床に寝転がりなんとなく点けたバラエティ番組を見ていた青島は、時計を確認して起き上がった。
テレビを消し、ジーンズのポケットに財布と携帯電話だけ押し込むと、部屋を出た。
「あっちぃ…」
日も暮れて随分時間が経っているが、気温はあまり下がっていなかった。
蒸し暑い夜道を駅に向かって歩いた。
新木場の駅まで室井を迎えに行くところだった。
交際が始まって二か月が過ぎたが、室井が青島の自宅に来るのは初めてのことだった。
室井の仕事が終わり次第と約束していたが、夕方に20時頃に行くとメールが来ていた。
それに合わせて、青島は自宅を出ていた。
新木場駅に着き改札口まで迎えに出ると、既に室井が待っていた。
青島は手を振りながら大股で近付いた。
「すいません、待たせちゃいました?」
「いや、大丈夫だ。迎えに来てくれてありがとう」
律儀に礼を言う室井に微笑んで、連れ立って歩く。
それも最初は慣れなかった。
室井と並んで歩くことなど、付き合う前はほとんど無かった。
青島の方が歩幅は広いが、室井の方が歩く速度が早いのか、似たようなペースで並んで歩ける。
隣の存在が嬉しかった。
「今日も暑かったですね」
「そうだな…君、また日焼けしてないか?」
横目で室井が見上げてくるから、青島は肩を竦めた。
「毎日外にいますからねー」
日の高い時間に自転車で巡回する毎日だ。
女性でもないから、それほど日焼けは気にしていないし、日焼け止めを塗るようなこともない。
確かに前回室井に会った時よりも日に焼けていたかもしれない。
「大変だな」
毎日外にいる青島を思ってか、室井が呟いた。
「これから益々暑くなる。熱中症には気をつけろよ」
室井の気遣いに、青島は小さな笑みを見せ頷いた。
玄関のドアを開けると、室井に入るよう促す。
室井の表情がいつにもまして硬く見えるから、もしかしたら緊張しているのかもしれないと思った。
青島だって、少し緊張していた。
室井が自宅に来るなんて、少し前までは考えられなかった。
「お邪魔します」
きちんと断り靴を脱ぐ室井を、青島はリビングに通した。
「汚いとこっすけど、適当にしてください」
そうは言ったが、部屋は少し片付けてあった。
初めて連れてくるのに、散らかりっぱなしなのは気が引けた。
テーブルの上には簡単な料理しかないが、食事も用意してあった。
「飯、食うでしょ?」
「君が作ったのか?」
「大したもんはないですけどね」
期待しないでくださいよと釘を刺したが、室井はどこか嬉しそうだった。
「十分だ、ありがとう」
はにかんだ笑みで応えると、青島は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、室井とテーブルを挟んで向かい合うようにして座った。
室井に缶ビールを手渡し、乾杯した。
ビールを飲み箸を手にする室井に、また少し緊張する。
人に料理を振る舞った経験はほとんどなかった。
自炊を全くしないわけではないが、忙しさにかまけて滅多にしない。
それほど得意でも好きでもない料理は、自分でもまあ食えるだろうと思える程度のものだった。
「…美味い」
豚の生姜焼きを口に入れた室井がそう言うから青島はホッとした。
目じりを下げた青島に、室井がちらりと視線を寄越す。
視線が絡むと、室井の頬が強張り、すぐに視線が逸らされた。
「室井さん?どうかしました?」
「いや、なんでもない」
「そうっすか?」
首を捻りながら、スーパーで買ってきた沢庵をつまむ。
「あ、繋がってる」
ちゃんと皮まで切れていなかったらしく、持ち上げた沢庵は数珠繋ぎになっていた。
それを見た室井が小さく笑うから、青島もつられて笑った。
「室井さん、今度料理教えてくださいよ」
室井が極力自炊をすると言っていたのを思い出した。
忙しくてままならない時も多いようだが、時間があれば台所に立つらしい。
意外にも料理はわりと好きなようだった。
室井は箸を動かしながら青島を見た。
「それは構わないが…」
「…?なんですか?」
「次は、俺がご馳走しよう」
室井が料理をして青島に食べさせてくれるということだろう。
「ええ、約束ですよ」
嬉しさを隠しもしないで笑った青島を、室井は目を細めて眺め、ゆっくり視線を逸らした。
上機嫌でビールをあおった青島は、その室井の態度を不自然だとは思わなかった。
食事をしながら、青島はよく喋った。
元々室井の口数は多くはないから必然的にそうなる。
それはいつものことだったが、いつにもまして室井は無口だった。
話しかければ返事はあるし、青島の話もちゃんと聞いてくれてはいるが、どこか落ち着かない様子だ。
青島の部屋にいるせいかもしれない。
この二か月の間、時間が許せば度々食事には出かけていたから、デートを全くしていなかったわけではない。
