青島はタクシーで病院に向かっていた。
表情は硬く、口角は下がっていた。
室井が事故にあって病院に運ばれたと連絡を受けたからだ。
幸いなことに、命に別状はなく大きな怪我もしていないという。
それを聞いていたから室井の安否については安心したが、他に気になることがあった。
何故、青島に連絡が来たのだろうか。
室井と深い仲にあることなど、もちろん誰にも話していない。
本人たちの間で如何に将来を誓いあっていたところで、表向きは上司と部下に過ぎなく、直属の上司ですらないから、第三者の目から見れば限りなく赤の他人だった。
だから例えどちらかが事故にあったとしても、切ないことに後から噂で聞く可能性はあっても、真っ先に連絡が来るはずはないのだ。
その理由がない。
ところが、室井が事故に合ったと湾岸署に電話をかけてきたのは、驚いたことに新城だった。
それも青島を名指しで、である。
青島と室井がそれなりに親しい間柄であることは知っているはずだが、だからといって新城が気を回して青島に室井の情報を教えてくれるとは思えない。
新城がそんな好意を、青島に対しても室井に対しても持ち合わせているとは到底思えなかった。
それなのに青島にわざわざ連絡をくれたのは何故か。
それに、大した怪我を負っていないのだとしたら、どうして室井自ら連絡をくれないのか。
青島は疑問と不安を抱えて、病院に向かっていた。
とにもかくにも、無事な室井の姿を早く見たかった。
病院に着き、新城から聞いていた病室に向かった。
病室前に数名の警察関係者らしき人がいたが、新城から指示でもあったのか、青島を見ても追い払うことはしなかった。
室井の病室かと確認すれば、一人が頷いて中に入るよう促してくる。
青島はノックをして、ドアを開けた。
個室のベッドの上に室井の姿があり、ベッドの脇には新城の姿もあった。
室井はベッドの上にいるものの半身を起こしており、本当に大きな怪我はないようで、青島は改めてホッとした。
「良かった、室井さん…」
力の抜けた声でそう漏らせば、室井が僅かに困った顔をした。
「君は…」
「心配しましたよ、室井さん」
「君は、誰だろうか」
困惑気味に呟かれた言葉に、一安心とばかりに脱力していた青島の方が困惑した。
聞かれた言葉の意味が分からない。
いや、意味は分かるが、室井の口から青島に向かって放たれるはずのない言葉だった。
「室井さん?何言ってんすか…?」
「ふむ、お前でも駄目か」
困った顔で黙りこんだ室井の代わりに口を開いたのは、新城だった。
青島は困惑したまま新城を振り返った。
「新城さん、これって一体」
「記憶喪失らしい」
「……嘘でしょ?」
あまりにもあっさりと言われた言葉にあんぐりと口を開けてたっぷり10秒絶句した青島がそう聞けば、新城は冷たい眼差しを寄越した。
「私はそんな嘘をついて貴様を騙して遊ぶほど、暇じゃない」
なんだか腹立たしい言い回しではあるが、確かにその通りではある。
青島に対する嫌がらせにしては、手間暇を掛けすぎである。
第一、室井が協力するはずがない。
つまり、この状況は意図的に作られたものではない。
本当のことなのだ。
そう納得すると、青島は目を剥いた。
「室井さん、記憶喪失なんですか?」
「だから、そう言っているだろう」
物わかりの悪い奴だと言わんばかりの新城の冷たい眼差しも、今ばかりは気にならない。
それどころではない。
青島は新城から視線を反らして室井を見下ろし、また新城を見た。
「ど、どうし、何が、何で」
あからさまに動揺する青島に、新城は至極面倒臭そうに顔をしかめた。
「少し落ち着け」
これでどうやって落ち着けというのか。
恋人が記憶喪失になっているというのだ。
青島のことも、誰だか分かっていない。
こんな状況で落ち着ける人間がいたら、お目にかかりたい。
それでも、冷ややかな新城の視線に晒されていると、少し冷静になってくる。
鉄面皮も、こんな時には多少なりとも役に立つようだ。
「どうしてこんなことに?」
時間をかけてようやくそれだけを言葉にすれば、新城はちらりと室井を見下ろし、青島に視線を戻した。
「一旦、外に出るぞ」
室井に一礼して、青島の返事を待たずに新城は病室を後にした。
青島が室井を見ると、室井も青島を見ていた。
視線が合っても逸らされはしなかったが、どこか気まずそうな眼差しは完全に他人を見る目をしていた。
それで当然だ。
今の室井にとって青島は見知らぬ赤の他人だ。
それがショックだったが、もちろん室井を責めることもできない。
青島はぐっと掌を握り込み、ぺこりと室井に頭を下げて、とりあえず新城の後を追った。
病室の外にいた刑事の姿は既になく、新城が一人立っていた。
青島が病室のドアを閉めると、新城が事情を説明してくれた。
「室井さんが乗っていたタクシーが事故を起こしたそうだ」
