住所が書かれたメモ用紙と目の前の大きくはないマンションを見比べて、青島は嘆息した。
我ながら、素晴らしい行動力だと思う。
きっと誰も褒めてはくれないが。
昨日思い立ち、今日ここにいる自分に半ば感心し、半ば呆れていた。
よくやるよと心の中の自分が笑うが、来たことは後悔してはいなかった。
「さて、どうするかな…」
青島は少し考えこんでから、携帯電話を取り出した。
室井に電話をかける。
2日前に電話で声を聞いたばかりだった。
退院したその日に、その旨を知らせる連絡をしていた。
青島の退院を喜びホッとしたような柔らかい声で話していた室井を思い出して、青島は小さく笑みを零した。
数度のコールで、電話が繋がった。
『はい』
「お疲れ様です、青島です」
恋人にこの挨拶もどうなんだと思うが、癖でいつも「お疲れ様」と声をかけてしまう。
『お疲れ様…どうした?』
先日電話したばかりだからか、少し驚いたようだった。
日頃それほどマメに連絡をとっているわけではなかった。
青島も室井も仕事が忙しく、互いに避ける時間は限られている。
もっとも室井は美幌署に移ってからは本庁にいる時よりも時間に余裕があるようだった。
「室井さん、今どこっすか?」
『今は家にいるが』
「もう帰ってたんすね」
それは好都合と笑みを浮かべて、歩きだす。
「室井さんちって、何階でしたっけ?」
『3階だ』
「3階ね…」
マンションに入り、エレベーターを待たずに、階段を一段飛ばしで掛け上がる。
『青島?どうしたんだ?』
「いえ、ちょっと…ついでに何号室?」
『302号室だが…おい、青島?』
不審そうな室井の声には答えず、3階の廊下を大股で歩く。
「302、302と…あ」
あった、とは心の中で呟き、室井と書かれた表札を軽く指先で弾いた。
中に室井がいると思うと不思議な気がした。
不思議も何も室井に会いに来たのだからいて当然なのだが、数時間前まで千キロ近くも離れた場所にいたのにと思うと感慨深い。
「室井さん、ドア開けてくださーい」
『なに?』
「だから、ドア。室井さんの部屋の」
『何故だ』
もっともな室井の質問に、青島は室井に見えもしないのに肩を竦めた。
何故かと聞かれれば、答えは一つしかない。
「お客さんがいるからです」
言って、インターホンを押す。
電話越しに、室井が息を飲む音がした。
すぐに、軽い衝撃音と共に雑音が聞こえてくる。
「室井さん?」
電話に語りかけるが返事はない。
変わりに、ドアの向こうで大きな音がしている。
珍しくも乱暴な足音が止ると、慌ただしく鍵を開けてドアが開いた。
久しぶりに会った室井は、零れ落ちてきそうなほど目を見開いていた。
青島は満面の笑みで片手を上げた。
「きちゃいました」
室井の目が限界まで見開かれ、信じられないものを見るように凝視してくる。
青島が手を振りながらへらへら笑っていると、室井の眉間に皺を寄り、上げていた腕を力強く掴まれた。
その力があまりにも強いから怒らせたかと一瞬焦る。
だが、ドアの内側に引っ張り込まれ抱き締められて、室井が怒っているわけではないと悟った。
腕を掴むよりも強い力で抱き締められる。
耳に届いたのは、愛しい人の暴言だった。
「このほんじなすっ」
怒ってはいないかもしれないが文句がないわけでもなさそうな室井に笑って、青島はその背中を抱いた。
「いきなり来るやつがあるか」
「あはは、すいません。思い立ったの、昨日だったから」
「それでも電話くらいできるだろ」
「まあ、そうなんすけどね」
ちょっと驚かせてみたかったから、と言ったら本気で怒られそうだ。
「俺がいなかったらどうする気だったんだ」
「えー?考えてなかったなぁ。そしたら、観光して帰ったかな」
「ほんじなす」
もう一度言われて青島は苦笑した。
「そう、バカバカ言わないでくださいよ」
青島の肩に顔を埋めたまま、室井が黙った。
