最初はビールで乾杯をした。
酒を飲む時は大抵そうだから間違いない。
テーブルには約束の鍋が用意されていた。
確かにきりたんぽだった、美味かった。
それ以外にもつまみになるような料理が並んでいたような覚えがある。
もらいものだと言っていたが、塩辛が美味かった。
途中で日本酒に切り替えた。
思い出したが、これがまた美味い酒だった。
秋田の地酒だと言っていたような気がする。
いや、違ったかもしれない。
良く覚えていないが、とにかく美味かった。
いや、味の感想はどうでもいい。
問題なのは、日本酒を飲んだ後のことだ。
その後は―。
「…先輩、青島先輩…っ」
ハッと気付くと、真下が目の前にいた。
青島の手からほとんど灰になり今にも床に落ちそうになっている煙草を取り上げ、灰皿に捨てる。
「目開けたまま寝てるんですか?」
器用ですねという言葉はもちろん褒め言葉ではなく呆れているのだ。
青島はどうやら考え事に更けるあまり、喫煙室に現われた真下に全く気付いていなかったらしい。
気まずさに青島は頭を掻いた。
「ちょっと、考え事してただけだよ」
「珍しいですね」
「うん…って、それどういう意味だよ」
「まあまあ、僕で良かったら相談に乗りますよ」
いい笑顔で隣に腰を下ろす真下に、一瞬心が揺れる。
誰かに相談できるものなら相談したかった。
もちろん室井とのことだ。
だが、何を相談したらいいものだか分からない。
まさか、酔った弾みで室井さんといい関係になっちゃったみたいなんだけどどうしよう、だなんてこの口の軽いキャリアにも他の誰にも相談できない。
せめてあの夜何があったのかだけでも思い出したいのだが、そんなことを真下に相談しても仕方が無かった。
真下が青島の変わりに思い出してくれるわけもない。
青島は新しい煙草を口に咥えて火を点けた。
「随分親切だな、なんか企んでんだろ」
真下は悪びれることもなく笑ってすり寄ってきた。
「先輩、合コンやりましょうよ」
「お前も好きだねー」
「警務課の婦警が先輩も連れて来たら合コンしてくれるって言うんですよ」
なんか先輩人気あるみたいですね、と真下が若干不満そうに言う。
「あ、そうなの?」
ご指名なら行こうかなと思い青島は嬉しげに笑ったが、すぐに思い直す。
脳裏に室井の顔が浮かんだ。
青島は室井に対して恋心を寄せているわけではない。
だが、あの夜室井と何かしらのことが起こり、キスするような仲になっていた。
推測だが、おそらく今の青島は室井と恋人同士なのである。
少なくとも、室井はその気でいるはずだ。
青島には全く身に覚えはないが、生真面目で冷静な室井が一人勝手に早とちりをして盛り上がっているとは考えにくい。
泥酔した青島が何かしらの失敗をして、室井と何かしらの行為に及び、何かとんでもないことをしでかしたのだろうと思うが、その全ての「何」が一つも思い出せない。
あの夜何があったのかを知り、室井が何かを誤解しているならその誤解を解かなければならない。
それまではこれ以上の迂闊な行動は避けるべきだった。
そんな思いの中には、少なからず、室井を傷つけたくはないという思いもあった。
青島は無意識に室井に義理立てをしていた。
「しばらくちょっと忙しくてさ、ヒマになったらね」
真下の誘いに対してそんなふうにお茶を濁すと、真下は絶対ですよ!と力強く念を押して仕事に戻っていった。
真下がいなくなると、携帯電話がメールの受信を知らせた。
そのメールの宛先が室井になっていて目を見開いた。
そしてげんなりする。
室井のメールを不快に思ってのことではない。
青島には室井とメールアドレスの交換をした覚えが無かった。
つまり、あの夜にアドレスを交換したということだ。
まさか室井が勝手に青島の携帯からアドレスを盗み見するわけもない。
自らの意思で室井とアドレスを交換し登録したであろうに、交換したことすら青島は覚えていなかった。
そんな自分に嫌気が差しただけだった。