事故自体は、信号待ちしていた車にタクシーが突っ込むという、よくあるありふれた事故だったようだが、タクシーのスピードが出ていたせいか、室井は頭を打って意識を失った状態で病院に運ばれたという。
外傷はほとんどなく、検査の結果では脳波にも異常はない。
ところが、目覚めた室井には記憶がなかった。
自身の名前さえ覚えていなかった。
新城のその説明を、青島は唖然と聞いていた。
「お前の顔を見れば、何か思い出すこともあるかと思ったんだがな」
当てが外れたという新城の言葉には胸が痛む。
新城は捜査の時に室井が見せる青島に対する執着を知るだけに、もしかしたら記憶を失った室井も青島になら何らかの反応を見せるのではないかと賭けて、わざわざ青島を名指しで呼び出したようだった。
青島にしてみれば、仕方がないこととはいえ、恋人である自分の存在では室井を正気づかせることが出来なかったことが悲しかった。
「まあ、こうなってしまったものは仕方がない」
切り替えが早い男がそう言い捨てたから、青島は眉をひそめた。
「どうするつもりですか」
「室井さんは、しばらく病欠扱いするしかないだろう。長引くようなら休職してもらうことになるかもしれない」
確かにそれしかないだろう。
今の室井では、捜査の指揮など取れるはずがない。
「医師の話しだと、事故直後で混乱しているだけの可能性もあるらしい。それなら、じきに思い出すだろう」
それまでの辛抱だと、新城はあっさりしたものだった。
青島はといえば、相手が相手なのでそれほど悠長に受けとめられなかったが、新城の言っていることに納得するしかなかった。
室井の記憶が戻るのを待つしか、今のところ手段はなかった。
「そこでだ」
新城が仕切り直すように言うから、視線を新城に戻した。
「室井さんはお前に任せるから、連れて帰れ」
「…は?」
「一緒に暮らして面倒をみてさしあげろと言ってるんだ」
青島は目を剥いた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
「記憶がないんだ、一人では何かと不便だろう」
「そりゃあ、そうですけど」
「室井さんは独身の独り暮らし、ご両親は秋田だ。世話する人がいない。それとも、室井さんの恋人や親しい知人に心当たりでもあるか」
「…ない、ですけど」
それならここに、とはもちろん言えない。
「室井さんには散々世話になってるだろう。恩返しとでも思って、精々尽くせ」
なんて言い草だと顔をしかめたが、青島も元より断るつもりだったわけではない。
官僚の室井を何で一所轄刑事に託すんだと不審に思ったが、要は体のいい厄介払いである。
記憶喪失になった男の世話など、本庁でみてくれるはずがない。
本来なら家族の役目だったが、室井は独身で家族は秋田在住だった。
両親に事情を説明するのは、室井の意向でとりあえず控えているという。
外傷がなく命に別状はないし、年老いた両親に連絡をしてもただ心配をかけるだけだからという配慮だった。
記憶がないとはいえ、一人で生活できないことはないと室井は言っているらしいが、それでは心もとないから、青島になんとかしろと新城は無理を言っているのだ。
青島にしてみれば、ある意味ありがたい無理だった。
新城が命令してくれなければ、室井の世話を青島が焼くのは不自然だったからだ。
「何も24時間見張っていろというわけではない。お前も仕事があるしな」
さすがの新城も、所轄の仕事より官僚である室井のお世話を優先しろとは言わなかった。
「お前が不在の時には勝手に出歩くなと言って、部屋に押し込んでおけばいい。お前の願いなら大抵のことは、聞いてくれるだろ」
鼻で笑うその言い草もどうなんだと思ったが、青島には頷く以外の選択肢は色んな意味でなかった。
室井が記憶喪失になったという驚きから覚める間もなく、青島は俄かに室井の保護者となった。
退院の許可が下りた日、青島は再び病院を訪れ、室井を自宅に連れて帰った。
室井の自宅に青島が泊まりこむことも検討したが、官僚が住まう官舎では上司や同僚の目もあり室井が休養するには相応しくないのではないかと新城と相談し、結局青島の自宅に連れて帰り様子を見ることになった。
青島宅のリビングで所在無さげに立ちすくんでいる室井に、青島はなんとも複雑な気分だった。
「室井さん、来たことあるんですよ」
声をかければ、室井は不思議そうに部屋を眺めていた。
「君の家にか?」
「はい、時々飯食いにね」
食事をする以外にも色んなことをしたのだが、今の室井にそんなことは言えなかった。
「なんか思い出せそうですか?」
部屋を眺めていた室井が、青島に視線を移し眉を寄せた。
「いや、何も」
皺の寄った眉間に、記憶を無くしていても癖は変わらないもんなんだなと、変な感心をしつつ、青島は軽く笑った。
「そうっすか。まあ、そのうち思い出しますよ」
