病院の喫煙室で煙草を吸っていた青島は、透明なドアの向こうに室井の姿を見つけて、慌てて煙草を消した。
室井は病院くらい一人で行けると言ったが、青島は堂々と仕事がサボれるいい機会だからと取り合わなかった。
実際、室井の通院のためと言えば、袴田も嫌な顔をせずに休暇をくれた。
「待たせたな」
喫煙室から出てきた青島に、室井が詫びた。
「いえいえ、お疲れ様です」
並んで歩きながら、様子を聞く。
「お医者さんはなんて?」
「…やはり様子をみるしかないようだな」
室井の表情が雲っていた。
体調に異変がないことは何よりだが、記憶を取り戻す有効な治療方法があるわけでもなく、現状は様子をみるしかないらしい。
どうしようもないこととはいえ、記憶がなく、自分自身のことすら分からないという状況は、室井にとっては物凄いストレスだろう。
表情が晴れないのも無理はない。
夜もあまり眠れないのか、夜遅くまで起きて本を読んだりテレビを見たりして、時間をつぶしているようだった。
身体が元気でも心が元気とは限らない。
今の室井を恋人と呼ぶことはできないが、それでも室井が辛い思いをしているのなら、なんとか力になってあげたかった。
「大丈夫大丈夫。何かのきっかけがあれば、きっとすぐに思い出しますよ」
笑って慰める青島にちらりと視線を寄越し、室井は一つ溜め息を吐いた。
楽天的な青島に慣れたのか呆れた様子はなく、気分を入れ替えただけのようだった。
「そうだな…焦っても仕方がないか」
「そうそう。忘れた頃に、急に思い出しますよ」
「これ以上、何かを忘れるのもごめんだが」
眉間に皺を寄せた室井に、青島も苦笑した。
「そりゃ、そうっすね」
「だが、それくらいの気持ちでいることにしよう」
「ええ、笑う門には福来るって言いますしね」
「それは何か違わないか」
さすがに呆れた視線をくれたが、青島がそうかなと小首を傾げれば、小さな笑みが返ってきた。
「君といると、悩むのが馬鹿馬鹿しくなるな」
微かに浮かんだ笑みは穏やかで、それが悪い意味で言われているわけではないことが分かる。
「悩んでも仕方がないことは、あまり悩まないことにしてるんです」
言い切ったら、やっぱり楽天的だなと半ば感心されてしまった。
青島はただ笑っておいた。
本当は青島だって悩んでも仕方のないことが頭から離れないのだが、それを室井に伝える気にはならなかった。
「少し、寄り道して帰りませんか?」
車に乗り込みシートベルトを締めて、室井を誘った。
「俺は構わないが、どこに行くんだ?」
「どこでも」
「どこでもって…」
誘ったわりに適当な青島に室井は呆れたようだったが、青島は車を発進させながら煙草を咥えて笑った。
「俺の行きたいとこ、室井さんの行きたいとこ、どこでもです」
自宅にこもって戻らない記憶を探して鬱々としていても、室井のためにはならない気がした。
記憶が戻らないと困るのは青島も同じだが、たまには息抜きも必要だろう。
「行きたいところ、どこでも…か」
室井が呟く。
興味が惹かれたような声音だった。
気分転換しようという青島の気持ちが伝わったのかもしれない。
「どこか行きたいとこ、ないですか?」
「…君の行きたいところでいい」
「そう?」
「ああ、その方が楽しそうだ」
ちらりと室井に視線を向けて見れば、室井は真顔だった。
「なんとなく、だが」
「それでも嬉しいや」
「なんだ?」
思わず零れた小さな呟きは、幸い室井の耳には届かなかった。
青島は何でもないと首を振り、にっこり笑った。
「じゃあ、デートね」
振り返って改めて見てはみなかったが、きっと室井の眉間に皺が寄っていただろう。
「ほんじなす」
久しぶりに聞いた室井の方言に、青島はやっぱり室井さんは室井さんなんだなと内心でホッとした。
室井と二人で時々通った定食屋で昼食を取り、台場に向かった。
お台場海浜公園の駐車場に車を止めると、二人でビーチ沿いを歩いた。
平日の昼間だけあって、人は少なかった。
「夏休みとかだと混んでるんだけど、さすがに平日は空いてますね」
「そうなのか。君は良くここに来るのか?」
「仕事では結構台場に来るけど、プライベートではあんまり」
仕事と言ってもすぐにピンとは来なかったようだが、青島の職場である湾岸署の管轄なのだと言えばなんとなく理解してもらえたようだった。
「仕事で来るなら、わざわざ休日に来なくても良かったんじゃないか?」
「いやあ、だって、仕事で来たって、喧嘩してる若者を補導しに来たり、すりや置き引き犯を捕まえに来たりするだけですからね。のんびり海辺を散歩ってわけには行きませんから」