とにかくと気を取り直して、青島は室井のメールを開いた。
今夜会えないか。
用件のみの短いメールだったが、室井らしくて思わず笑ってしまった。
だが、のんきに笑っている場合ではない。
これは良い機会なのかもしれない。
青島はこの一週間、暇さえあればあの夜のことを考えていた。
自分が何をしたのか、室井とどうなったのか。
だけど、さっぱり思い出せない。
多分、これだけ考えても思い出せないのだから、本当に忘れてしまったのだろう。
こうなってしまったら、室井に聞くしかなかった。
あの夜、俺、何しました?とは物凄く聞きづらい。
室井が青島との新たな関係を受け入れてしまっているだけに、すこぶる聞きづらい。
だけど、知らないままでもいられない。
このままでは、室井とどう接していいのか分からない。
ここは勇気を出して、室井と向き合うべきだと思った。
青島は悩んで室井を自宅に誘った。
込み入った話をすることになると思ったからだ。
新木場の駅まで迎えに行くと言ってはみたものの大丈夫だと言うから、住所と簡単に駅からの行き方をメールで知らせておいた。
室井の了解という返事を貰った青島は、定時で仕事を終え急いで帰宅した。
一応簡単に部屋を片付け、振る舞えるほどの料理をするほどの腕も時間もないから、寿司の出前を取った。
やけに構えて室井を待っている自身に気付いていたが、青島は未だに少し混乱していたのかもしれない。
上司を部屋に招いたのか、恋人を部屋に招いたのか。
自身のこととはいえ、判断が付かなかった。
寿司の出前が届いて少しすると、室井がやって来た。
出迎えた青島に硬い表情を見せるから、室井も緊張しているのだろうと思った。
青島はとりあえず笑顔で室井を招きいれた。
「いらっしゃい、室井さん」
「お邪魔します」
「迷いませんでした?」
「ああ、大丈夫だ」
「なら良かった」
青島が促してリビングに通すと、室井は少し驚いた顔をした。
「わざわざ寿司なんかとってくれたのか」
気を遣わなくて良かったのにと言ってくれるから、青島は肩を竦めた。
「特上とかじゃないんで、気にしないでください」
余計なことを言ったら、室井は苦笑して「ありがとう」とだけ言った。
青島はとりあえず室井を座らせ、冷蔵庫にビールを取りに行った。
前回の失敗を踏まえると酔っ払うことには抵抗があるが、素面で向き合うにはかなり勇気がいる。
多少は酒の力を借りることにした。
二人分のグラスと缶ビールを持って戻ると、手酌でいいと言う室井に一杯だけと断って酌をし、自分のグラスも満たして乾杯した。
青島は乾杯しながら、初めて一緒に酒を飲んだ時のことを思い出していた。
どういう経緯だったか忘れてしまったが、たまたま湾岸署に来ていた室井を誘って達磨で飲んだことがあった。
もちろん接待などではなく、ただ二人きりで乾杯した。
あの時も、室井は青島に気を遣わせることを嫌った。
その証拠に、大分上の上司に気を遣いながら酒を飲み気疲れして帰宅したということもなく、その夜のことを心から楽しかった夜として記憶している。
プライベートになったからと言ってお喋りになる男ではなかったが、青島の話を聞き頷いて、時には意見し、時には笑みを見せてくれた。
プライベートを初めて一緒に過ごした室井の好意的な態度は、室井に好意を持っていた青島を喜ばせたものだった。
それから何度もそんな機会があったわけではない。
長い付き合いの室井と一緒に酒を酌み交わしたのは、片手で足りる程度である。
そのうちの一度が、青島が記憶を無くした一夜だった。
その話をしたかったのだが、いきなり切り出す勇気はないし、食事をしながらする話題でもなかった。
青島は食事をしている間は、その話をしないことにした。
「寿司、遠慮しないで食ってくださいね」
「ああ、ありがとう」
「早く食べないと、俺にみんな食われますよ」
気を遣って寿司を用意した男の言葉とは思えないことを言う青島に苦笑し、室井は箸を動かした。
