苛立ってもいたし、反面、安堵してもいた。
そして、眠たかった。
右手に提げた紙袋が、やけに重い。
能力の低い人間を成長させたい、という考えは新城のなかには無い。
使えないやつは切り捨てたい。自分の人生に関わらせたくない。
それが心底素直な気持ちだ。
けれど、現実はあらゆるものを内包して進み行く。
神が与えたとしか思われないようなタイミングも、
愚かしさのあまりに存在ごと消し去ってやりたいような、けれど態度は人の倍はあるような無能
の輩も、使えると認めることは許せないが、針でつくような見極めをした所轄のコマも、無駄に
流れる時間も、奇跡のような偶然も、全て。
(とにかく、終わったんだ。)
そう思って、灰色の胸から、大きな溜息を長く吐き出す。
今夜はこれからちゃんと自宅で眠れる。
たとえ明日、また同じような現実のなかで、闘いが待っていたとしても。
「…明日、なんだよね。」
ぞろぞろ後ろをついていた部下を解散させて、車の準備を言いつけて、角を曲がろうとしたその
時、話し声がした。
「あげないわよ。あたしだってお昼食べられなかったんだから。」
軽やかな、耳になじむ声だ、と思ってしまって、認めたくない、
自分には認めたくないことが多い、と自覚はあって、少し胸の暗さが深くなった。
…恩田すみれと、青島だ。
刑事課の手前の喫煙室。
「オレ、昨日の晩からなんも食ってないよ…。」
もう腹へってんのかそうでもないのか判んなくなってきたよ、と情けない声を出している。
甘えている。
「青島くん、こんな日なのに、かわいそう。」
声の方をそっと覗くと、そう言いながらも手にしたどんぶり――インスタントラーメンか?を
抱え込んで、青島に背を向ける恩田すみれの姿が見えた。
上向いて、いいけどね、とひとりごちながら溜息をつく青島も。
数時間前に、4日間の大混乱を経て解決した特捜。
新城は既に管理官などではなかったが、様々な「上の」事情により、久しぶりに湾岸署に置かれ
たそれに参加していた。
(監督、…否、監視、と言うべきか。)
その捜査会議、はるか後方に姿形を認められた顔が、近い。
なにも食べていない、と言っていた。そういえば、今まで目にしてきた彼に比べ、いくらか覇気
がない。
またこころのうちで、認めたくない感覚が揺らめいて、新城は不快になった。
右手の紙袋。
重い。邪魔だ。
だから、―――だからだ。ついでなのだ。
そういいわけ(と認めたくなかったが)して、おい、所轄、と声を掛けた、その時。
「青島くんいる!?」
右手の荷物を先程えびす顔で押し付けてきたうちのひとり、袴田刑事課長が、新城の声にかぶせる
ように、青島を呼んだ。
こちらには、恩田すみれが振り向いて―――青島は、「はぁーい」とふてくされたような間延びし
た声で、あちらに返した。
新城は、不快であった。
そして恐らく、こちらに気付いて「飯がまずくなる」とありありと表情に露わにしている、恩田す
みれも。
「…なんか用ですか?」
食事中なんだけど、とぶっきらぼうに言い寄越してくる。
この女刑事の上を上
「貴様らに用などない。」
そう言い放って、右手の荷物を差し出した。
視界の端に、すぐ向こうの廊下で袴田と話す青島の背中が見える。
「…処分しておけ。」
受け取り、怪訝そうな目で新城を見遣るすみれの手に、ふんわりと温かい手触り。
「…!いな菊のお弁当!これくれるの!?」
がさっ、と音を立てて袋の中身を確認し、目をまるくしているすみれには、どこか鬼気迫る迫力
があった。
僅かにたじろぎながら、処分しろと言っただけだ、と返す新城の目は、それでも青島の姿を引っ
掛けたままだ。
すみれはまだそれには気付かず、いぶかしむように、けれどのどをごくりと鳴らしながら、まさか、
と呟いた。
「新城さん…毒でも入れたの。」
新城の眉間に、力がこもる。
「じゃなきゃ、どういう風の吹き回し?何が狙いなの?」
「…危険だと思うなら、捨てればいい。ここの署長どものおべんちゃらに付き合ってやっただけ
だ。」
(退けるだけの労力が惜しかっただけでもある。)
「自分で捨てたらいいじゃない。なんであたしに?」
「貴様にやったわけじゃない。…なにも食べていないと言っていたから、」
後半、低くちいさな呟きのようなことばを、らしくなく声にしてしまったのは、溜まり溜まった
疲れの所為だったろう。
けれど、耳ざとく目ざとく、すみれはそれを聞き取り、見逃さなかった。
はーん、と肩をすくめて、白けたような顔で、
「青島くーん」
と、新城に向きあったまま、向こうの丸まった背中を呼びつけた。
え?と振り向いた青島と、こちらに気付いてぎょっとした袴田課長。