青島が大袈裟に首を振って見せると、室井は苦笑した。
「それもそうか」
「まだちょっと時間が早いですけど、夕陽が沈む頃も中々きれいなんですよ」
「そうか…大きな橋だな」
初めて見たように室井が呟くから、青島は苦笑してしまった。
「なんだ?」
不思議そうな室井の視線に首を振り、青島は見慣れた橋を眺めながら呟いた。
「それに、俺には馴染みの場所だけど、室井さんと一緒に来たことは無かったですからね」
だから、一度、室井を連れて来たかったのかもしれない。
こんなことでもなければ、室井と二人で台場を歩くことは無かっただろう。
室井とは恋人同士だったが、気軽にデートが出来たわけではなかった。
遊び歩くには二人とも仕事が忙しすぎたし、人目を避けてデートをする煩わしさもあった。
たまに休みが合えば、青島の部屋でのんびりすることが多かった。
どこかに遊びに行きたいという欲求はなくも無かったが、それよりも貴重な休みを二人きりで過ごすことの方が魅力的でもあった。
言葉にして確認したことはないが、室井も同じ気持ちだったのではないかと思う。
室井さんの記憶が戻ったら、旅行に行こう。
青島は、唐突に心に誓った。
したいことをいつでもできるわけではないのだと、今回のことで嫌というほど学んだ。
今の室井は抱き締めることすらできない。
もう一度、抱き締めることができるだろうか。
そんな漠然とした不安が胸にあった。
「俺たちはそんなに親しかったのか」
室井の声にハッとして、不安から覚める。
できるに決まっている、このままのはずがない。
そう自分に言い聞かせて、笑みを作った。
以前にも聞かれた質問だったが、そういえば曖昧に答えたままだった。
「たまの休日に一緒に遊ぶくらいには、親しくしてもらってましたよ」
「そうか…」
「まあ、酒飲みに行ったり飯食ったりすんのがほとんどでしたけど」
「他には?」
「え、えーと…」
話しても大丈夫だろうかと悩んだが、話すことで何か一つでも室井の記憶に繋がればという期待もあった。
室井さんが聞きたがっているのだからと自分に言い訳をしながら、青島は話せる範囲の思い出を語ってみた。
といっても、多くはない。
青島がどうしても観たい映画だからと、付き合ってもらったレイトショー。
聞き込みの最中に見つけた満開の桜並木の下を歩くだけの花見。
室井の貰い物のチケットで観に行ったオペラで眠ってしまったことは、室井と時々思い返してみる笑い話だった。
「紅葉を見に河口湖までドライブに行ったこともありますよ」
そういえば、それが二人で出かけた唯一の遠出だった。
「そうか…」
黙って話を聞いていた室井は、眉間に皺を寄せていた。
何も思い出すものは無かったようだ。
一瞬酷く寂しい気持ちになったが、こんなことで落ち込んでいてどうすると自分に言い聞かせて、殊更明るく笑った。
「また、そのうちどっか行きましょうよ」
室井は眉間に皺を寄せたまま、じっと青島を見詰めていた。
能天気に誘ったのが気に入らなかったのだろうかと悲しくなったが、そうではなかったようだ。
「何も思い出せなくてすまない」
詫びる室井に、青島は目を丸くした。
「君が俺に良くしてくれるのは、単に上司命令だからではなく、そういった付き合いがあったからなのだろう。それなのに、俺は…」
不甲斐ないとばかりに顔をしかめている室井に、青島は小さく笑った。
「そんなこと、気にしないでいいんですよ」
好きで無くした記憶ではない。
室井が責任を感じる必要はなかった。
「俺はただ…」
室井さんのことが好きで、傍にいたいから傍にいるだけだ。
喉まででかかったが、言葉にはできない。
続きを待つ室井に、青島ははにかむように笑って首を振った。
「俺が今室井さんの役に立ってるとしたら、それは室井さんがそれだけのことを俺にしてくれたからですよ」
「良く分からない。何も覚えていないんだ…」
「だから、気にしなくていいってば。俺が覚えてるから、大丈夫」
理屈は全く通っていないが、青島が自信を持って言えば、室井は微かに笑った。
「また教えてくれ」
「え?」
「君の知る、俺たちのことだ」
思い出せないまでも、知りたがってくれていることが嬉しかった。
大丈夫、室井さんとまだちゃんと繋がっている。
青島はそう思えて嬉しかった。
「ゆっくりね」
だけど室井の負担にならないように、そう言っておいた。
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