■ ずっとここで
「ありがとうございました」
最後の客に頭を下げて送り出し、青島は静かになった店内で軽く息を吐いた。
もうじき閉店時間だから、もう客は来ないはずだ。
一人を除いて。
室井は特別用事がなければ、毎晩ここに顔を出す。
酷い時は、仕事の合間に5分だけという時もあった。
そうまでしても、室井は一日に一度、青島に顔を見せに来てくれる。
無理して毎日来なくてもいいとは言ったのだが、室井は「俺が君に会いたいから来てるだけだ」と言って譲らなかった。
申し訳なく思う。
だけどそれを上回るほど、嬉しかった。
室井の優しさは、言葉よりもむしろ態度で示されることが多い。
自分に向けられるその全てが、くすぐったくて少し申し訳なくて、堪らなく嬉しかった。
青島はカップを下げながら室井のことを思って、ひっそりと笑った。
―今日はさすがに来れないのかな。
寂しいけれど仕方が無いと思う反面、心の片隅では「もしかしたらこれから来るかも」と思ってしまう。
無理するなと言っておきながら期待してしまう自分に、青島は少し呆れた。
―でも、悪いのは室井さんだよなぁ。
会いに来てくれるんじゃないかと期待してしまうのも、無理はさせたくないけどやっぱり会いたいと思ってしまうのも、全ては室井のせい。
青島を全力で愛してくれる、室井のせいだ。
―うん。悪いのは室井さんだ。
逆恨みと知りながら、青島は思わず笑みを零した。
室井は言葉にしないまでも行動で甘えてもいいのだと青島に教えてくれるのだが、まだ面と向かっては上手く甘えられない。
だけど、頭の中では随分甘えられるようになった。
室井を困らせる日もそう遠くないかもしれない。
それはきっと幸せなことだ。
青島は最近そう思うようになった。
「さぁて、クローズしようかな」
店の戸締まりをしようかと思っていた青島は、いきなり開いたドアに目を丸くした。
姿を見せたのは、当然のように待ち人で、更に驚く。
「室井さん…」
「間に合っ……てないな」
時計を見て眉をひそめると、すまないと呟く。
こういうところは付き合い出してからも変わらない。
青島は思わず破顔した。
「ははっ…じゃあ、お客様じゃないってことで」
そう言いながら、店の鍵を閉めてしまう。
目を丸くした室井に、青島は少しだけ照れ臭そうに笑った。
「恋人なら、問題ないでしょ?」
「…そっか」
呟いた室井も、どこか嬉しそうだった。
「どうぞ、座ってください」
青島はブラインドを下ろし、入口付近の明かりを落とす。
二人だけならカウンターの明かりだけで充分だ。
「青島」
カウンターに戻りかけた青島を、室井が呼び止める。
「はい?」
「明日、代休なんだ」
一瞬きょとんとしたが、つまり今夜は時間があるという意味だろう。
青島は嬉しそうに笑って、カウンターの明かりも落とした。
「じゃあ、ちょっと飲みますかっ」
室井の時間が許せば、たまにこうして青島の自宅で飲んでいる。
恋人になってから、一緒にいる時間が増えた。
青島は室井がいれば不安なことは何もないと思えるほど単純ではなかったが、室井がいる今が幸せだとはっきり認められる程度には単純だった。
「恩田君は元気だったか?」
背広を脱ぎネクタイを緩めた室井と、二人ソファーに並んで座り、寛ぐ。
すみれが今日店に来たという話をしたところだった。
「元気、元気。室井さんに会いたがってましたよ〜」
「そうか…まだお礼もしていないし、一度ちゃんと会いたいな」
「お礼?」
首を捻った青島に、室井は手の中でビールの缶を弄びながら、少し言い辛そうに言った。
「あの時の、電話のお礼をまだ伝えてない」
言われて、青島もすぐに納得する。
室井が物凄い誤解をして喫茶店に乗り込んで来たあの日、すみれが室井に電話をしたのだと、青島も後から聞いて知っていた。
「彼女からの電話が無かったたら、きっとずっと君に会いに来れなかった」
「室井さん…」
室井の手が、青島の手を握る。
「きっと、お互いに誤解したまま、二度と会えなかった」
柔らかい眼差しに、青島は照れ臭くなって視線を逸らした。
