■ 会えない時間も
青島は夜食のカップラーメンを食べながら、テレビを見ていた。
夜勤になっている数名しかいない刑事課はさすがに静かで、そこにラーメンを啜る音が響く。
青島一人が立てているわけではない。
お隣の係りのすみれも一緒である。
「青島君の、なんてラーメン?」
食べ物には並々ならない興味を持っているすみれが手元を覗いてくるから、見やすいように少し持ち上げてやる。
親切そうにみせて、ただ単に自慢がしたかっただけである。
「新商品だよ」
青島は誇らしげに言った。
そんなことがなんの自慢になるんだと思うが、不思議と食べ物のことになればすみれに対しては自慢になるのだ。
すみれの目が輝いた。
「えっ、私見たことない〜」
「でしょ、美味いよー」
青島が新しい玩具を自慢する子供であれば、身を乗り出してきたすみれはそれが羨ましくて仕方がない子供である。
「一口」
「交換ならいいよ」
「けちくさい」
ぴしゃりと言われて、青島は唇を尖らせた。
「だって、すみれさんの一口、尋常じゃないもん」
「それどーゆー意味よ」
今度はすみれが唇を尖らせる。
尋常じゃないというのは大袈裟だが、すみれにくいものを渡したが最後、帰ってこないのも事実である。
「ほら、早く食べないとのびるよ」
膨れているすみれに言って、青島も手を動かす。
ラーメンは諦めたのか、くれないなら青島の買い置きのラーメンを勝手に食べればいいやと思ったのか―事実この日の晩の間に青島が買い置きしていたラーメンが一つ無くなる、すみれはラーメンを啜りながらテレビのリモコンを手にした。
「なんか面白い深夜番組でもやってないの〜?」
幸いなことに、今夜は事件も少なくわりと暇な夜だった。
すみれが次々にチャンネルを変えるテレビを見るとはなしに見て、天気予報が流れると慌てて止める。
「あ、ちょっと見せてくれる?」
「んー?あら、明日は雨ねぇ」
すみれの言う通り、東京都の天気予報は傘マークだった。
週間予報でも、数日は雨が続くようだ。
青島はニヤリと笑った。
「やった」
「何よ?雨が嬉しいわけ?」
不思議そうにすみれが見てくる。
「だって、明日から連休だよ?」
「だから何よ」
「ざまぁみろっと思ってさ」
明日から世間ではゴールデンウィークである。
長い人なら9連休。
そんなことは、青島にもすみれにも関係がなかった。
世間が連休で浮かれている時こそ、警察はむしろ忙しいのだ。
連休など取れるわけもなかった。
「…青島君、暗い!」
青島の大人気ない言葉を聞いて一瞬目を丸くしたが、すぐにすみれは呆れた顔をした。
自分が連休を取れないからといって、折角のゴールデンウィークの悪天候を喜ぶ。
確かに、暗い。
青島自身自覚はあったが、面白くないものは仕方が無い。
「いいじゃない、多少天気悪くたって、休暇があるだけマシなんだから」
悪びれずカップラーメンの汁を啜ると、すみれは苦笑した。
「なに、イライラしてんのよ」
「別にしてないよ」
「室井さんと会えないからって、いじけないでよ」
「……そんなんじゃないよ」
そう答えたが、言うまでもなく図星だと顔に出してしまった。
青島一人の休暇すら思うように取れないこの時期に、室井と一緒の休暇を取るなど至難の業である。
それは良く分かっているし、仕方のないことだと理解している。
だけど青島だって、愛しい恋人に会いたくて会いたくて仕方のない時くらいあるのだ。
そんな時は、多少世間が妬ましくもなったりする。
もちろん、逆恨みに過ぎないが。
「あーあっ」
すみれが溜息を吐いた。
「青島君たちが羨ましいなぁ」
青島の眉が寄る。
「なんでさ」
会いたいときに満足に会うことすらできない恋人だというのに、羨ましいというすみれの気持ちが分からない。
すみれは肩を竦めると、もう一度溜息を吐いた。
「そんなに会いたいなーと思える相手がいていいなーってことよ」
恋人に会えない日の晴天すら腹立たしい。
それは我侭に過ぎないが、それほどまでに相手を想っているということになるだろうか。
どうでもいい相手にそこまで会いたいとは思わないだろうから、そういうことなのかもしれない。
それがすみれには羨ましかったらしく、青島は頬を掻いた。
「そっかなぁ」
「ラブラブで良かったじゃない」
「ラブラブ…って、いや、室井さんが同じように思ってるとは限らないし」
「本当にそう思ってんの?」
じろり睨まれて、引き攣る。
本気で言ってるなら呪ってやる、とでも言うような目つきである。
「……ないこともないとは思ってるけど」
強い視線に負けて素直に答えたら、すみれは思い切りいやそうな顔をした。
「なによ、結局ノロケ〜?」
「そ、そんなつもりじゃないよ」
本当にそんなつもりではなかった。
