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青島は団扇で扇ぎながら、隣を歩くすみれに話かける。
上着は署に置いてきていたし、ワイシャツも腕まくりしているが、暑いものは暑い。
すみれも些かお疲れ気味で、ハンカチで額を押さえていた。
「そうかもね」
「それなら、やっぱり社会人も夏の間は休むべきだよ」
仕事にならないもんと主張すると、すみれは呆れた視線で青島を見上げた。
「だから警察も夏の間は一月休めって?」
「そう、夏期休暇。御用の方は涼しくなってからどうぞ」
「迷宮入りする事件が増えて、いいかもしれないわね」
「それか法律の改正。夏の間に事件を起こしたら、大小問わずに問答無用で無期懲役」
「ハイハイ。バカなこと言ってないで、早く署に帰るわよー」
イイコだからねーとすみれに子供扱いされながら、青島はしぶしぶと足を動かした。
署で窃盗の通報を受けたすみれに頼まれて、係りが違う青島も一緒に現場に向かったのだ
がどうやら悪戯だったらしく、事件そのものもそれを目撃した人物もいなかったのだ。
このクソ暑いのに、そして忙しい時期だというのに、意味不明な悪戯をする人間もいるも
のである。
40度近い気温の中無意味に歩かされているのだから、楽しいわけもなかった。
青島は照りつける太陽を、目を細めて睨みつける。
「くそー。夏なんて大嫌いだ」
「あら、意外。青島君は好きそうだと思ってたわ」
「訂正。休みも無い、海にもいけない、花火もできない夏なんて大嫌いだ」
「なるほど、それなら納得」
転職でもしたらーと、すみれは軽く言う。
確かに現実的な打開策はそれしかない。
警察に学校のような夏休みができるわけがないし、そんな恐ろしい法律改正がなされるわ
けもなかった。
そんなことは青島にも分かっているが、愚痴が零れるのも仕方が無かった。
「すみれさんは怒ってないのー?」
「怒ってるけど、青島君が全部言ってくれたからねー」
「…省エネなんだね、すみれさん」
中身のない会話を交わしているうちに、湾岸署に辿り着いた。
建物の中に入ると、ホッとする。
身体にはあまり良くはないらしいが、クーラーの有り難味を一番実感する瞬間ではある。
「悪かったわね、つき合わせて」
刑事課に戻るとすみれが言うから、青島は肩を竦めてみせた。
「お互い、ついてなかったね」
「全くね」
やっぱり少し疲れた顔で、すみれは苦笑し席についた。
何事も無かった、という報告書を提出しないといけないのだろう。
いい迷惑だと思うが、これも仕事のうちである。
諦めるより他にない。
一つ溜息を吐いて、青島も席に付いた。
―しばらく室井さんに会ってないなぁ。
喫煙所で煙草を吸いながら、青島は思った。
夏場の所轄は忙しいし、室井も暇をしているわけがない。
室井に時間がある時には青島が夜勤だったり、青島に時間がある時は室井が特捜の真っ最
中だったりと、タイミングがちっ
電話だけはできるだけしているが、ここニ週間は声すらま
それを今思い出したくらいだから、青島が忙しかったことが良く分かる。
思い出すと、無性に声が聞きたくなった。
時計を見たら、時刻はもう夕方だ。
どうせ青島も室井も、定時で仕事は終わらない。
夜になったらかけてみるかと思いつつ、煙を深く吸って吐いた。
大人だから我慢はするが、寂しいと感じるときくらいは大人にだってある。
忘れている間は平気なくせに、思い出したら会いたくて仕方がない。
もう一度煙草を咥えて、ゆっくりと煙を吐き出す。
わっかを作って遊んでみるが、もちろん意味などないし、特に気が紛れるわけでもなかった。
「楽しそうだな」
不意に声をかけられて、青島はようやく喫煙所の出入り口に立つ男に気が付いた。
室井の姿を認めて、目を丸くする。
「室井さん」
「楽しいのか?」
怒られたわけでもなんでもないが、思わず弁解する。
「別に遊んでたわけじゃないっすよ」
室井は苦笑すると、青島の隣に腰を下ろした。
「分かってる。忙しいみたいだな、相変わらず」
それはお互い様だった。
ちっ