だけど握られた手を軽く握り返す。
「俺がいっぱい礼言っといたから大丈夫です」
「うん?」
「私のお陰よって脅されて、コーヒーご馳走させられました」
ちらりと室井を見ると、室井は笑みを零した。
「そっか」
穏やかな室井の表情を眺めて、青島はまた視線を逸らした。
少し俯いて、缶ビールに口をつける。
「実際、感謝はしてますけどね…物凄く」
今があるのはすみれのお陰。
室井がいる今があるのは、すみれが二人にくれた切欠のお陰だ。
青島もそれは凄く感じていた。
不意に握った手を軽く引っ張られて顔を上げる。
「室井さん?」
室井を見たら、想像以上に近くに室井の顔があって驚いた。
「青島…」
そっと囁いて、更に近いてくる室井に漸く意図を悟る。
青島は慌てて目を閉じた。
唇に触れる暖かい感触に、頬が熱くなる。
室井とキスをするのは初めてじゃないが、緊張するのは相変わらずだった。
唇の温もりが消えてそっと瞼を持ち上げるが、目の前にある室井の端正な顔に、更に頬が熱くなった。
室井の手が青島の手から缶ビールを奪う。
テーブルの上に置くと、また唇を重ねてきた。
何度か角度を変えて触れ合わせると、室井の舌が優しく青島の唇を舐めてくるから、青島は目を閉じたまま素直に唇を開いた。
入ってくる舌に反応し、思わず室井の手を握りしめる。
すぐに室井も握り返してくれた。
いくら室井の方が年上だからとはいえ、男の癖にリードされっぱなしでいいのかとも思うが、青島はわりといっぱいいっぱいだった。
女の子とだけだが、もちろん全く経験がないわけじゃない。
大学生の頃は恋人がいた時もあった。
だが、喫茶店を継いでからはずっと一人だった。
当然こういうことをする相手などおらず、久しぶり過ぎる触れ合いは、初体験となんら変わりが無かった。
室井の舌を受け入れながら、ぎこちなく応じていると、やがて室井はそっと離れた。
「すまない」
突然の謝罪に、青島は慌てて目を開ける。
「え?何で謝るんです?」
室井は一瞬切ない目をしたが、すぐに小さく微笑んだ。
青島と違って笑顔を作るのが得意ではない室井だから、無理して笑ってくれているのはすぐに分かった。
室井は握っていた手を離すと、少し乱暴に青島の頭を掻き回す。
「…ゆっくり、いこう」
気を使ってくれていることは、何となく伝わった。
解放された手をぼんやりと眺めて、室井に視線を戻す。
「俺、イヤだったわけじゃないですよ?」
窺うように室井を見ると、今度は自然に微笑んでくれた。
「それなら、よかった」
柔らかい眼差しをくれるが、何か誤解がある気がする。
反応の鈍い青島に、青島が室井とのキスに積極的に応じられないでいると思ったのかもしれない。
確かにそれは間違いじゃないが、積極的に応じられなかったのは、単なる青島の経験不足である。
どうしたらいいのか良く分からずにいただけで、嫌だったわけではない。
むしろ。
―心地良かったって言うのも変かなぁ。
青島がちょっと思い悩んでいると、室井がもう一度頭を撫でてくれる。
「飲みなおそう」
そう言って引いていく室井の手を、青島は思わず掴んだ。
室井と酒を飲むのは好きだ。
もちろん一緒にいるだけで幸せだと思う。
だけど、与えられる温もりがあまりに心地良かったから。
「もう少し、触れ合いたいです」
ダメ?と聞いたら、室井が目を丸くした。
「でも、君は」
「イヤじゃなかったって言いましたよ?」
「……無理してないか?」
躊躇う室井に、青島は照れ笑いを浮かべた。
「隠しててもバレると思うから、先に言っておこうかな」
「え?」
「俺、誰かとこうするの凄く久しぶりで」
室井はますます目を丸くする。
我ながら情けない告白だと思いながらも、青島は続けた。
「その、ね。経験が浅いというか…少ないというか」
さすがに言い辛くなり、軽く赤面しながら苦笑した。
「あんまり、その、室井さんを、楽しませてあげられないとは思うんだけど」
室井は片手で口元を覆うと、俯いてしまった。
青島はひかれちゃったかなと不安に思う。
怖ず怖ずと室井の顔を覗き込んで、ぎょっとする。