会えもしない恋人のことについて、ノロケられることはなにもない。
青島はただすみれの質問に素直に答えたまでである。
室井も青島と同じように、きっと会いたがってくれているはず。
程度のほどまでは分からないが、さほど自分の思いと大差はないはずだと青島は思っていた。
そう思ってみると、やっぱり少しノロケだったかもしれない。
「ま、いいけどさ」
すみれは食べ終えたカップラーメンの容器を持って席を立つ。
「会えなくても、電話くらいしてみたら?」
ノロケに付き合うのはイヤでも、助言はしてくれるらしい。
「ん、そうだね」
「顔見れなくて寂しいなら、写メでも送ってもらえば?」
「室井さんがそんな柄だと思う?」
自分の携帯カメラで自分の顔を写真に収める室井。
その姿を想像したのか、すみれは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「それもちょっと、面白いけどね」
青島は苦笑を返した。
カップラーメンを食べ終えると、青島は喫煙所に向った。
夜勤中とあって静かな喫煙所で、一人煙草を吹かす。
煙を吐き出すと、一緒に溜息が漏れた。
さすがに自分でも鬱陶しいなぁと思う。
考えても仕方の無いことを考えるのは、元々得意じゃない。
室井に会いたい、けれど会えない。
こればかりはどうしようもないのだ。
仕事を放り出して会いに行けるわけもない。
室井に放り出させることも論外である。
そしたら、今は我慢するしかない。
青島自身、それは良く分かっていた。
分かっていてもそうできなければ、意味は無い。
「あーもーなんとかなんないかなぁ」
青島は天井を仰いで、溜息交じりに呟いた。
その体勢のまま黙って天井を見つめ、なんともならないよなぁと思いながら首を戻すと、視界に自動販売機が入った。
それを見て、少し口元を綻ばせる。
自販機自体はなんの変哲もない普通の自販機だが、湾岸署にある自販機は青島にとってだけ意味があった。
もしかしたら、室井にとってもあるかもしれない。
「…缶コーヒー1本のお礼じゃ、わりにあわないよな」
呟いて、苦笑する。
青島が貸しにした缶コーヒーで、室井は宣言通り自販機毎返して寄こした。
その時はさすがに呆気に取られたし、呆れたし、バカだなこの人とも思ったが、室井のことだから約束は守られるような気もしていた。
どういう権限を使うと湾岸署の自販機が増えるのかは分からないが、青島の励ましに対する感謝の気持ちがあったからこその行動だろう。
愛情も、きっとあった。
そんなことを考えていたら、また胸がモヤモヤとしてくる。
青島は眉を寄せた。
―室井さんに会いたい。
何度も考えたことだ。
―けど、会えるわけがない。
それも、何度も考えた。
物理的にはどうやっても不可能なのだ。
だが、間接的になら、会えないことはないかもしれない。
突然そう思い立ったのは、すみれの言葉を思い出したからだ。
青島はポケットから携帯電話を取り出した。
***
「室井管理官」
声をかけられて、室井は捜査資料から顔をあげた。
目の前にいた部下が、少し緊張した面持ちで書類を差し出してくる。
「所轄から、新しい情報が入ってきました」
「そうか、ありがとう」
礼を言って受け取ると、部下はそそくさと離れていく。
その姿を見送って、室井は眉を顰めた。
先ほどから、あまり部下が近寄ってこようとしないことには気付いている。
今の室井が近寄り難いから近寄ってこようとしないのだということも、分かっていた。
室井の機嫌が悪いからである。
もちろん、室井は部下に八つ当たりなどする人間ではない。
本人は普通に接しているつもりだった。
ただ、そう強く意識して心がけているせいか、いつも以上に顔に力が入り、表情筋がいつにも増して動き辛くなっている。
余計な威圧感をかもし出しているに違いなかった。
これではいけない、捜査に影響が出る、そう思えば思うほど、室井の顔は強張っていく。
鉄面皮の下で室井がすこぶる困っていることなど、誰も気付いてはくれない。
幸いなことは、室井の機嫌が悪い原因も、誰にも気付かれていないことだった。
―青島に会えない。
室井が苛立っている理由は、それだけだった。
誰も室井が恋人に会えないことに苛立っているなんて思いもしていないだろうが、こんなことを知られたらさすがに気まずい。
世間が浮かれる大型連休に、休暇が取れるだなんて警察官になってから一度も考えたことはない。
今だって、仕方が無いことだと分かっているし、当然だと思っている。
だが、それと青島に会いたいと思う気持ちは、全く別問題だった。
会えないのは仕方ないことだと分かっていても、会えないでいることが平気なわけじゃないのだ。