「そうだろうか…」
呟く室井は、見た目はどこからどう見ても室井だったが、記憶がないという状況のせいか頼りなく感じた。
きっと不安なのだろう。
自分が何者かも分からないのだから、それで当然だ。
室井の記憶にあるのは、病室で新城に説明された書類に書かれているような室井のこれまでの略歴くらいだ。
警察官であると説明されても、ピンときている様子はまるでなかった。
突然、名前や職業を押しつけられても納得できるはずがなく、足元が覚束ない感覚は消えないだろう。
だからこそ、自分がしっかりしなければと青島は思った。
今の室井にとって青島は、これから一緒に暮らす知らない男に過ぎない。
まずは室井に信用してもらい心を開いてもらって、支えとなってやらなければと心に決めた。
医師からも、なるべくストレスなく心穏やかに過ごせるように注意してやれと言われている。
いつまでも室井に忘れられてしまったことを嘆いている場合ではなかった。
青島には室井にしてやれることがあった。
今はその役割をこなすしかなかった。
「大丈夫大丈夫!なんとかなりますって」
明るく笑った青島に、室井が懐疑的な視線を寄越した。
何を根拠に、と顔に書いてある。
「…君は随分楽天的だな」
「えー?そうですかね?けど、慌てても仕方ないし」
「そうだが…困るだろう」
「そりゃあ、困りますよ。室井さんには記憶取り戻してもらって、捜査の指揮をとってもらわないと」
そして、恋人の俺のことも思い出してもらわないと。
そう思ったが、口には到底出せなかった。
記憶のない室井にとって、男の恋人がいたことなどを知らせても、余計な混乱を招くだけだ。
それどころか、青島が嘘を吐いていると思われないとも限らなかった。
記憶を無くす前の室井となら明確な信頼関係があったが、今のところ今の室井からの信頼は皆無と言っていい。
青島の言葉の全てを信じてもらえるとは思えなかった。
二人の関係は誰にも打ち明けていなかったから、他に証人がいない。
室井が忘れてしまったから、今や二人が恋人だったことを知るのは青島一人である。
その事実が心許なく、青島を僅かに心細くさせていた。
「そうではなくて」
室井の声に、青島は漠然とした不安を心の隅に追いやった。
青島が不安になっている場合ではない。
今現在余程不安なのは、記憶のない室井の方だった。
青島がしっかりして、支えになってやらなくてどうする。
「なんですか?」
暗い顔を見せてはいけないと殊更明るく聞き返せば、室井は眉間に皺を寄せたまま呟いた。
「君が困ると言ってるんだ」
「俺?」
「世話をかけることになり、申し訳なく思っている」
室井が侘びるから、青島は目を丸くした。
室井が気にしているのは、他人の青島に面倒をかけてしまうことのようだった。
律儀なところも変わらない。
記憶を無くしても室井は室井なのだと思うと、自然と青島の顔に笑みが浮かんだ。
「仕事は出来ないだろうが、一人で生活することくらいは出来そうだ。自宅に帰ってもいいんだぞ」
室井にとって今の青島は他人であり、新城に親しい部下だと半ば嫌みをこめて紹介されただけの相手だ。
世話になるのを躊躇うのも当然かもしれない。
気を遣ってそう言ってくれているのが分かるが、青島には室井を放り出すことなど出来なかった。
純粋に記憶がない室井のことが心配だったし、ただただ一緒にいたいという気持ちもあった。
室井の中に恋人の自分が存在しないのであれば、せめて出来る限り傍にいることで自分の存在を近くに感じていて欲しかった。
それに、青島が傍にいることで思い出してもらえることもあるかもしれないという、淡い期待も少なからずあった。
「水くさいですよ、室井さん。困った時はお互い様です」
青島が屈託なく笑えば、室井は僅かに戸惑った。
「俺たちはそんなに親しい間柄なのか」
「ええ、まあ。その辺りは追々ね」
一緒に査問会議にかけられた仲だと言っても伝わるか分からないし、実はこの部屋に室井のパジャマが常備されているなどという事実を教えても混乱が増すだけかもしれない。
とりあえず、自分に馴れてもらうところから始めようと、青島は思った。
「飯でも食いに行きませんか?腹空きました」
室井は少し考えこんでいたが、今は何を悩んでいても仕方がないと割りきったのか、頷いて了承した。
「まずは親睦でも深めましょう」
青島の笑顔がお気楽に見えたのか、室井は僅かに呆れた顔をしたが、深刻にならない青島につられたのか、ひっそりと溜め息を吐くと微かに笑みを浮かべた。
「よろしく頼む」
恋人と交わすには寂しい挨拶だったが、寂しさに混ざって少しだけ嬉しい気持ちもあった。
記憶を失っても室井に拒まれていないことが、青島には嬉しかった。
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