「そんなに食うと太るぞ」
「毎日走り回ってますからね、大丈夫ですよ」
「それもそうか…運転不足は俺の方だな」
「あー、スポーツする時間なんかないですもんね」
青島も仕事柄身体を使う機会が多いというだけで、スポーツをしているわけではないし、そんな時間も無かった。
現場に出るわけではない室井だから、室井の方が身体を使う機会はないだろう。
「その分頭使ってますから、カロリー消費してんじゃないですか?」
いい加減な青島の言葉に呆れた顔をしたが、室井は肩を竦めた。
「誰かさんのおかげで身の細る思いもしてるしな」
「…面目ないです」
身に覚えがありすぎて恐縮した青島に、室井は小さく笑った。
「冗談だ、本気にするな」
青島は驚いた。
室井の冗談など初めて聞いた気がする。
それ以上に、青島に向けられた優しい笑顔に驚いた。
室井がこんな顔で笑うのを初めて見た。
普通に話しているといつもとそう変わらない室井だったが、やっぱり変わっていないわけがないのだ。
笑顔一つで思い知らされた気がした。
密かに呆然としている青島のグラスに室井がビールを注いでくれる。
「美味いな」
寿司の感想を漏らす室井に、青島は思い出したように笑って頷き箸を動かした。
とりあえず食事を済まそうと思ったが、その後のことなど何も考えていなかった。
いい加減なんとか切り出さなければ。
青島がそう思ったのは、食後の一服なんかを悠長にも楽しんでいる時だった。
室井にも飲み過ぎるなよと釘を刺されたし、前回の反省もちゃんと踏まえ、酒は早々に切り上げてコーヒーを飲んでいた。
ほぼほぼ素面であり、コンディションは悪くない。
室井も来た時より寛いだ顔をしている。
怖い顔をされているよりは聞きやすい。
あの夜、俺は一体何を。
聞きたいのはそれだけだ。
だが、そんな単純な質問なのに、中々聞けない。
穏やかな室井の表情が変わってしまうのが怖かった。
青島の傍にいて、室井がこんなに穏やかな顔をしているのは初めてだった。
青島と居ることに何かしら感じてくれているのかもしれない。
そう思ったら、これから青島がしようとしている質問は、大分ろくでもない気がした。
自身をろくでもないと嫌悪するのは仕方がない。
自業自得である。
だが、そのろくでもない自分を室井に知られるのが怖かった。
「青島」
室井に呼ばれて、青島はハッとした。
慌てて室井を見れば、室井は青島の手元を指差した。
「灰が落ちるぞ」
今日は随分とタバコを無駄に燃やす日だ。
青島は苦笑して灰皿に煙草を捨てた。
「どうした?急に黙って」
「いや…」
「何か考えこんでいたみたいだが」
室井が青島の話を聞こうとしてくれている。
今がチャンスなのかもしれない。
今言わなければ、本当のことを知らなければ。
青島は意を決して室井を見つめた。
室井も真っ直ぐに青島を見返してくれる。
青島の言葉を聞くために、ただ待ってくれている。
今しかない。
「室井さん」
「なんだ」
「あの、俺……」
この間、一体何を―。
どうしても口からその言葉が出て来ない。
何か言いたげに口を動かすが言葉を発しない青島に、室井は少し眉間に皺を寄せた。
「…緊張してるのか?」
青島の頬がひきつった。
緊張はしていた。
青島の知らない室井に、ただの上司ではなくなってしまった室井に、緊張していた。
「俺もだ」
短く言って、室井が距離を詰めてくる。
そうか室井さんも緊張してるのか、と余計なことを考えていて反応が遅れた。
気付けば、室井はすぐ傍にいて、青島の手を握っていた。
何故か分からないが、顔に血が上る。
恥ずかしいのか照れくさいのか判断が付かなかったが、少なくても嫌悪は感じていなかった。
何でだろうかとふと考えた。
だが、考え事をしている場合ではなかった。
目の前に迫った室井の顔、触れた唇に、青島はようやく焦った。
「室井さん、ちょっと待って…」
みっともなく上ずった声をどう受け止めたのか、室井は動きを止めた。
「嫌か?」