室井が真っ赤な顔をしていたからだ。
「……そういうことを言われると、我慢が利かなくなるんだが」
口元に手を当てたまま、室井が青島を見つめてくる。
そう言いながらも、室井の眼差しが何かを期待しているように見えた。
青島も、照れ臭さと嬉しさで顔が熱くなる。
顔だけじゃなくて、身体も熱を帯びた気がする。
久しぶりに他人に感じる、確かな欲情。
「我慢なんて、することないです」
小さく呟いたら、室井がキツク抱きしめてくれた。
室井を連れて二階に上がった。
「狭いですけど」
室井を初めて青島の部屋に入れる。
「…キレイにしてるんだな」
少しだけ視線をさ迷わせた室井に、青島は笑みを零す。
「散らかすほど、ここにいませんから。寝る時くらいです」
言いながら、今も「寝る」ために来ているのだと思い出して、また顔が熱くなった。
「下には親が使ってたセミダブルのベッドもあるんですけど、古くなったから布団だけ処分しちゃって」
狭いですけど、と繰り返す。
今度は部屋じゃなくて、ベッドの話しだ。
「本当は一人で住んでるんだから、下で寝ればいいんですけどね」
緊張のせいか、何となく黙っていられない。
「何か癖でつい二階で…」
「青島」
ふわりと抱き寄せられて、青島の身体に力が入る。
それに気付いたのか、室井は青島の背中を撫でてくれた。
「すまない」
また謝罪されて、青島は慌てて首を振った。
「だから、イヤなんじゃなくてっ」
「分かってる。そうじゃなくて」
「…え?」
室井は眉間に皺を寄せながら、青島の背中を撫で続ける。
「こう…君を安心させてあげられるような、上手い言葉をかけてあげられればいいのだが」
青島は目を丸くして、すぐ傍にある室井の顔を見つめた。
「ろくな言葉が浮かばない」
不甲斐ないとばかりに眉を寄せている室井に、青島はふっと力が抜けた。
青島が愛した人は、優しくて生真面目で、どこまでも誠実な人。
こんな人と愛し合えることは、きっと幸せなことだ。
そう思いながら、青島はニッコリと笑った。
「その言葉だけで充分安心しました」
「…そっか」
室井の眉間からも皺が消える。
そうして差し伸べられた手に、青島は素直に従った。
慣れないことだと、既に申告してある。
開き直って、後は全て室井に任せることにした。
室井の手に引かれてベッドに腰を下ろすと、室井が静かに圧し掛かってくる。
見上げる形になって、とっさに両腕を室井の首に回した。
顔を見られるのが、どうにも照れ臭い。
思いきりしがみ付いたら、耳元で室井の苦笑する声がした。
「青島」
「なんです?」
「そんなにしがみ付かれたら、キスもできない」
「……それは俺も困ります」
腕の力を意識して緩めると、室井の手が青島の前髪を掻きあげた。
額に唇を押し付けられる。
至近距離で見下ろしてくる室井の目が酷く優しくて、今更ながらドキリとした。
近付いてくる室井の目を見つめながら、ぎゅっと瞳を閉じた。
***
「青島…大丈夫か?」
「っ……だい、じょうぶ、です」
途切れ途切れに、何とか言葉にする。
室井が丁寧に慣らしてくれたから、痛みはそれほどでもない。
体内深くにある熱が室井であると、まだ認識できなかった。
それくらい、非現実的な感覚。
だけど、確かに現実だと教えてくれるのは、その室井の存在だった。
「青島」
髪を梳き、頬をなぜ、唇を合わせて、青島が落ち着くのを待ってくれる。
少しずつ馴染んでくると、中で室井が脈打っているのが分かった。
中に室井がいる。
そう思うと、青島の背中が震えた。
快感からではないし、感動したというわけでもない。
だけど、確実に心が熱くなる。
「青島…?」
揺れる視界に、心配そうな顔をした室井が映った。
情けない顔をしている自分を見て、不安になっているのだろうと思う。
青島は室井の背中に腕を回して身体を引き寄せて、見えないようにその肩に顔を埋める。
「大丈夫、だから」
「しかし…」
「辛いわけじゃ、ないから」
辛いわけじゃないし、ましてや悲しいわけじゃない。
男に抱かれることに違和感がないわけじゃないが、室井なら構わないと思った。