首筋に感じる息と体温で青島の身体が熱くなる。
抱いた手でその背中を撫ぜると、室井が顔を上げた。
じっと青島を見つめる目からは驚きが消え、変わりに喜びが見えた。
見つめるだけで何も言わないが、それだけで室井の気持ちが伝わってくる気がした。
目は口程に物を言うとはいうが、室井の目はまさにそれだと思う。
あまりに熱心に見つめれ、青島は苦笑した。
「そんなに見ても、代わり映えしませんよ」
「本当に青島か?」
今更な確認がおかしい。
「他になんに見えますか」
分かり切った答えでも探しているのか、またじっと見つめられてさすがに照れくさい。
青島は笑って茶化した。
「穴、空きます」
「…それは困る」
ようやく室井は青島を解放した。
「とにかく、上がれ」
「ありがとうございます」
室井に勧められるまま、靴を脱いで部屋に上がった。
室井の部屋は相変わらずキレイで、必要最低限の生活用品しか見当たらない部屋は殺風景だった。
本庁にいても美幌署にいても、そんなところは変わりない。
部屋の間取りが違う分くらいの違和感しかなかった。
「変わんないっすね、室井さんち」
「東京の部屋で使っていたものしかないからな」
「ソファも変わんないや」
座ろうとして、そこに室井の携帯電話が投げ出してあることに気付いた。
さっき室井が放り出したのだろう。
青島が電話を切ったから室井の携帯も切れているが、開いたままの携帯が無造作に投げだされてあって、室井が余程慌てていたことが分かる。
青島は笑みを浮かべて、室井の携帯を畳みテーブルに置くと、ソファに腰を下ろした。
「青島、飯は?何か食べるか?」
台所から室井が声をかけてくる。
「室井さんは?」
「俺は食い終わったとこだ、何か食べるなら作るぞ」
「んー、いやー」
青島は考える素振りをしてから、室井を手招きした。
「室井さん室井さん」
室井は首を捻りながら、近付いてきた。
「どうした?」
「ん」
ポンポンと自分の隣を掌で叩く。
座れというアクションだと理解してくれたのか、室井は素直に腰を下ろした。
膝にあった室井の手を握る。
室井の目が少し見開かれて、青島は微笑んだ。
「何もいらないから、隣いてください」
強く掌を握り返される。
「少し、話しましょうよ」
腹が空いていないこともなかったが、青島にはそれよりも満たしたいものがあった。
だから、会いに来たとも言える。
「身体の調子は?」
室井が青島の腰の辺りに視線を落とした。
服を着ているから見えるわけもないが、気にしてくれているのだろう。
青島は傷の上に手を当てた。
「順調っすよ。リハビリの成果かな?退院も予定より少し早かったです」
「そうか…無理はするなよ」
「分かってますよ。まあ、まだあんまり走れないから、復職してもしばらくは内勤かな」
「復職はいつからだ?」
「明後日です」
「明後日?」
室井がまた目を剥いた。
確かに驚くかもしれない。
2日後には復職なのに、青島は今北海道にいた。
自分でも自分の行動に少し驚いている。
唖然としている室井に、青島は肩を竦めた。
「ちょっと待て、君明日帰るのか」
「ええ、明後日から仕事なんで」
「ここにいるのは今夜だけか」
「残念ながら」
一泊二日のとんぼ返りだ。
一緒にいられる時間は大してないことなど承知で来ている。
まさかすぐ帰ると思っていなかったのか、室井は眉間に皺を寄せ、深い溜め息をついた。
「何をしてるんだ、君は…」
何と言われれば、していることは一つしかない。
「室井さんに会いに来ただけっすよ」
のんきに答えたら、室井は眉間の皺を溝にした。
それがあんまり恐い顔だったから、青島は笑ってしまった。
「来ちゃダメだった?」
そうは聞いてみるものの、室井が迷惑だと思っていないことは、青島も良く分かっている。
室井は空いた手で青島の頭を乱暴に撫ぜた。
「んなわけあるか」
青島は目を細め、室井に顔を寄せた。