たまたまではあるがこうして会えるだけマシかもしれないと思うと、なんだか嬉しくなっ
てくる。
どこまでも単純な自分が可笑しい。
「久しぶりっすね」
「本当だな」
「元気でした?」
「ああ、大丈夫だ。君こそ」
「暑さには参ってますけど、元気っすよ〜…って、変な会話っすね」
恋人と交わす会話とは思えない会話に、青島は苦笑する。
こんな会話を交わさないといけない状況は悲しいが、ケンカしているわけでも倦怠期なわ
けでもなく、むしろ二人の仲は順調だと言えた。
ただ、滅多に会えないだけである。
仕事があるから、仕方が無いこと。
そう割り切るしかなかった。
「今も、忙しいのか?」
室井に聞かれて、青島は肩を竦める。
「今はそうでもないっすよ、夜勤なんで帰れないだけで」
「そっか…」
「なんか、ありました?」
「いや、実は、今時間あるなら、本庁まで送ってもらおうかと思ってた」
袴田から頼まれることはあっても、室井から直接頼まれることは滅多になかったので、青
島は少し驚いた。
その様子を見て、室井は肩を竦める。
「職権乱用だな」
「え?」
「そうすれば、君と少しだけ一緒にいられると思った」
青島にも、室井が珍しいことを言った理由が、ようやく分かった。
公私混同することは珍しかったが、室井の思い付きは青島にとっても悪いことではない。
それどころか、非常に嬉しい。
青島は嬉しさを隠しもしないで笑った。
「いいっすね、本庁までのドライブだ」
自分の思い付きに今更照れたのか、室井は苦笑して頷いた。
室井を助手席に乗せて、車を走らせる。
本庁までのドライブはあっという間だ。
室井を乗せている時に限り、本庁がもっと遠くにあれば良いと思う。
ご都合主義だが、愛しい人との逢瀬は少しでも長い方が嬉しいに決まっているから、青島
がそう願うのも無理は無かった。
「毎日暑いすね」
クーラーの効いた車内では微塵も感じないが、日暮れ時になった今も外は蒸し暑い。
「全くだ。毎日ビールばっかり飲んでるんじゃないだろうな?」
疑わしそうな視線に、青島は軽く唇を尖らせた。
「このくそ暑いのに、飲まずにやってられますか」
「…それは分かるが」
「飯もちゃんと食ってますよ」
それは本当だった。
暑い暑いと文句は零すが、夏バテというほどバテているわけではない。
むしろ、暑さで体力を消耗する分、食欲は増していた。
つくづく健康体なのだ。
「なら、いい」
体調を崩していないと理解すると、室井はそれ以上注意しようとはしなかった。
飲み過ぎは身体に良くないが、飲まずにいられるかという青島の気持ちも分かるのだろう。
「室井さんこそ、ちゃんと食ってます?」
信号待ちでちらりと視線を向けると、室井は真顔で頷いた。
「ああ、大丈夫だ」
「夕べは何食いました?」
「夕べ?」
「その前は?一週間分、言えます?」
室井は顔を顰めた。
思い出せないのか、ろくな食生活じゃなかったのか。
青島は苦笑すると、車を発進させた。
「ちょっとお疲れ気味なんですよ、室井さん」
この時期は仕方ないですよねと、笑う。
いつも元気いっぱいやる気充分では、中々いられない。
好不調くらい誰にでもあることだ。
青島の前でまで無理をする必要はないのだと、言葉にはしなかったが室井に伝われば良い
と思う。
「…早く涼しくなれば良いな」
小さな小さな、可愛い泣き言。
青島は笑いながら頷いた。
「全くです」
「君は夏が好きそうだが」
「それ、すみれさんにも言われた」
夏自体が嫌いなわけでは確かに無かったが、すみれに言った言葉を室井にもそのまま繰り
返す。
「休みも無い、海にもいけない、花火もできない夏は好きじゃないです」
室井は苦笑すると、納得したように頷いた。
「海か…もう何年も行ってないな」
「あ、室井さんも海行きました?」
「子供の頃の話しだ」
「へぇ、泳げた?」
「結構得意だった」
「へええ、じゃあ、一度見せてもらわないとなぁ」
言ってから、青島は眉を寄せる。
青島と室井と、二人で海水浴。
この際、その絵面の可笑しさは置いておいて、一体にいつになったら二人で海水浴になど
行けるのか。
―定年後?
