■ 傘を帰しに 〜If necessary〜


日が完全に沈んだ頃、室井は自宅を出た。
もちろん青島も一緒だ。
「今夜は星が見えそうですね」
隣を歩きながら、青島は空を見上げていた。
つられて室井も見上げると、日が落ちて薄暗くはあったが、雲ひとつ見えない空があった。
それなのに、青島は一本の傘を手に歩いている。
借り物の傘を返しに行くからだ。
「室井さんを連れて行ったら驚くだろうなぁ、和久さん」
そう言いつつ、楽しそうな青島に、室井は肩を竦める。
「その人に、一体どんな話をしたんだ」
「えー?ただの悪口ですよ」
悪びれない青島に、室井の眉が寄る。
しかし、悪口を言われていたとしても、仕方が無いとも思っていた。
あの日青島が帰ってこなかった理由を、青島から聞いて知っていたからだ。
今なら本気じゃなかったと正直に言えるが、青島を少なからず傷つけたのは室井である。
「そうか」
と、だけ答えたら、青島は笑みを零した。
「和久さんは、俺がどれだけ室井さんを好きか、きっと知ってますよ」
目を剥いた室井に、青島の笑みが大きくなる。
「悪口を言ったことも、本当ですけどね」
「…そうか」
他に言えることが何もなかった。
青島の真っ直ぐな愛情を感じれば感じるほど、言葉が不自由になっていく気がした。
今までのように冷淡にあしらうことはできないし、したくない。
青島の愛情を、そんなふうには、もう扱えない。
かといって、ただ喜んで受け入れることも、相変わらずできずにいた。
それでも青島は笑ってくれる。
今のように。
「真下はいないかもしれないけど、すみれさんも来るといいなぁ。みんなに会わせたいですよ」
みんな面白くていい人なんだと教えてくれる。
―青島が言うのなら、俺も会ってみたい。
そう思ったが、口から出たのは簡素な一言。
「楽しみだ」
素直に言葉を紡ぐのは難しい。
室井にとっては、酷く難しい。
それでも、今みたいに、青島が嬉しそうに笑ってくれるから。
だから短くても、できるだけ素直な言葉を伝えたかった。


青島が先に駐在所の中に入って行く。
「こんばんはー」
中にいた男性が、青島を見て笑い皺を作る。
この男が和久なのだろうと、室井にもすぐに分かった。
「よお、来たな」
「はい、傘返しに」
ニコッと笑って傘を掲げて見せるが、傘はどちらかと言えばついでに過ぎないだろう。
和久に会いたかっただけ、室井と和久を会わせたかっただけだ。
「おう、ありがとうよ」
和久は傘を受け取りつつ、室井を見た。
小さく目礼すると、青島が室井を紹介してくれる。
「和久さん、この人が俺の同居人の室井さんです」
和久はさすがに驚いた顔をした。
青島が室井の悪口をどんなふうに言っていたかは知らないが、少なくても中年男性―姿だけだが、を想像してはいなかっただろう。
目を丸くして室井と青島を見比べる和久に、青島は悪戯が成功した子供のように笑っている。
やがて、和久も笑い出した。
「そうかいそうかい。あんたが室井さんかい」
驚きが消え去ったら、和久の目の中にあるのは、室井に対する親しみだけだった。
室井は愛想が無いので、初対面の人間に好意を持たれるようなタイプではない。
和久のそれは、青島の恋人である室井に対する親しみだ。
和久の青島に対する好意を感じ取って、室井は不思議な気分を味わいながら、もう一度目礼をした。
「青島がお世話になりました」
自分の内側に誰かを入れるというのは、こういうことなのかもしれない。
青島に好意を持つ和久に、好意に近い感情を抱いていた。
それは今までに無い感覚だった。
昔は、室井にもあったのかもしれない。
遠い昔過ぎて、室井が忘れているだけかもしれない。
「いやいや、なぁに。こっちこそ、長いこと引き止めて悪かったなぁ」
和久は申し訳無さそうに頭を掻いた。
「随分心配かけたんじゃねぇか?」
心配をしてはいなかったように思う。
大きな喪失感を抱え、絶望していただけだ。
自分のことばかり考えていたのだと今更気づいて苦笑したくなる。
だが室井にとっては、青島が傍にいないのであれば、どこで生きていようと死んでいようと同じことだったのかもしれない。
今はそうは思わない。
青島を守るためなら、出来得る全てのことをやるだろう。
そんな気持ちは、到底和久に説明しきれない。
室井は否定するように、ただ緩く首を振った。
素直に言葉にするのは、やはり難しい。
「おかげで仲直りできましたよ」
青島が続きを引き取ったように言って笑うと、和久も笑みを零して頷いた。
「そりゃあ、よかったな」
ケンカをした覚えはなかったが、青島と和久の間ではそういうことになっていたのだろうと、納得する。
室井の悪口を言っていたというのだから、それで当然だろう。
「まあ、茶でも飲んでけや」
和久が勧めてくれる。
青島がちらりと室井を見るから、室井はただ頷いて見せた。