だが、互いの部屋に行き来することはなかった。
部屋に誘ったのは青島だった。
プライベートを共にするようになり、少なからず縮まった距離は嬉しかったが、それだけだった。
恋人らしい触れ合いは、今のところ一切ない。
青島は室井に触れてみたいと思った。
室井を好きだから触れてみたかった。
この恋は期間限定の恋だと思っていたが、その時がくるまでは青島は室井の恋人である。
惚れた相手と付き合っているのだから、当然の欲求だと言えた。
不意に会話が途切れる。
青島が黙ると、沈黙が下りた。
いつもなら口下手なりに話しかけてくれる室井も、黙ったままだった。
もしかしたら室井も似たようなことを考えているのではないかと思った。
硬い表情は読みづらく、はっきりとは分からなかったが、嫌がられはしないだろうなという思いもあった。
室井が青島を好きだと言ったからだ。
それで気持ちが大きくなったわけではないが、何事も考えてから行動に移すのが得意ではない青島は、気持ちのままに動くことにした。
手にしていたビールをテーブルに置き立ち上がる。
室井の隣に座り直すと、室井の顔が益々強張った。
照れと緊張。
そう受け取って、思い切って室井の手に触れた。
びくりと震えた手を握りしめた。
「室井さん…」
そのまま顔を寄せる。
触れる直前に、室井の手が青島の肩を掴み、後ろに押し戻した。
驚いて目を見開き室井を見ると、室井はしまったという顔をしていた。
―拒まれた。
それを理解すると、呆然としていた青島は自分の勘違いを悟り自嘲した。
室井は確かに青島と二人きりで緊張していたのかもしれないが、それは青島と同じ理由ではなかったのだ。
思っていたよりも早かったなと思う。
室井の目が覚めるのが、である。
付き合ってみたら想像と違っていたなどということは、良くあることだった。
ましてや、青島も室井も男だ。
青島を拒否したということは、青島に対する想いが最初から恋愛ではなかったということもあり得た。
純粋な好意や憧れを特別なものと勘違いした、ただそれだけだったのかもしれない。
何を今更と、腹を立てたりはしていなかった。
室井との交際が当たり前のことではないことを、青島は理解している。
上手くいかなくても仕方のないことだと、自分を納得させられた。
「青島…」
気まずそうに言いかけた室井を、穏やかな声で遮る。
「無理しなくていいっすよ」
無理にこの交際を続ける必要は全くなかった。
いつか終わると分かっていたこと。
その時が来るのが、想像よりも少し早かっただけだ。
それが悲しいとは、室井に伝えられそうもなかった。
「俺じゃ、だめだったんでしょ?大丈夫。今ならまだ間に合いますから」
殊更、明るく言った。
キス一つしていない今の状況はなかったことにするには丁度良く、多少の気まずさに目をつぶれば、すぐに元の関係に戻れる気がした。
胸に残る切ない痛みも、今だけだ。
短く淡い恋が終わっても、今までのように互いを信じあい、共に同じ夢を見られるなら、青島はそれだけで良かった。
「お互い、忘れましょう」
俯きがちにそう言って室井の手を離すと、逆にその手を掴まれた。
きつく掴まれ驚いて室井を見たら、室井は恐い顔をしていた。
何かに耐えるような、何かを抑えているような顔だった。
「室井さん…?」
「なかったことになんて、出来るわけないだろう」
絞り出されるような声。
「君は俺を受け入れてくれたんじゃなかったのか?」
咎めるような室井の口調に、青島も眉をひそめる。
青島だってそのつもりだったが、室井の方こそ受け入れられなかったのではないか。
手を握れば身体を強張らせ、唇を寄せれば逃げられた。
触れたかったのは青島だけだと思い知らされた。
「俺に触られるの、いやなんでしょ?」
だから無理するなと繰り返すと、室井は眉間に深い皺を寄せ、奥歯を噛み締めた。
また苦悩している室井を見て、青島は困惑した。
「君は何も分かっていないんだ」
「何もって…」
「俺が君に何をしたかったか、何も知らないんだ」
強く握った手に、室井がまるで祈るように額を押し付ける。
青島は困惑したまま、室井を見下ろした。
見下ろして、固まった。
「頭の中で、何度も君を抱いた」
室井が絞り出した言葉がじわじわと脳みそに届いて、青島は目を剥いた。
青島の手に縋るようにしながら、室井の告白は続いた。
「君とのことを何度も妄想した。裸にして、抱き締めて、何度も、欲望のまま…」
「わあっ、何言ってんの、室井さん」
目を開けたまま気絶していた青島だったが、あまりの告白に真っ赤になって悶絶した。
さすがに、聞いていられなかった。
室井がゆっくり顔を上げた。