できたら会いたい。
できなくても会いたい。
でも会えないのが、現実だ。
このゴールデンウィークの間は、青島も休みが取れるか分からない状況だと聞いていた。
室井だって似たようなもので、同じ休みなど望むだけ馬鹿馬鹿しい。
どうにかしてどこかで会えないものかと考えるが、室井一人の都合ではそれも難しい。
こういう時はつくづく同業者というのは不便である。
青島が同業者、警察官でなければ良かったのにと思ったことは、一度も無いが。
「管理官」
また声をかけられて目をあげると、違う部下がいて書類を手渡された。
「これにも目を通してください」
「わかった」
室井が頷くと同時に、部下がいそいそと離れていく。
それを見送って、室井は自分の頬に手を当てた。
当てた手をマッサージするように動かしながら、書類に目を通す。
眉間の皺は消えていないから、顔は怖いままである。
表情筋を解そうとしても無駄な抵抗であった。
ふいに胸ポケットで携帯が震えた。
短い振動でメールだと分かる。
室井は頬から手を離し、携帯を取り出した。
ディスプレイに表示されているのは、青島の名前。
一瞬目を丸くしたが、取り乱さないように気をつけて、メールを開く。
件名が『会いたいです』だったから、取り乱さないでいることは絶望的に難しかった。
俺の台詞だと胸中で何故か怒りながらメールを見るが、本文はなく添付ファイルが一つ。
首を傾げつつ、開いて見る。
そして、また目を剥いた。
添付された写真に写っていたのは、青島俊作だった。
アップの青島が、室井に向って咥え煙草でイーダをしている。
おそらく、自分で自分の顔の写真を撮ったのだろう。
それを見て真っ先に思ったのは「可愛い」だったが、次いで思ったのは「俺は何かしただろうか?」ということだった。
室井に対して怒っているから、こんな写真が届いたのだろうかと考えたのだ。
室井が益々首を傾げていると、またもメールを受信する。
慌てて開くと、今度も青島だった。
そして、今度も添付ファイルが一つだけ。
それを開いて見ると、やっぱり青島が写っていた。
今度は笑っている。
どこか照れ臭そうに見える笑み。
そこにはいない室井に微笑むのが照れ臭かったのか、自分の笑い顔を写真に収めようとしているのが恥ずかしかったのか。
とにかくちょっとだけはにかむような笑顔だった。
思わず食い入るように見ていると、またメールが届く。
確認するまでもなく送り主は青島で、添付ファイルが一つだけのメール。
開くと、今度は怒っても笑ってもいない、静かな表情の青島がいた。
ちょっとだけ眉が寄っていて、困っているような顔。
寂しそうにも見えなくない。
会いたいですと言っている顔かもしれないと思いながら、席を立った。
近くにいた部下に「5分だけ席を外す」と伝えて、捜査本部を出る。
その間に、もう一つメールを受信する。
開くと添付ファイルはもうなかった。
短い本文だけ。
『俺にも、室井さんに会わせてくださいよ!』
室井は堪らず笑みを零した。
室井の写真を送れという意味だと理解するのに、少し時間がかかった。
―可愛いことを。
理解したら、そう思わずにはいられなかった。
ひと気のない廊下に出て、室井は急いで青島に電話をかける。
電話はすぐに繋がった。
『室井さん?メール見ました?』
愛しい人の声は、悪戯が成功した子供のようにはしゃいでいて、室井は苦笑した。
「見た、ちゃんと仕事してるのか?」
『してますよ、バリバリ夜勤中ですよ』
「ならいいが」
『ちょっと、他に言うことないんですかー?』
今度は不服そうな声。
恋人が会いたいと訴えたメールを見て電話を寄こしたのだから、他に言うべきことがあるだろうと突っ込まれる。
その通りだが、何か言いたくて電話をかけたわけでもなかった。
写真を見たらじっとしていられなくなっただけである。
何も考えずに電話をかけたと言っていい。
それでも、青島の要求に律儀に考える。
―他に言うべきこと。
青島のメールを、写真を見て、青島に伝えるべきこと。
それ考えれば、わりと簡単に思いつく。
「可愛かった」
『……いや、そういうことじゃなくてですねー』
青島は「褒めろ」と言ったわけではなかった。
だが、室井がそう思ったのだから仕方が無い。
「でも、事実だ」
文句でもあるのかとばかりに主張すると、青島は少し沈黙した。
『あー…』
困っているらしい。
『ありがとう、ございます?』
何故か疑問系のお礼が返ってきた。
何と答えようか迷ったのか、礼を言うべきことなのか迷ったのか。
どちらにせよ、やっぱり困らせているらしい。
室井は話題を変えた。
「どうして写真を?」
『やー、すみれさんに言われたんですけどね』