だから、抱かれた。
貫かれた今も気持ちは変わらないし、後悔は一つも無い。
泣けてきたのは、そんなことが理由じゃなかった。
もっと贅沢な理由。
男に抱かれてそう感じるなんて思いもしなかったが。
―幸せで泣けるって、本当なんだなぁ。
ずっと最愛の人など、いらないと思っていた。
失うくらいなら一人でいいと思っていた。
だけど、知ってしまった幸せは手放せない。
通わせた心も身体も、もう二度と。
永遠など望めないことは、既に身を持って知っている。
それでも、永遠より大事なことはきっとある。
青島にとって、それが室井の存在。
青島はぼんやりと思いながら、目の前の室井の首筋にキスをした。
「きっと、もっと…みっともない顔、晒します…」
視線を持ち上げて室井を見ると、微笑んだ。
「それでも…愛して、くれますよね?」
目を見張った室井だったが、すぐに真顔で頷いた。
「当たり前だ」
怖いくらいに真剣な顔なのに、眼差しはどこまでも暖かい。
―この人を好きになってよかった。
心その底からそう思った。
「もう、大丈夫」
青島は言葉以外で誘う術を知らない。
照れ臭くても、室井にちゃんと伝えたかった。
「俺に…室井さんをください」
真っ直ぐに室井を見つめたまま、望みを口にする。
答えはすぐに身体に返ってきた。
***
寝顔を見たのは初めてだった。
「寝てるときは、眉間に皺は寄らないんだなぁ」
薄明るくなってきた部屋の中で、青島はぼんやりと室井の寝顔を見ていた。
眠れなかったわけではない。
事の後、室井とくだらない会話を交わしながらじゃれあって、そのまま眠りに付いた。
数時間もしないうちに、何故だか目が覚めてしまったのだ。
一度眠ったら中々起きられない青島には珍しいことだったが、感情が高ぶっていたせいだったのかもしれない。
当然室井は眠っている。
そっと手を伸ばして、その顔に触れた。
頬に触れると、そのまま輪郭をなぞるように、手を滑らせる。
顎のラインをなぞり、唇に軽く触れた。
「…ん…」
室井が小さな声を漏らしたから、慌てて手を引く。
が、起きたわけではなかったようだ。
ホッとしながら、微笑する。
笑ったと同時に、視界が少しだけ歪んだ。
「あ、れ?」
目をつぶり、目じりに指を押し付けた。
「やだな…涙腺弱ってる」
情けないなぁと思いながら、目をつぶってやり過ごす。
泣けてくるのは、幸せだから。
今があんまり幸せだから、ふわふわと不安定な心がついていかないのだ。
夕べから、感情のコントロールが上手くいかない。
慣れない情緒不安定な感情を、どうしたら良いのか分からなかった。
ただ目を閉じて、じっとソレが通り過ぎるのを待つ。
室井が寝ていてくれて良かったと思った。
不意に肩を抱かれる。
青島は慌てて目を開けた。
「室井さん、起き……?」
起きたのかと思えば、室井は目を閉じたまま、青島を片手で抱き寄せていた。
きょとんとしているうちに、室井の胸にしっかりと抱きこまれる。
「室井…さん?」
視線を持ち上げて顔を覗き見るが、室井は目を閉じたまま。
眠っているように見える。
「……」
室井は嘘が上手くない。
というより、下手くそだ。
だから、寝たふりなんかしていないかもしれない。
本当に眠ったまま、青島を抱き寄せてくれたのかもしれない。
青島には、どちらだって構わなかった。
室井の胸に顔を埋めて、目を閉じた。
自然と流れた涙は、そのうち自然に止まるだろう。
その頃には、青島もきっと夢の中。
次に目が覚めた時には、自然と笑顔になるはず。
室井が隣にいてくれたら―。
END
2005.11.26
あとがき
エチ部分をカットしまして、表にもアップしてみました。
初々しい青島君もたまにはいいですよねっ!(とか、押し付けてみます)
…いや、どうもすみません;
こんなの青島君じゃないといわれても、返す言葉もありませんて感じです(笑)
翌朝も書きましたが、微妙です。
室井さん、起きたら、隣にいないし!(大笑)
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