■ (青島視点) 1.日常
「よし」
きれいになった食堂の網戸を閉めて、青島は満足げに頷いた。
破れていた網を貼り替えたところだった。
湾岸荘のメンテナンスは、もちろん業者に頼むこともあったが、簡単なことなら青島が自分でこなした。
大雑把な性格に反して、細かい作業は嫌いではなかった。
何より、湾岸荘への愛着がなせる技かもしれない。
見た目には古ぼけているし時代遅れな建物だとオーナー自ら自覚しているが、それでも子供の頃から住み慣れたアパートを出たいとも、手放したいとも思っていなかった。
青島にとって湾岸荘は大事な城だった。
青島が工具を片付けていると、玄関の戸が開く音がした。
ただいまというすみれの声が聞こえて、思わず笑う。
ここの住人はどういうわけか、時々共有の玄関で挨拶をする。
青島に向かって言っているのかどうか分からなかったが、そこに居合わせれば返事をすることにしていた。
「おかえり」
ちょっと大きな声で叫ぶと、すみれが食堂に顔を出した。
「暑い!」
開口一番の苦情は、一応エアコンの効いている食堂への文句ではなく、外が暑かったという意味だろう。
「今年は猛暑だって言うね」
「それって毎年言ってない?」
不服そうに唇を尖らせたすみれに、青島は苦笑した。
確かに毎年似たような言葉を聞くが、本当なのかどうかは分からなかった。
もしかしたら本当に地球温暖化の影響で年々暑くなっていっているのかもしれないし、ただ単に昨年のことなど良く覚えていないだけなのかもしれない。
「まだ誰も帰ってきてないの?」
「うん、まだみたいだよ」
魚住は夏季休暇を取れたらしく遠くに住む家族の元へ帰ったばかりだったし、草壁は例によって長期出張中で不在だった。
和久は盆栽仲間の家に行くと言って張り切って出て行ったきりまだ帰って来ない。
残りの連中も仕事から帰って来ていないようだった。
青島も別にいちいち人の出入りを気にしているわけではないのだが、玄関の隣に住んでいるとなんとなく分かってしまう。
それに、青島は食堂や前庭にいることも少なくない。
例えば、朝は皆の出勤時間に合わせて、花の水やりや庭掃除をすることが多かった。
そうすれば、大抵の人とは毎朝顔を合わせることができた。
顔を見たからといってどうということもないし、管理人の義務でもなんでもないが、なんとなくそうすることを青島は好んでいた。
「麦茶あるけど、飲む?」
昼間に作って冷蔵庫に入れておいたことを思い出し尋ねると、すみれは嬉しそうに頷いた。
二人分をグラスに注いで、すみれと向かい合わせになってソファに座る。
美味しそうに麦茶を飲むすみれを見つつ、青島は夕刊を広げた。
新聞を斜め読みする青島に、すみれが声をかけてくる。
「青島君さー」
「うーん?」
「最近見かけないけど、彼女は元気なの?」
警視庁の副総監誘拐事件が無事に解決したという記事に感心していた青島は、ちらりとすみれを見て苦笑いを浮かべた。
「さあ…元気だといいなとは思うよ」
「何よ、他人事みたいに」
「うん、それがさ、他人事になっちゃって」
その意味を悟ったのか、すみれは目を丸くした。
「あら…」
「フラレちゃいました」
重い空気になるのは嫌だったからおどけたように言うと、すみれも軽く流してくれた。
「それはご愁傷様〜」
「全くだよ。誰かイイコいない?」
「青島君がいい男紹介してくれるなら、考えてあげる」
にっこり微笑まれて、青島は肩を竦めた。
本気か冗談か分からないが、すみれは玉の輿が目標らしい。
どういうコネがあるのか知らないが、医者や官僚、弁護士や一流企業の社員等、いわゆるエリートと言われるような相手と度々見合いをしているから、まんざら冗談でもないのかもしれない。
ただ、今のところそういう見合いが成功した試しがなかったから、本気とも言い切れなかった。
前に付き合っていた恋人は、頼りなさそうな年下の大学生だった。
「室井さんとか、恋人いないのかしらね」
すみれの言葉に、青島は首を捻った。
「さあ…なんで?」
「ただの好奇心」
「あ、そう…」
青島は苦笑いした。
すみれが室井に惚れたのだろうかと思ったが、惚れたのだとしたら青島にはきっとそういうことは聞かない。
恋人でもできればそうと教えてくれるが、すみれは自分の恋愛の話をあまりしなかった。
「そういう話はしない人だから分からないけど、いてもおかしくはないんじゃない?」
室井の恋人のことだった。
あの若さで准教授というから仕事はできるのだろうし、若干強面だが男前だ。
ちょっと硬い性格ではあるが、真面目で誠実な人柄は好感が持てるし、話してみれば思いの外話しやすい。
本人は他人と接するのを苦手としているようだったが、逆にそれが得意な青島にとってはなんら気になるものではなかった。
室井はそれを苦手としていながら、それでも話しかければ真面目に相手をしてくれる。
青島にはそれが嬉しかった。
青島のようにそういう室井に好感を持つ女の子も、たくさんいるのではないかと思った。
「でも、いたら、部屋に連れて来るくらいするんじゃないかしら」
「このアパートだよ?ムードも何もないんじゃない?」
管理人の自分が言うのもなんだが、恋人とのデートに向くような部屋ではないと思った。
青島はこの古びたアパートを気に入っているが、青島が付き合った過去の恋人もあまり部屋には来たがらなかったから、外で会うことの方が多かった。
