湾岸署管内で、殺人事件が起きた。
湾岸署に特捜本部が立ち、本庁の刑事の出入りが激しくなり、強行班係りもかり出されている。
おかげで、すみれたち盗犯係りも、強行犯係りの手伝い等で忙しくなっていた。
「恩田君恩田君恩田君」
報告書を書いていたすみれは、嫌そうに顔をあげた。
中西が駆け寄って来る。
「なんですかあ」
「これ、本部の室井さんに届けてくれる?」
「ええー?私、今忙しいんですけど」
「頼むよ、署長に呼ばれててね」
すみれに書類の束を押し付けた中西が、片手ですみれを拝みながら慌ただしく刑事課を出て行った。
その後ろ姿を見送り、すみれは膨れっ面で席を立った。
「ここまで持って来たんなら、会議室まで行けばいいのに」
ぶつぶつ言いながら本部になっている会議室に向かった。
会議室のドアを開けて、中を覗き込む。
これで室井がいなかったらどうしてくれようと膨れて確かめたが、幸いなことに室井は会議室にいた。
室井だけではなく、傍には青島の姿もあった。
二人とも真面目な表情をしており、事件の話でもしているようだった。
話しを遮るのはマナー違反ではあるが、相手が青島なら許されるだろう。
そう勝手に判断して、すみれはさっさとお使いの役目を果たそうと中に入ったが、丁度よく二人の話は終わったようだった。
だが、すみれはすぐには動かなかった。
小さく頭を下げて離れようとした青島を、室井が引き止めたからだ。
室井が何かを言うと、青島は笑って何かを答えて軽く手を振り、室井から離れた。
出口に向かう青島は、当然そこにいたすみれに気付く。
青島は僅かに驚いたようだった。
「どうしたの、すみれさん」
「係長にお使い頼まれた」
青島に資料を差し出すと、青島は怪訝な顔をした。
「俺に?」
「違う、室井さんに」
「ああ…なら何で俺に寄越すの」
「室井さんに渡してよ」
「ええ?ここまで来たんだから、自分で渡しなよ」
無精しないでと大変不本意な注意を残し、青島はさっさと会議室を出て行ってしまった。
すみれは溜め息を吐くと、室井に近付いた。
二人のやり取りを見ていたのか、室井はすみれに気付いていた。
「どうも」
「どうかしたのか」
「中西係長からです」
「ああ…ありがとう」
「いいえー」
私も忙しいんだから雑用に使わないで、とは室井には言わなかった。
すみれを雑用に使ったのは室井ではないからだ。
それに他に聞きたいことがあった。
「まだ何か?」
立ち去らないすみれに室井が尋ねるが、すみれはそれには答えずに逆に聞き返した。
「室井さん、青島君と何かありました?」
「何かとは?」
「知りませんけど」
それを聞いてるのは、すみれの方である。
「何も無いが」
「そうですか?そのわりに、顔が怖いですけど」
官僚に面と向かって顔が怖いと言えるすみれは、室井の相貌にも怯むことはないが、立ち去る青島の背中を睨み付けていたことが気になった。
室井はすみれの指摘に益々眉間の溝を深くした。
「…別に何かあったわけじゃない」
「そうですか?ならいいですけど」
本当に何もないなら、ないに越したことはない。
そもそも、青島と室井に何があろうとすみれには関係のないことだ。
どうにも最近二人のことが気に掛り、余計なことに気を回し過ぎている気がする。
野次馬根性がないわけではないすみれだが、青島と室井のことに関しては、あまり関わるべきではないかもしれない。
知らなくてもいいことは、知らなくてもいいのだ。
最近ではそう思うようになっていた。
それでも余計な口を挟みたくなるのは、いつだったか自分を守ってくれた同僚が傷ついたりしなければいいなという願いが根底にあるからだ。
「何もないなら良いんです。失礼しました」
すみれはペコリと頭を下げ踵を返そうとしたが、室井に呼び止められた。
「恩田君」
「何ですか?」
「青島は、俺のことを怒っていないか」
どこか困惑した表情で問われ、すみれの方が困惑した。
しばらく前に、青島に避けられている気がすると言っていたが、その不安が今も続いていたのかと、すみれは驚いた。
「青島君が、室井さんを?…ないと思いますけど」
少なくとも私には思い当たる節が無いと言えば、室井は難しい顔で頷いた。
「…そうか」
「何でそう思うんですか?」
「視線が合わない」
「え?」
「今も合わなかった」
一瞬、見つめ合わなきゃならない必要性の方が気になったが、よく考えれば青島は人の目を真っ直ぐ見つめて話す癖がある。
青島が真剣になればなるほど目力が強くなる傾向にあり、それは時と場合によっては、見つめられた相手が勘違いしてしまいそうなほどの熱視線だ。
あれがないなら、確かに青島の室井に対する態度はおかしいということだろう。
すみれもそうは思うが、青島が室井に対して怒っているとは思えなかった。
「思い当たることがないならいいんだ」
引き止めてすまないと、室井は私事ですみれを引き止めた事を詫び仕事に戻ろうとしたが、今度はすみれが室井を呼び止めた。
「青島君、彼女が出来たんです」
それまでの会話と脈絡のない言葉だったが、室井が目を剥いたのはそのせいではない気がした。
室井は一瞬だけ言葉に詰まっていた。
「そうか」
他に言うこともないという雰囲気だったが、それがどうしたとは室井は言わなかった。
無表情の下に衝撃を抑え込んでいるように見えたが、すみれの気のせいかもしれない。
すみれはそうなんですと頷き、何食わぬ顔で続けた。
「もう別れちゃったみたいですけど」
室井がまた目を剥いた。
今度はすぐに表情を取り繕うことも出来ずにいる室井にペコリと頭を下げて、すみれは今度こそ退出した。
(余計なことを言ったかな)
すみれは刑事課に向かって歩きながら考えていた。
室井の目を見られない青島のこと、そのことを気に病む室井のこと、その両方を知ってしまったすみれは、自分の深読みが強ち間違いではないというある程度の確信を持った。
はっきりとそれが恋なのだと決め付けたわけではない。
それを決めるのはすみれではなく、青島であり室井だ。
すみれは単なる傍観者である。
だけど、意外とただの傍観者でいることは難しいものだなと、すみれは苦笑した。
刑事課に戻れば、青島がのんきに笑っていた。
すみれに気付き、遅かったねと笑う。
「室井さんと何かあった?」
探るような他意がある雰囲気もなく、ただただ世間話のような軽さで、青島は笑っていた。
(青島君も深読みしてるのかしら。それともこれこそが深読みかな)
すみれも何食わぬ顔でニコリと笑った。
何にせよ、室井との仲を深読みされては敵わない。
すみれが室井に恋心を寄せているなどと思ったら、青島はすみれに譲りかねない。
譲られてもすこぶる困る。
すみれが室井に寄せる想いなど、ただの一つだ。
「いつ警視総監になってくれるのか、聞いてただけよ」
そう言ったら、青島は苦笑していた。
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