■ (青島視点) 2.約束


書類にハンコを押して差し出すと、男は不機嫌そうに受け取った。
だが、青島はその男が特別不機嫌なわけではないことを知っている。
いつも大抵この顔である。
むしろ、機嫌の良い彼を見たことがなかった。
新城賢太郎、青島が世話になっている不動産屋の社員だった。
青島は湾岸荘以外に、彼名義の不動産をもう一つ持っていた。
もちろん祖父から受け継いだもので、青島自身で購入したものではない。
そちらは湾岸荘のように古いアパートではなく、10年ほど前に建てられた立派なマンションで、管理は新城の会社に委託していた。
実際のところ、青島の収入源はそちらのマンションの家賃収入がほとんどである。
格安で貸している湾岸荘の家賃収入では湾岸荘を維持するだけで精一杯だった。
それでも湾岸荘の家賃の値上げを考えないのは、建物が年代物であることも理由ではあったが、何より青島自身に湾岸荘で金を儲ける気がなかったからだ。
他に収入があるおかげで、青島は古びたアパートでも愛着のある湾岸荘を手放すことなく、大事に維持していくことができた。
「いい加減に売ったらどうだ」
美味しくもなさそうにコーヒーを啜った新城が言うから、青島はまたその話しかと思った。
「新城さんもしつこいですね」
「いつまでもこんなボロアパートにこだわらなくてもいいだろう」
青島の言葉を無視して新城がかなり失礼なことを言う。
知り合った当初はなんて偉そうな男なんだと腹を立てたものだが、その暴言にも大分慣れた。
そこに必ずしも悪意があるわけではなく、こういう物言いしか出来ない男なのだ。
青島も慣れたもので一々怒ったりはしないが、全く腹が立たないこともないので、片眉をつりあげて見せた。
「ボロで悪かったですね」
「事実だろ」
「はいはい、そうでしょうとも」
じゃあチビって言っても怒らないんですねと言ってやりたかったが、賢明にも黙っておくことにした。
後が恐ろしいからだ。
新城は青島よりもかなり背が低かった。
「ここにもっとマシなマンションを建てて住めばいいだろう」
新城が真顔で言う。
彼は以前から青島にこの土地を売るなり、湾岸荘を立て直すなりしろと勧めていた。
これは新城の嫌がらせでもなんでもなく、ただ単純に湾岸荘を維持し続けるよりも青島にとって利になることだからだ。
ここの地価は決して安くはないから売れば結構な額になるだろうし、駅に近いこの土地にマンションを建てればそれなりに入居の目処が立つ。
土地を売るにしても、マンションを建てるにしても、青島にとっては今よりもいいこと尽くめだ。
それでも湾岸荘にこだわる青島の感傷が、新城には理解できないのだ。
青島は肩を竦めた。
「俺はここが気に入ってるんだから、いいんですよ」
「ふん…趣味の悪い男だ」
鼻で笑われて顔を顰める。
これは悪気ある嫌味だろうから、怒ってもいいかもしれない。
ムッツリとした青島が何かを言う前に、新城は腰を上げた。
新城は時々湾岸荘にやってくるが、いつも長居はしない。
ほんの少しでも長居するのが嫌な程湾岸荘が嫌いなわけではなく、単に忙しいのだろう。
青島も見送るために、新城に続いて部屋を出た。
正直、好きな男ではなかったが、世話になっているのも事実である。
マンションの管理は不動産屋に任せきりで、青島はほとんどノータッチだった。
担当の新城が上手に契約者とやりとりしてくれているのか、家賃を滞納するような入居者も滅多にいないと聞く。
新城が怖くてできないのではないか、と青島は密かに思っていた。
「どうも御苦労さまでした」
玄関の外まで見送りにでてそう声をかけると、新城は青島を見てから湾岸荘を見上げた。
「何度見てもボロアパートだな」
「そりゃあ、見るたび変わるわけないでしょ」
「今時風呂がないアパートなんて有り得ない」
「有り得ないこともないんじゃないですか?目の前にあるんだから」
一々口答えしてやったら、新城は顔を顰めた。
言いたい放題の相手に黙っていてやる謂れもない。
青島は顔で笑いながら、内心では舌を出していた。
青島との愚にもつかない会話を切り上げて帰ろうとした新城だったが、数歩も行かずに足を止めた。
見ると、室井が帰って来たところだった。
室井も青島と新城に気付いて、足を止めた。
「あ、おかえりなさい、室井さん」
ただいまと応じてくれた室井を見て、新城は青島を振りかえった。
「こちらが新しい入居者か」
「その、室井さんです」
室井には直接関係のない男だが、一応新城の事も紹介しておくことにした。
湾岸荘の入居募集も新城の会社に委託していたが、そちらは新城が担当しているわけではないから室井と会うのは初めてのはずだった。
これからはたまには顔を合わせることもあるかもしれない。
「こちら新城さん、世話になってる不動産屋さんです」
黙礼した室井に新城も返礼したものの、冷やかな眼差しは室井を睨んでいるように見えた。
初対面の室井を嫌ってのことではなく、大体いつもこんな感じの目つきの悪さだ。
青島は慣れているから平気だったが、室井は少し戸惑っているようだった。
とはいえ、室井は大人なので、いきなり噛みついたりはしない。
怪訝そうに新城を見ていた。
「…何か?」
「こんなアパートに住むなんて、趣味の悪い人だ」
鼻で笑う新城に室井は呆気にとられていた。
その「こんなアパート」に住んでくれる店子さんに向かって何を言うんだと青島は憮然とした。
「ちょっと、新城さん…」
「もっと良い部屋を紹介しましょうか?」
つくづく意地の悪い男だと思うが、青島はむっつりと押し黙った。
室井がそれを望むならそれは室井の自由であり、青島が口を出す問題ではない。
室井は黙り込んだ青島をちらりと見たが、新城に向き直って首を横に振った。
「いや、必要ない」
湾岸荘を見上げて呟く。
「ここは、いいところだぞ」
この場合は、大家の青島に気を使ってくれたのだと受け取ることもできるが、青島はそうはとらなかった。
知り合って間もない室井のことを良く知っているわけではないが、青島の知る範囲では彼は口下手で生真面目な性格だ。
お世辞も嘘も、室井らしくないと感じる。
室井の言葉は、何故だか素直に信じることが出来た。
室井がいいところだと言うからには、本当にそう思ってくれているのだろう。
青島は喜色を浮かべて笑った。
「室井さんはちゃんと湾岸荘の魅力を分かってくれてるんですよ」
新城に向かって今度は本当に舌を出してやると、新城は顔を顰めたがすぐに嫌味な笑みを見せた。
「お前と同じ、悪趣味な人で良かったな」
青島の反論も聞かず、新城はそのまま帰って行ってしまった。
言いたい放題言って帰るのはいつものことだった。
良くあれで営業職が務まるものだと半ば感心してしまうが、余所では要領よくやっているのかもしれない。
青島は見えなくなった新城の後姿に溜息を吐くと、室井に謝った。
「すいません」
「君に謝ってもらう必要はないが、随分な言い草だったな」
「いつもあんな感じの人でね…ま、気にしないでください」
苦笑した青島に、室井は頷いてくれた。
それでこの会話を打ち切ると、青島は話題を変えた。
「今日は早いですね、仕事は落ち着いたんですか?」
「ああ、しばらくはゆっくりできそうだ」
劇的な変化は見えないが、そう言う室井の表情はいくらか穏やかに見えて、多忙な毎日から解放された安堵感が窺えた。
明日は土曜日だし、久しぶりにゆっくりできるのかもしれない。
青島はいいタイミングかもしれないと思った。
先日の約束を果たすいい機会だ。
「室井さん、今夜暇だったらこれから飯食いに行きません?」
一瞬だけ答えに間が空いたが、室井は頷いた。
「ああ、大丈夫だ」
「良かった。近くにね、好きな居酒屋があるんですよ」
近所に、時々一人で飲みに行く居酒屋があった。
安い割に味が良く、酒の種類も豊富だった。
室井と約束した時から、そこに連れて行きたいと思っていたのだ。
「着替えてくるから、少し待ってくれるか」
「はい、じゃあ、10分後に玄関で」
頷いた室井が階段を上って行くのを見送り、青島も財布を取りに部屋に戻った。




