■ 幸せな翌日


玄関の鍵を開けて部屋に入ると、青島はホッと一息吐いた。
一日ぶりの帰宅に安堵めいたものを感じたのは、日常に戻ったという気分があったからだ。
やはり緊張感や高揚感があって、少し気が高ぶっていたということだろう。
だからといって、それが不快だったわけではない。
不快のはずがなかった。
青島はにやけそうになる頬を軽く叩いて、浮かれるなと戒める。
誰も見ていないとはいえ、いい歳をして恥ずかしい。
気を取り直して、手にしていた部屋の鍵をテーブルに置き、スーツの上着を脱いでネクタイを外した。
スウェットに着替えようとしていた青島は、上着のポケットから携帯電話を取り出して動きを止めた。
声が聞きたい。
そう思ったが、相手はさっき別れて来たばかりの人だ。
昨夜からずっと一緒にいて、お休みと言って別れたのはついさっきだ。
さすがに用事もないのに電話するのは憚られる。
別にしたって嫌がられないだろうとは思うが、浮かれている自分を知られるのは少し気恥ずかしかった。
青島はやっぱり止めようと携帯電話もテーブルに置いて、着替えの続きを始めた。
動くと、身体に多少違和感がある。
痛みというほどではないそれは、身体に確かに残る愛された記憶だ。
青島はつい我慢できずにニヤニヤと笑ってしまった。
きっとだらしのない顔をしているから、今は鏡も見られないなと自分に呆れつつも、青島は緩む頬を我慢できなかった。
誰かに見られるわけではないのだからもういいかと、諦めて開き直る。
再び、携帯電話に視線を投げた。
やっぱり電話をしてしまおうか。
夕飯ご馳走様でしたと伝えれば、不自然ではないだろう。
ありがとうございましたは変かな、変かもしれない。
むしろ、声が聞きたかったと、素直に言ってしまえばいい。
室井はきっと嫌がらない。
青島が携帯電話に手を伸ばすと、待ってましたと言わんばかりのタイミングでディスプレイが光り出した。
着信音に驚いて手に取れば、相手はまさにその人で、青島は相好を崩した。
「はい、青島です」
『お疲れ様』
癖だからか、室井が恋人にするとも思えない挨拶を寄越すから、青島は声を漏らして笑ってしまった。
「お疲れ様です」
『もう帰ったか?』
「ええ、今着いたとこです」
『そっか』
「はい。今着きましたって、電話しようと思ってたとこです」
『…そっか』
どこか嬉しそうな声。
電話で拾う数の少ない彼の言葉だけでも、感情が大分読めるようになった。
そんなことが妙に嬉しかった。
「あの、結局夕飯までご馳走になってすいません」
本当はもっと早くに帰るつもりだったのだが、離れがたくてついつい長居をしてほとんど丸一日室井の部屋で過ごしていた。
『気にするな、引き留めたのは俺だぞ』
夕飯も食べていけと言ってくれたのは確かに室井だった。
離れがたかったのは、室井も一緒だったということだろう。
今日も泊まって行ってもいいんだぞとまで言ってくれていたから、間違いない。
青島も出来ることならそうしたかったが、明日は仕事だから帰宅せざるを得なかった。
その代わり、次のデートの約束をした。
仕事柄予定通りに行くとは限らないが、とりあえず楽しみができたから、明日からも仕事を頑張れそうだ。
『身体は、大丈夫か』
室井が躊躇いがちに聞いてくるから、青島は照れ笑いを浮かべた。
「室井さん、それ聞くの、夕べから何回目?」
『そんなに聞いたか?』
「ええ、もう10回くらい聞かれた気がしますよ」
『…仕方ないだろう、気になるんだから』
気になるのは、青島を心配してくれているからだ。
そう思えば嬉しいが、そんなに気にしないでもらいたかった。
「大丈夫ですよ、ちょっと違和感はありますけど痛くはないですから」
『ならいいんだが』
「室井さん優しかったしね」
口ごもった室井が電話の向こうで、「そうか」ともごもごと呟いているのが可笑しかった。
室井も照れくさいようだった。
二人ともいい歳なのに、勝手が分からない初恋のようで気恥かしいが、くすぐったくも幸せで、青島はやっぱり顔が緩むのが止められない。
青島がこれほど幸せなのだから、いつまでも室井に気を遣ってもらいたくはなかった。
『それならいいんだが、無理をさせただろうから』
確かに慣れない行為、未知の経験ではあったけれど、青島には一つも後悔がなかった。
何と伝えれば正しく青島の気持ちは伝わるだろうか、室井は安心してくれるだろうかと、考える。
共同作業なわけだからありがとうございましたというのは何か違うだろうし、いきなり気持ち良かったですというのも慎みがない気がする。
男同士なのだから気にすることでもないかとも思うが、なるべくなら折角両想いになった室井に引かれるような発言は避けたい。
いや、室井がそんなことで心変わりをするとは思っていないが、やっぱり少し気恥ずかしい。
もっとこう、室井とこうなれて嬉しいということが伝わるような言葉が良かった。
嬉しかったし、幸せだったし、後悔などしていない。
昨夜の室井に何の不満もないことを伝える言葉を探した青島は、若干微妙な答えを見つけ出した。
「またやりましょうね!」
言ってしまってから、何か違うなと思った。
青島の本音と大幅に違うということは無い。
二度目、三度目が無かったとしたら、むしろショックだし悲しい。
しかし、なんだこの情緒の欠片もない誘い文句は。
室井も絶句しているのか、電話の向こうが静かだ。
「い、いや、違った、間違えました、いや、違わないけど」
途端にしどろもどろになった青島に、小さく笑う室井の声が届く。
『違うのか?』
「いや、だから、違いませんけど、あの、言い方を間違えたというか」
『どっちだ、青島』
室井が笑っている。
青島の失言が、室井の緊張を解したのかもしれない。
言ってしまった青島はさすがに羞恥を覚えたが、室井が楽しそうだったのでもう何でもいいかと思い直した。
「間違いじゃないですよ、本当です」
少しの間の後、返ってきたのは穏やかな声だった。
『また、しような』
変な具合になってしまったが、青島の気持ちは通じたようだ。
青島はまた元気に返事をして、室井に笑われてしまったが、それでも嬉しかった。









END

2015.7.12


書きたいところだけを書いたら見事に浮かれた三十路に
なってしまいました(笑)
初めての後に浮かれていたら可愛いなあと。
おっさんでも浮かれていいと思う!の!


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