが寂しいとも訴えてくる。
初めは傍にいられることに安堵し、室井が心を開いてくれるたびに喜びを感じたものだが、最近はそれだけではなくなっていた。
記憶を無くした恋人ではない室井と親しくなるたびに、僅かながら漠然とした不安を覚えた。
室井は絶対に元に戻る、約束があるのだからこのままのはずがないと信じてはいるが、その盲信に根拠などないことは自分でも分かっていた。
願望からくる絶対という自信に、根拠などあるはずがない。
それでも、青島は信じるしかない。
それしかなかった。
「…頭を打って記憶を無くした俺が言うのも、なんだがな」
苦い顔をしてぽつりと呟く室井には、青島も笑うしかなかった。
「記憶が無くなっちゃっても、大怪我するより遥かにマシですよ」
これは本音だった。
少し考え、それもそうかと納得したのか、室井も頷いた。
「とりあえず着替えて来い」
「はーい」
飯にしようと言われて、青島は寝室に着替えに向かった。
「え?室井さんちにですか?」
青島は室井が作ってくれた夕飯を有り難く食べていたが、驚いて箸を止めた。
「ああ、一度帰ってみようかと思うんだが」
差し向かいで食事をしていた室井も箸を止めていた。
「なんでまた…」
室井は事故後、一度しか自宅に帰っていない。
青島の部屋で生活するにあたって、衣類や靴など最低限の生活必需品を取りに行かなければならなかったからだ。
記憶を無くしているとはいえ、室井の部屋だ。
勝手に入るわけにもいかないと、青島が恋人であるとは知らない新城と三人で部屋に入り、室井が他人の部屋を家捜しするように荷造りするのを手伝った。
「何かいるものがあるなら、俺が取って来ますよ?」
「いや、そういうわけではないんだ」
それはそうだろう。
今の室井に必要なものは多くはないはずだった。
「ただ、自分の生活していた環境に身を置いてみれば、何か思い出すこともあるかもしれないと思ってな」
そういう可能性は無くもない。
毎日寝起きしていたベッドで寝起きし、寛いだリビングで息抜きをすれば、自分がそこにいたことを思い出すかもしれない。
思い入れの深い本や、思い出の写真だってあるかもしれない。
そういう可能性は青島だって考えないではなかったが、そうすべきとは勧められなかった。
「でも、室井さん。今病欠扱いになってますから、元気に出歩いてんのを本庁の連中に見られると、ややこしいことになりませんかね」
心配の一つを口にしてみた。
別に新城が進んで、「室井は入院中で面会謝絶」などという噂を流したわけではないだろうが、室井は病で長期休暇中ということになっている。
実際、40日丸々残っていた有休が消化されるまでは、休暇扱いだ。
それ以降も記憶が戻らなければ休職にすると、新城が言っていた。
それまでには何とか記憶を取り戻して欲しいが、自宅に帰ることが有効かどうかは分からない。
第一、自宅ほどではないにしろ、通い馴れたはずの青島の部屋で生活していても、何も思い出さないのだ。
自宅に帰ったって、思い出せるとは限らない。
青島はそう思ったが、言葉にはしなかった。
恋人とは思ってもいない室井に言えるわけがないし、例え言えたとしても酷く卑屈な言い方になりそうな気がした。
思い出してもらえないことに、思うところがないわけではないからだ。
当然、室井か悪いわけではない。
忘れようとして忘れられたわけではないことは分かっているし、室井がちゃんと自分を想っていてくれたことは良く分かっている。
それでもふとした瞬間に、どうして忘れてしまったのかと考えてしまうことがある。
その度に自己嫌悪しているような青島の葛藤など、今の室井に伝わるはずがない。
だが、それ以上に後ろめたかったからかもしれない。
室井を自宅に帰したくないという気持ちに、少なからず自分の我が侭が含まれているからだ。
「ふむ、しかしな…」
室井は眉を寄せて、考え込んでいる。
その困った顔を見ていると、考えたくもない言葉が、青島の口を吐いた。
「俺といるの、嫌ですか?」
口に出してみて、自分で驚いた。
なんて情けない声だろう。
すがるような響きすら持って漏れた言葉に、室井も驚いたようで目を丸くしていた。
今の室井は青島に甘えられる覚えなどないし、そもそもそれどころではないはずだ。
支えになってやらなければならない自分が、彼の重荷になってどうする。
焦った青島は取り繕う言葉を探したが、すぐには見つからなかった。
機転は利くし要領だっていいはずの男が、なんの言い訳も浮かばなかった。
「…なーんてね」
曖昧に笑うのがやっとだった。
室井はまた眉を寄せて、首を横に振った。
「そんなわけないだろう」
力強い否定に安心する。
室井は嘘を吐かない。
記憶を無くしても、そこは変わらなかった。
「それなら、ここにいてくださいよ、記憶が戻るまで」
安心したら、また甘えが出た。
だけど、これなら室井のためだと言い訳ができる。
「困った時はお互い様だって言ったでしょ?俺でも一緒にいれば、何かの役には立つかもしれないし」
「しかし、ずっとここにいれば、君に迷惑がかかる」
「迷惑なら、引き留めたりしませんて」
「…そうだろうが」
室井は何かを言おうとし、躊躇って口を閉じた。
遠慮なのか気遣いなのか、はたまた本当に他人と一緒にいることが苦痛になってしまったのか。
何にせよ、今の室井と距離が開くことが、青島には耐えられない。
離れることがどうしようもなく不安だった。
ただ傍において欲しいという想いで室井を見つめる。
最早、室井のためだなんて言い訳も立たなかった。
室井はしばらくの間黙って青島を見つめていたが、次に口を開いた時には小さな笑みを浮かべていた。
「君も物好きだな」
優しい笑みに、はっとした。
久しぶりに見た室井の酷く柔らかい表情だった。
その顔で好きだと囁いてくれたのは、そう昔のことではない。
ないはずなのに、何だか随分前の出来事のような気持ちになり、切なくなった。
「…良く言われます」
なんとか笑みを返したが、上手く笑えているか、自信はなかった。
青島がどこか必死になって自分を引き留める姿を、室井がどんな目で見ているかなど青島の知るところではなかった。
室井の知らない青島のことを、室井が早く思い出したいと願っていることも、青島は気付いていない。
室井が自宅に戻ろうと考えたのは、早く記憶を取り戻さなければならないと思ったからだ。
事あるごとに「大丈夫」「心配いらない」と励ましてくれる青島が、時々酷く寂しげに笑う。
そのたび、青島に対して申し訳ない気持ちになったし、早く思い出してやらなければと強く思った。
それはいつの間にか、自分が何者か分からないという不安や焦りよりも、ずっと大きくなっていた。
何故、青島がそこまで室井に心を砕いてくれるのか、室井には分からない。
それが分からないまでも、このままではいけないと本能的に感じ取っていた。
自分が記憶を取り戻したら、青島はもうそんな寂しい顔をしないでくれるだろうか。
室井が早く記憶を取り戻さなければと強く思った理由は、まさにそれだった。
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