室井を連れて行ったのは、だるまという名前の小さな居酒屋だった。
3つしかないテーブル席は埋まっていたので、カウンターに並んで座る。
「何でも好きな物を注文してくださいね」
適当に好きな料理を注文した青島がメニューを差し出しすすめると、室井は少し困った顔をした。
「割り勘でいい、奢ってもらうようなことは何もしていない」
つくづく生真面目な人だなあと、青島は感心した。
これがすみれならラッキーとしか思わないだろうが、室井は理由もなく奢られることに抵抗があるらしい。
青島にとっては自棄酒に付き合ってもらったお詫びとお礼のつもりだったが、室井にとってそれは奢られる理由にはならないようだ。
だけど、それでは青島の気が済まない。
「あの日、室井さんにつきあってもらえて、俺は嬉しかったんですよ。だから俺の好きにさせてください」
室井は眉間に皺を寄せて躊躇っていたが、結局小さく頷いてくれた。
「ありがとう」
「それはこっちの台詞ですって」
青島が笑みを向けると、室井の表情も少し柔らかくなった。
「とりあえず、乾杯しましょう」
ビールのグラスを持ち上げた青島に倣うようにして、室井も続いた。
「飲み過ぎないようにしないとな」
室井が小さく笑ったから、青島も笑みを返した。
「ですね」
室井に自棄酒に付き合ってもらった時は、最後の方の記憶がほとんどなく、翌日は酷い二日酔いだった。
今日はそんなことにならないように、室井と楽しい酒が飲みたかった。