あ、新城さん、と彼のくちびるが動くのに気をとられていると。
「新城さんが青島くんに、誕生日のプレゼントだって〜。」
「!」
「!」
「!」
その場に居合わせた、すみれ以外の全ての人間が驚愕を隠せなかった。新城も。
思わずすみれの腕を掴む。
「待て、何でそうなるんだ…!」
青島が、袴田にしっしっと追い立てられるようにして、疑問符をそこらじゅうに巻き散らしなが
ら寄ってくる。
疲弊した新城の脳と、心臓が、さらに仕事を強いられていた。
「だあって新城さんこれ、青島くんにあげたいんでしょー。あたしたちの話、立ち聞きしてたん
じゃない。」
やらし、とちろりと視線を向けつつ言うすみれの腕を掴んでいた手に更に力がこもると、
「セクハラ。」
と強く睨まれる。
こめかみがぴくりと動いたのが自分で判った。
そして青島が辿り着く。
「新城さん、あの…。」
「ハイ、これ。新城さんから青島くんに、愛情いっぱいのお弁当〜。」
五千二百円、と、紙袋を差し出されて、青島は困惑した。
何か行き違いが、と考えを巡らせながらも、行き場のない「プレゼント」を両手に持つ。
「新城さん、オレの誕生日、って、」
笑っていいのか困っていいのか判らない、と書いてある青島の顔に、新城は焦った。
取り乱しそうにすらなってしまって、
―――往々にしてこんな時、新城は必要以上に硬化した態度をとってしまう自分を自覚していな
かった。
「勘違いするな…!わたしは不要なものを処分させようとしただけだ。
貴様がいつ生まれようと腹が減っていようといまいと、わたしには関係も興味もない。貴様ら所
轄とつるんで喜ぶのは室井さんだけだ。」
冷え冷えとした声が冬の室内に染みていく。
青島は最後のフレーズあたりで少しくちびるを尖らせていたが、すみれの瞳はきらめいた。
「あら。じゃあこれ、あたしがもらっちゃっても文句ないわよね。」
そう言い終えないうちに青島の手のなかから、紙袋は消えていた。
あ、と間抜けな声を漏らす青島と、ぐっと息を詰める新城。
「…好きにしろ。」
精一杯平静な声で告げて、くるりと背を向ける新城に、すみれの明るい声が響いた。
青島には、とるべき行動が判っていた。
去っていく硬い背中。
けれど、と思う。
(何がいいとか悪いとか…ひとそれぞれなんだよね…。)
冷徹なキャリアであった頃の室井の姿が脳裏に浮かんで、新城と重なった。
ふ、とちいさな溜息が漏れると、すみれが呟いた。
「意地っ張りって、かわいそうね。」
きっちりと紙袋を両手で抱きつつ、去り行く新城をみつめている。
「素直になる、って、ある種の才能だもんね。」
再び、かつての室井の姿が浮かんで消えた。
青島は、その頃とりたかった行動を、覚えていた。
小さく苦笑がもれる。
「…そだね。」
じゃ、行ってきます、と掛け出すと、行ってらっしゃい、と返される。
(お互い、才能あって困っちゃうよね。)
ふと思いついて、立ち止まる。
「…おべんと、ちょっとは残しといてね。」
にっこりと微笑む才女は、本当に良い女だと思う。
「おなかに聞いて。」
―――本能にも素直すぎるきらいはあるが。
新城さん、と背中から呼ばれた時、ほんの少しだけ、夢かと思った。
そして、また「認めたくない」
(疲れている所為だ。)
立ち止まってやるのは、だからだ。
青島が走ってきた。何も摂っていないと言っていたくせに、跳ねるように。
一歩のたびに踊る茶色の髪。
「…なんだ。」
彼らが落ち合ったのは、もう玄関にほど近い、一階のホールだった。
時刻の所為もあり人の姿は極めてまばらで、立ち番の刑事見習いがこちらに注目している。
「お久しぶりです。」
にか、と笑顔になりながら、青島が言う。
そうだ。
本当に久しぶりだった。
新城は着実に、とるべき手順で以て「上」へ進んでいたから、現場に関与することは今ほとんど
ないに等しい。
そうして久々に間近で見る青島は、いつかとほとんど変わらないように見えた。
「お帰りになるんすよね?特捜、お疲れさまでした。」
「…貴様に労ってもらう言われはない。」
ああ、引きずってるな、と青島は思う。
こういうところで新城は、すみれの言うとおりなのかもしれない。
かわいそうだ、とまでは思わないが。
「課長から、新城さんをお送りしろってお達しがありました。」
と、これは詭弁であったが。
「仕事なんで、付き合ってください。」
眉を下げて笑う青島に、新城は無表情下で逡巡し、腹を決めて―――にやりと笑った。
「貴様の上司は、余程上の機嫌をとりたいらしいな。」
実は、下手に出られると安心してしまう(蔑視は常時だが)、ということには、気付けない新城だ