軽く唇を触れ合わせ、もう一度重ねると、室井が少し距離を取った。
それが不満で、青島は唇を尖らす。
「なんで避けんですか」
「避けてるわけじゃない」
「あーそー、じゃあ、動かないでくださいね」
そう言って青島が再び顔を寄せると、室井は難しい顔で受け入れた。
何度も唇を重ねると、室井の手が青島の首に掛かった。
その手がもどかしそうに青島に触れる。
頬を撫ぜ、首筋に触れる熱い手は、どこか躊躇いがちだったが、はっきりと青島を求めていた。
それに気を良くして、青島は室井をソファに押し倒し、乗り上げた。
「あ、青島、ちょっと待て…っ」
室井が慌てるが、青島は気にしなかった。
唇に何度もキスをし、室井の首筋に顔を埋めてそこにもキスを繰り返した。
「…待て、青島…っ」
喘ぐように言って、室井が青島の頬を掴んで顔を上げさせる。
室井を見下ろせば熱い視線が返ってきて、重ねた身体からは興奮が伝わってきた。
それでいて何を拒むんだと思いながら、室井の手にキスをしてなおも誘う。
「なんすか?」
「お前…病み上がりだろ」
それが室井の乗ってこない理由だと悟ると、青島は安心したように遠慮なく室井を組み敷いた。
「大丈夫大丈夫。抜糸も済んでるし、傷開いたりしませんから」
室井のシャツの裾から手を差し入れ、素肌に触れながらキスをする。
「っ…でも、お前…っ」
ズボン越しに中心に触れると、室井が息を飲んだ。
反応を返してくれる室井が嬉しくて、青島は微笑んだ。
「俺は室井さんが欲しいです」
室井は眉間に皺を寄せて呻くように言った。
「んなもん、俺の台詞だ…っ」
それでも我慢しようとするのは青島のためだ。
誘っているのは青島なのに、その青島のために、室井は我慢してくれていた。
青島は室井を静かに見下ろし、ただじっと見つめて、触れるだけのキスをした。
それから、照れくさそうに笑った。
「愛してますよ」
本日何度目になるか分からないが、室井がまた目を剥いた。
余程驚かせたのか、絶句して青島を見上げている。
室井の動きが止まり苦情もでないことをいいことに、青島は再び唇を寄せた。
重ねると、唐突に室井が動いた。
青島の後頭部に手をかけ、力強く引き寄せられる。
口内に舌が入って来て、青島の舌に遠慮なく絡みついてきた。
「ん…ん…っ」
いきなり積極的になった室井に驚いたが、元々そのつもりで押し倒しているのだから、青島に抵抗はない。
求められるまま唇を開いて、室井を受け入れた。
室井の手が慌ただしく青島の服を剥ぎ始める。
青島が室井を押し倒している体勢では脱がし辛いだろうと思い、青島は一度身を起こした。
「自分で脱ぎますよ」
青島の言葉が聞こえているのかいないのか、室井も起き上がり、逆に青島を押し倒した。
「わ…っ」
圧し掛かってきた室井が、首筋に吸いついてくる。
「青島」
吸いつく合間に室井が名を呼んだ。
「青島」
いつになく熱っぽい声は、興奮のせいなのか、それ以外の何かなのか。
青島は、まあなんでもいいかと思いながら、室井の背中を抱いた。
室井が自分を求める声ほど色っぽくて、そして愛おしい声はない。
久しぶりに感じる室井の熱に興奮するのに何故か安心しながら、青島はひっそりと笑って目を閉じた。
「ひどいっすよ、室井さん」
ベッドでうつぶせに寝転んだまま、青島がぼやいた。
裸だったが、事の後のせいか、寒さは感じなかった。
「病み上がりだろ?なーんて言っておいて、やり出したら止まんないんだもん」
青島がぶつぶつ文句を言うと、隣に座っていた室井は眉間に皺を寄せた。
「君のせいだ」
「そりゃあ、誘ったの俺だけど」
青島を気遣って躊躇っていたはずの室井だったが、事が始まったら遠慮はなかった。
久しぶりという状況も手伝ってか、執拗に青島を貪った。
それはいい、青島もそれを望んで室井を押し倒していた。
だが、物には限度というものがある。