青島の表情がますます曇る。
60を過ぎてから、果たして海で泳ごうなどという元気があるのだろうか。
「俺の泳ぐ姿なんか見ても、楽しくないだろ」
青島の心中をよんだわけでもないのだろうが、室井がそんなことを言うから、青島は思わ
ずムキになって否定した。
「そんなことないっすよ」
「女性の方が嬉しいんじゃないのか?」
「あ、それは別腹です」
「おい」
青島は笑いながら、ハンドルを切った。
「ははっ、冗談ですよ〜」
水着の女性は大変魅力的だ。
青島も男だから、そういう女性を眺めるのは大好きである。
―むしろ、別腹は室井さんかな。
青島は内心で思った。
キレイな女性は目に嬉しいが、室井が視界にいてくれる方がもっと嬉しい。
その『嬉しい』は、次元が全く違うのだ。
そんなことまで説明するのはさすがに気恥ずかしいので、青島は少しだけ話しを逸らした。
「二人で海水浴、室井さんは惹かれません?」
「君は似合いそうな気がするが」
「俺だけで行かす気ですか」
不服そうに言ったら、室井の返事に間があく。
「いや、それもいやだな」
ちらっと横目で見ると、室井は難しい顔をしていた。
青島一人で楽しむのが嫌だと言っているのか、それ
くのが嫌だと言っているのか。
自分に置き換えたら、後者だ。
何が何でもついて行きたくなるくらい、嫌かもしれない。
浮気の心配はしていないが、嫉妬くらいはするだろう。
そう思ったら「何が?」と尋ねることはできず、笑うしかなかった。
「俺だって海行くなら、室井さんと一緒が良いよ」
言ってから、ふと思い立つ。
室井と二人、海に行くことは不可能ではない。
さすがに海水浴は無理だけど。
湾岸というくらいで、湾岸署から海までは近いのだ。
「室井さん」
「ん?」
「30分だけ、俺に時間くれません?」
「・・・青島?」
訝しげ室井の声に、青島は前を向いたままニッと口角を上げた。
「ちょっとだけ、寄り道しましょう」
訳が分からないでいる室井から、取り立てて異論は出てこない。
それを了解と受け取ると、青島の運転する車は、本庁へと向かう道から逸れた。
日暮れ時とあって人影は少ないが、海岸沿いを歩くカップルの姿がいくつかあった。
青島はその海岸沿いに車を止める。
「ちょうど良い時間帯でしたね」
青島が指差した先では、太陽が沈みかかっていた。
暗くなり始めた空と、赤く染まった海。
ロケーションとしては悪くなかった。
ハンドルに身体を預けて振り返ると、室井は目を細めて海を眺めていた。
「降りて、少し歩かないか」
誘ったのは意外にも室井の方で、青島は笑って頷くと車を降りた。
外の空気はまだまだ暑いが、それでも日中の不快感は薄れている。
日が暮れたからか、それ
青島は単純だから、後者かもしれない。
二人で並んで、海岸沿いを歩く。
「久しぶりに見たな…こんな景色」
ポツリと呟く声を聞いて、青島も視線を海に向ける。
青島だって、随分久しぶりだった。
海はこんなに近いのに、見に来ようと思えばいつだって来られたのに、「忙しい」という理
由で足を運んだことはなかった。
今日だって室井が湾岸署に現れなければ、海を見に行こうだなんて思いもしなかっただろう。
室井がいたから、一緒に来たいと思えたのだ。
足を止めた室井に合わせて、青島も足を止める。
波もなく穏やかな海に日が沈んでいく様を、黙って眺める。
海の香に何か懐かしいモノを感じたが、特別思い出すような思い出が海にあるわけではない。
―もしかしたら、コレが思い出に残るのかな。
室井と海を眺めたこと。
また来るこ
それならばきっと、今のこの瞬間がこの先ずっと記憶に残っていくのだろう。
来年の今頃、既に懐かしく思い出しているかもしれない。
ひっそりと室井を盗み見ると、室井もこちらを見ていたようで、視線がぶつかった。
ちょっと驚いた青島に、室井は小さく笑った。
「ありがとう」
連れてきてくれてということなのだろうが、青島は照れ笑いを浮かべる。
「や、礼なんて言われることじゃないっすけどね」
青島が来たかっただけなのだ、室井と一緒に。
海水浴は無理でも、室井と一緒に、夏の間に、海を見たかった。
そんな思い付きで、室井を寄り道させただけなのだ。
「俺の気まぐれっすから」
「それでも、ありがとう」
室井の視線がまた海に向う。
その静かな横顔を少しだけ見つめて、青島も視線を海に戻す。
日が完全に沈むまで、二人は黙ってそこにいた。
翌年は、気まぐれで、室井に夜の海に誘われる。
思い出は、こうして少しずつ増えていく。
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END
(2008.5.14)
ss:Kazu