青島は初めて室井に告白された時のことを思い出した。
室井がその時と同じ顔をしていたからだ。
切なくて苦しい、そう訴える眼差しで見つめてくる。
「触れば、きっと傷付ける」
君を傷付けたくないと告げる室井に、青島は赤い顔はそのままで呆然とした。
「なんで…なんで俺が傷付くって思うの。俺たち、付き合ってんでしょ?」
「俺が抱いても、君は傷付かないのか」
縋るような眼差しの中に、室井の熱が確かに見える。
室井は青島に欲情するのだ。
青島はこれ以上ないくらい赤面し、耳まで染めた。
心臓がやけに大きな音を立てて主張していたが、それどころではない青島は気付いていなかった。
「傷付きゃしませんよ」
「嫌いにならないか?」
この人一体俺になにさせる気だろうと思ったが、どうせ室井のすることだ。
本当に青島が傷付くことになるとは思えなかった。
まさかそこまで望まれているとは思っていなかったが、嫌ではなかった。
青島が触れたかったように、室井も触れたがっている。
それが嬉しかった。
青島は室井の頬に指をかけ、はにかんだ。
「嫌いになんか、なりませんって」
顔を寄せるが、室井も今度は逃げない。
軽く唇を重ねて離れると、追いかけるように室井が顔を寄せてきた。
再び唇を重ねる。
啄むように触れ合わせるキスが、不意に深くなる。
青島の首を支える室井の手に力がこもり、青島の口内に室井の舌が入ってきた。
青島も躊躇わずに唇を開き室井を受け入れ、舌を絡めた。
そのせいか、室井の舌が遠慮なく蠢き、口内を愛撫し深く求められる。
夢中で自分を求めてくる室井の唇に、青島はまた室井の想いの強さを知らされた気がした。
ぼんやりする頭の片隅でそれを悟り、嬉しくなってその背を抱いた。
その途端に唇が解放され、室井が首筋に顔を埋めてくる。
耳元に吐息がかかり、濡れた唇が首筋に押し付けられた。
肌をなぞられ、吸い付かれて、青島の身体が熱くなる。
「っ…室井さん…」
青島が息を詰めると、室井は少し顔をあげた。
切羽詰まった顔をして青島を見つめてくる。
「青島…」
何を求められているかは、もう聞かなくても分かる。
さっき聞いたばかりだ。
正直に言えば、恐怖心がないこともない。
これまでの人生で男を受け入れたことなど無かったし、受け入れたいと思ったこともない。
だが室井が望むなら、それもいいかなと思う。
どうせ差し出せるのはこの身一つだ。
差し出す相手は室井で、さっき室井に答えたように、傷付くようなことにはきっとならない。
室井の背中を抱く腕に力を込める。
「そんないいもんじゃ、ないかもしれませんよ?」
室井がどんなに想ってくれても、青島の身体は男の身体で、受け入れるようにはできておらず、抱き心地が良いとはとても思えなかった。
室井はもう青島から視線を逸らすことなく、じっと見つめていた。
よく知っているはずの顔なのに、その眼差しに常にない熱を感じるせいか、別人のようにも見えた。
青島の頬を撫ぜるその手も熱い。
「君が欲しい」
馬鹿正直に求められ、やっぱ室井さんだと、当たり前なことを思う。
青島は照れたように微笑み、室井の肩口に額を押し付けた。
「ベッド、行きましょうか」
室井が断るわけもなかった。
事の後、心配げに見下ろしてくる室井に、青島は釘を刺した。
「もう、あんまり我慢しないように」
最中の室井は決して乱暴ではなかったが、熱に浮かされたように激しく強く何度も青島を求めた。
それだけに、室井の言葉が事実だったと身をもって知った。
室井は間違いなく青島を欲しがっていた。
今はまだ照れもあるしつい先程の自分を思い返せば悶絶しそうだが、後悔はないし傷付いてもいない。
変わらず、室井が大好きだった。
ただ、欲望は小出しにしてもらわないと青島の身がもたない。
青島がそう思うほど、初めて青島を抱いた室井は、激しくてしつこかった。
ぐったりしている青島に罪悪感でも沸くのか、室井は気まずそうに眉を寄せた。
「すまない…」
青島を気遣うような優しい眼差しには、さっきまであった欲望も熱も見えない。
すっきりしたんだなと思って、青島は思わず笑った。
「満足しました?」
「ああ」
「気持ち良かった?」
「…凄く」
眉間に皺を寄せながら素直に頷く室井がおかしくて、青島は笑みを深めた。
手を伸ばし、室井の顔を引き寄せる。
「俺も良かったっすよ」
「青島…」
室井の唇が青島の額や頬に触れた。
唇にも軽く触れ、青島の首筋に顔を埋め、しっかりと抱きしめてくる。
その背を抱きしめながら、青島は笑った。
「死ぬかと思ったけどね」
首筋に顔を埋めたまま、室井は呻くように「すまなかった」と言った。
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