青島がすみれに貰った助言を教えてくれる。
会えないならせめて写真でくらい、とは室井の頭では全く浮かばない発想だった。
そもそも携帯のカメラなどほとんど使う機会がない。
あってもなくても同じ機能だと思っていたが、青島から送ってもらった写真を見れば、素晴らしい機能だと思えた。
『多分写真送ってってお願いしただけじゃ、照れて撮ってくんないだろうなぁと思って』
だから、まずは自分の写真を先に送って、それから室井にも撮って送ってもらおうと思ったらしい。
一番伝えたかったことは、最後のメッセージだったのだ。
「…俺の写真なんか見ても、」
つまらないだろうと言う前に、青島に遮られる。
『つまらなかった?俺の写真』
「まさか、可愛かった」
『いや、だから、それはいいんだけど…』
「顔を見れて、嬉しかった」
『……でしょ?』
嬉しそうにはにかむ青島の顔が見えた気がした。
つまり青島が言いたいことも、そういうことだ。
室井の顔が見たいから、見れたら嬉しいから、送ってくれと言われているのだ。
同じ気持ちでいてくれることが、凄く嬉しかった。
有り難いことだと心から思ったが、やはり自分の顔を自分で撮るということには多少抵抗を感じる。
青島の顔ならいざしらず俺の顔など…とついつい考える。
『ま、無理にとは言わないですけどね』
苦笑しながら続けた。
『こういうことが得意じゃない人だって分かってるから』
そういうとこも好きですよと小さく付け足されると、室井の携帯を握る手に力が入る。
―写真くらい、なんだというのか。
突然気持ちが大きくなった。
開き直ったともいえる。
青島の気持ちに応えられない理由は、もう見当たらなかった。
「後で送る」
『…え!本当っすか!』
「ああ……その、どんな写真になるかは、わからないが」
自分の顔を自分でカメラに収めるのは初めてである。
やったことはないが、上手い具合に撮れない自信だけはあった。
少なくとも、青島のように表情を作ったり笑ったりするようなことはできないはずだ。
そんなことは、青島も承知のはずである。
『いいですいいです、わーい、やったっ』
素直に喜んでくれる青島に小さく笑って、室井は時計を見た。
もうじき5分経つ。
少しだけ残念に思ったが、顔が見られて声が聞けたのだから、今は満足しなければならない。
「そろそろ仕事に戻る」
『あ、はい、俺も戻らなきゃ』
「そうか。気をつけて、頑張れ」
『室井さんも…写真、絶対送ってくださいね!』
釘をさす青島に苦笑して、約束すると告げる。
なるべく早く会おうともう一つ約束をして、電話を切った。
少しの間柔らかい眼差しで切れた電話を見つめていたが、室井は思い出したように手を動かし始めた。
―約束を果たさねば。
その顔は、たかが写真を撮るという作業をしているとは思えないくらい、真剣な表情だった。
***
電話を終えて刑事課に戻る途中で、携帯がまた震える。
室井からのメールの受信で、青島は目を輝かせた。
もう写真を撮って送ってくれたのだと思ったのだ。
添付ファイル一つだけのメールで、件名すらない。
青島はいそいそとファイルを開くと、目を丸くし、堪らず吹き出した。
これ以上ないくらい仏頂面な愛しい恋人の顔。
眉間に皺を寄せ、カメラを睨みつけ、口をへの字にし、力が入りすぎているのか顔がいくらか赤い。
正直、怖いくらいだ。
それでも、青島の目には愛しくうつる。
青島との約束を守るために、慣れないことを必死に真面目にやってくれている室井が、容易に想像がつくからだ。
「も〜…しょうがない人だなぁ」
言いながら、青島は柔らかく微笑む。
じっとその怖い顔を見つめていたら、また室井からのメールを受信した。
今度は短い本文だけのメールだった。
『言い忘れた。俺も会いたい。』
青島のメールの件名に対する返事らしい。
「ふふ…っ」
ちょっと気持ちの悪い笑い声を漏らしながら、青島は携帯をポケットにしまった。
不思議なもので、苛立ちはキレイに消えていた。
会えない現状は変わらないし、会いたくなくなったわけではない。
だが、会えなくても繋がっていられるということは、心強かった。
室井にとっても、そうであればいい。
写真を送ってくれた室井だから、きっと青島と同じ気持ちでいてくれているはずだ。
今頃、気持ちも新たに、頑張っているかもしれない。
「さ、俺も頑張りますか」
呟くのと同時に、すみれが刑事課から出て来た。
「青島君!事件!」
青島は走り出した。
同じ頃、憑き物が落ちたような室井が捜査本部に戻って来て、部下たちを驚かせていたりする。
END
2007.5.3
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