「アパートには慣れました?」
「ああ」
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
「困ったこと…?」
「ほら、やっぱり古い建物でしょ?ドアの建てつけが悪くなったり、雨漏りしたりすることもなくはないんですよ」
「なるほど、今のところは大丈夫だ」
「それなら良かった…あ、室井さん、コレも美味いですよ」
室井の前に皿を回すと、室井は礼を言って箸をつけた。
魚の身を解していく室井の手をなんとなく見やる。
箸の使い方も魚の食べ方も、性格と同じように几帳面で丁寧だった。
「ああ、美味いな」
「でしょ?」
自分で作ったわけでもないのに、青島は自慢げに頷いた。
自身の気に入っている店だから、室井にも気に入ってもらえたらいいなという思いがあった。
料理が口に合ったのなら、嬉しかった。
室井は大袈裟なリアクションはしないが、味の感想はちゃんと口にしてくれたし、箸の動きも良かった。
「味付けがね、絶妙なんすよねー」
得意げに語る青島を見て、室井はまた小さな笑みを見せた。
微笑ましいなどと思われていることにも気付かず、青島は室井にあれもこれもと勧めた。
室井は勧められるがまま箸を動かしながら言った。
「この店には良く来るのか?」
「時々来ますよ」
青島の酒の飲み方は陽性で、誰かと騒ぎながら飲むのも好きだし、湾岸荘での宴会も好きだが、時々は一人で飲みたい時もあった。
そんな時はお気に入りのだるまに足を運んでいた。
「いい店だな」
言葉少なに褒めてくれる室井に、青島は益々嬉しい気分になった。
「気にいってくれたんなら、良かった」
「ありがとう」
「いや、俺こそ…」
青島ははにかむように笑った。
自棄酒に付き合ってもらったこともそうだが、もうひとつ室井に礼を言いたいことがあった。
「室井さん」
「ん?」
「いいところだって言ってくれて、ありがとうございました」
室井は一瞬きょとんとしたが、何の話かを理解したのか、少し顔を強張らせた。
新城に向かって、室井は湾岸荘はいいところだとはっきり言ってくれた。
青島にはそれが凄く嬉しかったのだ。
「礼など…思ったことを言っただけだ」
むっつりと呟き日本酒に口をつける室井の横顔に照れを感じて、青島はひっそりと笑った。
照れた時にも表情が硬くなる室井が可笑しかった。
しかも照れ隠しのように吐き出された言葉は、青島を更に喜ばせるだけの言葉でしかなかった。
だがそこを突けば、室井は益々表情を硬くするだろうから、青島はそれ以上そのことに触れることはしなかった。
室井のグラスに酒を満たして、促す。
「さ、いっぱい飲んでくださいね」
「…つぶれない程度にな」
「つぶれたらおぶって帰ってあげますよ」
冗談ではあったが朗らかに言ったら、室井が酒を吹いたから、青島は声を立てて笑った。
青島にとって、妙に楽しい夜だった。


この夜から、青島が室井を誘い、時々二人で酒を飲むことになる。










END

2011.11.10




template : A Moveable Feast