ったが、点数稼ぎが仕事だとでも思っているんだろう、と嫌味を浴びせながらも、自動ドアの向
こう、ロータリーで待つ部下の車を無視することは、彼にとって容易いことだった。
車内は静謐だった。
青島が行き先を確認して、それだけ。
年の瀬、深夜と言って申し分ない時刻にも、この街にテールランプが並ばない日はなく、新城は、
運転席のウインドウに映る青島の横顔を透かして、それを眺めた。
ふと、ぐう、と音がする。
「あ…すいません。…腹の虫、なっちゃいました。」
あは、とバックミラー越しに笑いかける青島に、先程の遣り取りが思い出されて、新城は不快で
あった。
…悔しかったのかもしれない。なにかが。
「そういえば、新城さん晩飯まだなんでしょ?あのおべんと、持って帰らなくてよかったんすか?」
あおしまが、おべんと、と発音するのに、どこか幼さを感じて、正したいような、…もう一度聞
きたいような、
複雑な心境に陥りつつ、返事は出来なかった。
結果、彼の問いを無視したようなかたちになってしまうが、青島がそれを別段気にした様子はな
い。
「今回、なんっかバタバタしましたもんねえ。オレ、ここにさんちマトモに寝てないです。」
睡眠不足で腹へってると、寒さがこたえるんすよね、とひとりごとのように呟きながら、大きく
カーブを曲がる。
ゆったりとした荷重ののちに、目指すべき場所、本庁が見える。
―――終点だ。
青島がウィンカーを出す。
信号が、一秒おいて、赤になった。
新城のなかには、焦りはなかった。
久しぶりで、―――久しぶりだった。
それだけで、それだけだ。
新城と青島の間には何もなかった。
絆も約束も、それへのお互いの執着も。
そして新城に自覚はなかったが、胸を冷やすのは、言うなれば諦め。
…けれど。
あ、日付変わっちゃいましたね、と小声で青島が呟いた。
それが、さ
「…新城さん!?」
信号が青に変わった瞬間、新城は車を降りていた。
夜の中にあって、あたりを照らすその場所へ向かって。
外気はこれ以上ないほど冷たくて、風が強かった。
新城のコートがはためくさまを、青島は存分に焦りながら、ミラー越しに見た。
急いで車を路肩につけ、自らも外へ飛び出す。
「新城さん!」
走る先に、街灯よりも強い、近い光に照らし出される、硬い背中。
ややかがんでいたそれが、いつもどおりにすっと真っ直ぐになった時、ようやく青島は新城のも
とに辿り着いた。
「…コーヒー、飲みたい、だったら、ひとこと、言って、…よ、…!」
はあ、はあ、とふたりの間に青島の呼気が白く宙に散る。
それを見遣って、新城は手にしたものを、青島に差し出した。
きょとん、と青島の目がもっと丸くなる。
「え…、」
オレにくれるの?
青島の目は、いつも、…新城が知っている限りいつも、声もたてずに話しかける。
文句だったり、感動だったり、憤りだったり、―――喜びだったり。
すっかり笑顔になった青島に、意識して無表情で返す。
「…誕生日のプレゼントすか?」
ことばも、白く散る。
差し出された手のひらにそれを預けながらにやり、と笑ってやった。
「…!」
「―――嫌がらせだ。」
冷え切った12月の夜に、ひときわ凍るような、缶コーヒー。
赤いボタンを押さなかったのは、最後に抗えなかったためか、それ
この世の誰にも判らなかったけれど。
それきり背を向けて靴音高らかに、新城の胸は、凍えつつもほんの少しだけ柔らかくなった。
自ら終点に向かう。
リフレインする声。
―――日付、変わっちゃいましたね。
時計の表示に、それを見取り、小さく苦笑する。
新たな記憶事項に。
「…新城さん!」
冷たい街に、響く声。
白い息を散らして。
「来年は、もっといいもんください。」
遠い光のそばで笑う青島に、新城は、調子に乗るな、と返す。
そして歩く。
北へ、南へ、それぞれに。
細い細い、あるかなきかの見えない糸のような、約束、を繋いだのは、去年のこと。
ささいなことだ、たいしたことじゃないと、自覚のないままに、自らのうちを蝕むものに気付く
のには、それから時間を必要としなかった。
「今日中に、渡して下さい。」
日付を一日、わざと違えた。
お久しぶりです、と笑った、後を追ってきた、あの日のことを思い出せという、それは祈りだろ
うか。
それだけは未だはっきりしない。
訪れた本庁の大階段で、新城の手にあるのは「悪魔」という名のビールだった。
何でもない顔をして、他のものよりもずっと強い効果をもたらす、誰かのような。
END
(2005.12.23)
ベッタベタですみません〜(´Д`)
新城さんの心情編でした☆
12月の自販機に冷たいコーヒーがおいてるのかは不明…。