「あの人、ムードなんて気にするタイプの人とも思えないけどな」
すみれが笑うから、青島もつられて笑みを零した。
「それもそうだね」
酷い評価だったが、二人とも貶しているわけではなかった。
そんなことを気にする人であれば、そもそも湾岸荘に住もうとは考えないだろう。
つまり、住人みんな同じ穴の狢なわけだ。
「室井さんに女の子紹介してもらえば?」
「ええー?それこそ、そんなタイプじゃないでしょ」
「女子大生とか紹介してくれるんじゃない?」
「それはちょっと魅力だな」
自分で言ったくせにすみれが呆れた顔をするから、青島は苦笑した。
「冗談だよ、若い子にはもうついていけないしね」
「じじくさいこと言わないでよ」
すみれは笑ったが、青島も今年の12月で31歳になる。
さすがに二十歳そこそこの女の子には特別興味がなかった。
若ければ若い方がいいという男も世の中にはいるが、青島にはそういう性癖はなかった。
「でもまあ、当分はいらないかな、彼女」
「あら、もう枯れた?」
半眼で軽く睨むと、すみれは「失敬」と悪びれた。
「別に今はいらないかなって思っただけだよ、毎日楽しいしね」
夕刊を畳みながら言うと、すみれは少し不思議そうな顔をした。
すみれから見れば、毎日湾岸荘にいる青島は変わり映えのしない生活を送っているように見えるだろう。
だけど、青島にとってはそうでもない。
ほぼ湾岸荘の中でのみ生活しているが、やることはあるし、変化もあるのだ。
新しい出会いだって、なくはない。
つい先日新しい住人が増えたことも、青島にとっては嬉しい変化だった。
銭湯から帰ってきた青島が玄関に入ると、丁度室井が靴を脱いでいるところだった。
突然開いた戸に驚いたのか、室井は目を瞠っている。
「あ、おかえりなさい」
外から帰って来た青島が言うのもおかしいがそう声をかけると、室井は頷くような仕草を見せた。
「ただいま」
それは自然な口調で、青島は小さく微笑んだ。
最初は随分ぎこちなかったように思う。
家族でもない青島にそう挨拶することに抵抗があったのかもしれないが、青島がしつこく毎回声をかけていたら、室井も慣れてくれたようだった。
鬱陶しがられなくて良かったと思う。
思われたところで、青島も止めはしなかっただろうが。
「最近帰りが遅いですね、仕事忙しいんですか?」
「学会が近いから、その準備がな…」
「学会!なんか、響きがカッコイイっすねえ」
室井が苦笑したから、頭の悪い感想だったかなと思ったが、それで青島を見下すような男でもないから気にしないことにした。
「俺が出るわけじゃない。上司の教授が出るから、その手伝いだ」
「へえ…大変ですね」
「後一週間くらいで目処が立つから、それまでの辛抱だな」
そう言う室井は少し疲れた顔をしていた。
夕べは顔を合わせていないが、夜中に帰宅していたようだ。
酒でも飲んできたのかと思っていたが、この様子ならそんな余裕はないのだろう。
大変そうだなと思ったが、青島にしてやれることなど何もない。
「頑張ってくださいね」
精々応援することくらいしかできない。
室井は頷くと、小さな声で礼を返してくれた。
おやすみと挨拶を交わすと、室井は階段に向かって行った。
行きかけて、足を止めて振り返る。
「元気に、なったか?」
意外なことを聞かれて少し驚いたが、何を聞かれているのかはすぐに分かった。
フラレた青島のその後を、気にかけてくれているのだ。
ぶっきら棒なわりに、優しい男だと思う。
多分室井が気にしてくれるほど青島は落ち込んではいない。
確かにふられた直後は落ち込んでいたし、酔っ払って室井に迷惑もかけたが、今はもう彼女のことを思い出すこともあまりなかった。
室井に慰めてもらった影響は大きかったようだ。
彼女にふられ、どんな形であれ自分を否定された後に、自分を気にかけてくれる人が傍にいたことはとてもありがたいことだった。
「大丈夫、元気っすよ」
青島が笑うと、室井はじっと青島の顔を見つめて、深く頷き踵を返した。
その室井を、今度は青島が引き止める。
もう一度振り返った室井に、青島は言った。
「室井さんに時間が出来たら、飯食いに行きませんか」
楽しい酒を飲みましょうという約束を果たしたかった。
室井は少し戸惑った顔をした。
「…それは構わないが、気にしなくていいんだぞ」
「え?」
「この間のことは、迷惑だと思っていないから」
礼なら必要ないと言っているのだろう。
なるほど、こういう誘い方では、この生真面目な人は喜ばないのかと思い、青島は誘い直した。
「俺が室井さんと楽しい酒を飲みたいんです。ダメ?」
室井の顔が強張り、いつにもまして恐い顔をしている。
別に怒っているわけではない。
ないと思いたいなと青島が若干不安に思っていると、室井はむっつりしたまま頷いた。
「楽しみにしてる」
それだけ言って階段を上って行った室井に呆気にとられた青島は、誰もいない廊下で一人ひっそりと笑った。
そういう言葉は笑顔で言うもんだと思ったが、室井らしくて悪くなかった。
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2011.10.26
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