ベッドから起き上がる気力も残らないほどやらなくてもいいんじゃないかと思う。
ソファでいたした後、ベッドに移り行為は続いた。
それでも青島の腰を気にかけてはくれていてなるべく負担をかけないようにはしてくれたが、だからといって三度も抱かれれば健康な腰だって痛むかもしれない。
「そういう意味じゃない」
ぶっきらぼうに言われて、青島は視線を持ち上げて室井を見た。
見上げた室井は仏頂面だった。
「あんなこと言ってくれたの、初めてだろ」
なんのことかは聞かなくても分かった。
青島は軽く笑って、「そうでしたっけ?」と嘯いた。
室井に告げたことがなかったことは、自分でも気付いていた。
意図的に言わないようにしていたわけではないが、それでもなんとなくどこかに躊躇いがあった。
自分の言葉で室井を縛り付けてはいけない気がしていたのかもしれない。
時々自分を好きだと漏らす室井を、笑って受け入れることでしか応えてこなかった。
「…嬉しかった」
室井の手が伸びてきて、青島の頭を撫ぜた。
見下ろしてくる室井の目は優しくて温かい。
青島には自分の告白でそんな目を見せてくれる室井が嬉しかった。
青島は室井の手を取り、ゆっくり寝がえりを打った。
「あたたたた…」
腰が痛くて顔を顰めると、さすがに室井も申し訳なさそうな顔をした。
「すまない」
青島が握っていない手を腰の傷に伸ばし、そこに触れ、そっと撫ぜてくれる。
それで痛みが引くわけはないのだが、なんとなく和らぐ気がするから不思議である。
病は気から、ということかもしれない。
「もう大丈夫っすよ」
そう言ったが、室井は手を止めなかった。
「気になりますか?」
最中にも、室井はそこに触れたがった。
手で触れたりキスされてたりして何故か快感を覚えたが、室井が気にしていることが気になった。
「気になるに決まってる」
険しい顔になってしまった室井に、青島は悪戯っぽく笑った。
「キズものになっちゃいましたね」
「ばか、誰がそんなこと気にしてる」
室井がむっつりと見下ろしてくる。
「…それ見てると、血まみれで倒れてる君を思い出す」
そう言う室井が苦しそうで、青島は穏やかに言った。
「生きてますよ、俺」
「分かってる…じゃなきゃ、こんなことできない」
室井が顔を寄せてくるから、青島は室井の首に手をかけて引き寄せた。
唇を重ねて、握った手の指を絡める。
散々身体全部を使って生きていることを証明したばかりだ。
今更不安になるわけではないだろうが、室井が望むなら何度でも証明するのはやぶさかではない。
満足するまで唇を合わせて、室井が顔を上げた。
青島は唇の代わりに室井の手の甲を持ち上げて口元に押し当てた。
「会いに来て良かった」
「来てくれて、俺も良かった」
室井の温かい眼差しに微笑みを返す。
「もう会いにきません」
「…ああ」
「俺、待ってますから」
握っていた室井の手に力がこもる。
「早く帰ってきてくださいね」
「約束する」
短いけれど、誠実な言葉。
それがあれば、室井を信じて頑張れる。
青島は笑顔で室井を抱きしめた。
愛してるも、大好きも、どんな愛の言葉も。
いつか室井に伝えられなくなる時がくる。
どんなに伝えたくても、口に出せなくなる日がきっとくる。
それが恋人としての別れでも、不慮の死別でも、できるだけ悔いは残したくない。
その時が来る前に、伝えたい気持ちは伝えられる時に伝えておくべきだ。
やりたいことは、やっておくべきだ。
一度死ぬような目にあい、青島はそう思うようになった。
だから、室井に会いに来た。
会いたかったから会いに来た。
一度だけでも心の底からの想いを伝えておきたかったから、伝えに来た。
今の室井になら、青島の素直な言葉を告げられると思ったのだ。
青島を心から想っていてくれている室井になら。
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