「いや…とかでは、ない…ですけど…あの、室井さん…俺…」
しどろもどろになりながら室井に意思を伝えようと試みるが、「それ以前の問題で俺室井さんとキスする理由が分かんないんですけど!」ということをオブラードに包んで伝えることは至難の技だった。
あーとかうーとか呟き一向に話が進まない青島に往生際が悪いと焦れたのか、室井は青島の片手を握ったまま、片手で腰を抱いた。
更に密着した身体に、青島は困惑して動揺した。
益々熱くなる顔とうるさい心音に気付く余裕は無かった。
「室井さん、俺…っ」
強引ではない口付けで言葉を遮られてしまうのは、青島が真剣に抵抗しないからだ。
抵抗できなかったのだ。
室井が青島の意思を無視して、青島に触れているはずはない。
つまり、室井は青島がこうすることを望んでいると思っているのだ。
青島が抵抗すれば不愉快な思いをさせるのではないか、恥を掻かせるのではないか、なにより傷つけるのではないか。
そんなことを動揺する頭の片隅で考えていたら、身動きが取れなくなってしまったのだ。
「青島、嫌ではないなら、触れさせてくれないか」
キスの合間に囁かれる。
嫌ではない。
驚いたことに室井に触れられることは嫌ではないのだ。
正直、彼とのキスは気持ちが良かった。
そういえばしばらく彼女がいない。
欲求不満なのかもしれないと、どこかで冷静な自分が突っ込みをいれるが、そんなことを考えている場合では全くないから、やっぱり冷静とは言えなかった。
室井とキスするのは嫌ではないが、青島にはこんなことを室井とする理由がなかった。
だが、室井にそうとは言えない。
言えないから、こんなことになってしまっていた。
「室井さん、待ってください…」
押し返すように室井の肩を掴むが、突き放すほどの力は入らない。
だから、室井も離れていかない。
本気の抵抗ではないから、本気で嫌がっていると室井も思っていないのだ。
「青島」
名を呼び見つめてくる目は、青島のよく知る室井の目ではなかった。
室井に男を感じて、息を飲む。
これはまずいと本能で理解して手に力を込めたが、
「嫌ではないなら…この間と同じことがしたい」
そう囁かれて、青島は動きを止めた。
この間と同じこと。
この間とは、青島が記憶を無くした夜のことだ。
室井はあの時と同じことをしようとしている。
ということは、青島が聞かなくても室井が自ら教えてくれるということだ。
それなら、いっそこのままなるようになってしまえばいいのではないかと青島は思った。
室井を失望させることも傷つけることもなく、何があったかを知れるいい機会だ。
だが、これからするであろうことは、青島が酒の過ちで犯した大失態のはずだ。
それを再度経験することがいいことのはずがない。
青島は迷った。
何があったのかをはっきりさせたい、はっきりさせたいがどうせろくなことをしていないのは目に見えている。
はて、どうしたものか。
などと、悩んでいる暇は、やっぱり無かった。
室井の吐息が首筋にかかり、ベルトが外される。
抵抗しなくちゃと思った青島の耳に、名を呼ぶ室井の声が聞こえた。
色のついた、吐息混じりの声。
青島を求めているのが伝わってきて、青島の抵抗しようという気持ちを萎えさせた。
肌を吸いながら愛撫してくる手に抵抗できないどころか、息を乱す始末。
どうしよう、どうしよう、どうしよう―。
こんなことをしてはいけないと冷静に思う反面、自身を求めてくる室井に困惑した。
そして、何より、室井に求められて興奮している自分自身に混乱した。
「青島…」
何かを堪えるような声が耳を掠める。
思わず視線を合わせて、後悔した。
「君もしてくれないか…触ってくれ」
有り得ないはずの室井の願い。
どうしよう、どうしよう、どうしようと胸中で繰り返しながら、青島は室井の望む場所に手を伸ばした。
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