***


「なんか、いい人でしょ?困った親父でもあるんですけどねー」
帰り道を歩きながら、青島が言う。
「そうだな」
「今日は来なかったから会えなかったけど、他にも会わせたかった人がいるんですよー」
残念そうな声。
青島と和久の会話に何度も名前が出てきていたから、室井ももう名前を覚えていた。
和久の家の近所に住むすみれと、和久の同僚の真下、それから真下の彼女の雪乃。
「また会いに行けば良い」
室井が言うと、青島は嬉しそうに笑って頷いた。
その笑顔に少し目を細めながら思う。


こんなに穏やかな気持ちで青島といられる時が来るなんて、思ってもいなかった。
特別何が変わったわけでもない。
青島はいつか必ずいなくなる。
それが現実だ。
変わったことといえば、ようやく青島を信じ、自分の気持ちを受け入れる気になっただけ。
―簡単なことだったのにな。
室井はひっそりと苦笑する。
青島を信じることも自分の気持ちを受け入れることも、ただ素直になるだけ、正直になるだけのことだった。
青島の言葉を素直に受け止め、自分の気持ちに正直になる。
それだけで満たされるものもあったのだ。
不安も恐怖も消えてなくなるわけではないが、少なくてもそれを凌駕するだけの今がある。
室井はようやくそれに気が付いた。


「桜、散っちゃいましたねー」
少し先を歩く青島が呟いた。
道なりに葉桜になった桜の木が並んでいた。
今年はやっぱり見られなかった。
「…来年、見るんだろ?」
肩越しに振り返って、青島が笑う。
「楽しみっすね」
一年も先のことを楽しみにしていたら気疲れするぞと思ったが、青島と一緒なら一年もあっという間かもしれない。
青島の背中を見ながら、室井は思った。


青島と一緒にいる時間は、止めたくないし、止められない。
青島の時だけは、止めちゃいけないんだ。


足を止めて、離れていく青島を呼び止める。
「青島」
「なんすかー?」
振り返らずに、また少し遠くなる。
「青島」
もう一度呼んだら、青島は振り返り足を止めた。
目でどうしたのかと尋ねてくる青島の名を、もう一度呼んだ。
「青島」
身体ごと振り返り、コートのポケットに手を突っ込んで、室井に向って笑った。
しょうがないなぁというふうに笑って、ちょっとだけ真顔になる。
それから微笑んだ。
「いますよ、ここに」


当然だ。
青島はここにいるに決まっている。
死んでいないのだから、室井の傍にいるに決まっている。
死ぬまで、青島は室井の傍にいる。


「そうか」
それだけ言って、室井は再び歩き出す。
隣に追いつき、追い抜いていくと、青島が苦笑したのが分かった。
「室井さん」
「ん?」
「迷子になったら、俺の名前呼んでくださいね、今みたいに」
そう言う青島の声は、からかっているふうではない。
柔らかい声に、青島を振り返ることはしなかった。



青島を見失いそうになったら、名前を呼べば良い。
きっとすぐそこにいるから。
振り返って、室井を待っていてくれるから。
最後の最後まで。
青島は室井の傍にいる。










END

2006.7.27

あとがき


傘を帰しに行く二人でした(タイトルそのままですみません;)
すみれさんくらい出したかったのですが、今回は出せませんでした。
また小話を書くときにでも、どこかで室井さんと絡ませたいです(笑)

本編の後の室井さんをどうしようか迷っていて、こんな形になりました。
それまでと全く一緒というのはないなって思うのです。
青島君の想いとか自分の気持ちとか悟ったら、
同じようではいられないんじゃないかなぁ…と。
青島君効果で多少前向きになっている気がします。
だからって、室井さんが別人になっちゃうのも嫌だなぁと思ったのですが、
わりと別人になってしまいましたね(汗)
普段の室井さんとちょっと違って、
ヴァンプの室井さんをお好きだと仰ってくださる方もいらっしゃったので、
できれば雰囲気は壊さずにおきたかったのですが〜;

でも、幸せな二人を書けた気がして、それだけは満足です。
今度は、青島君が甘やかされるお話を書きたいなぁ。
本編からして、青島君が頑張って(でもないですが)いたので。
幸せいっぱいな青島君が書きたいです(^^)
(青島君が幸せなら室井さんもきっと幸せ>物凄い青島君至上主義)


お粗末様でした!


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