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室井は刑事課の入口に突っ立って思った。
補導された少女が年配の刑事にお説教をされている横で、婦警が迷子の少年をあやしながら住所
を聞き出そうとしている。
暑さを凌ぎに来たのではないかと思われる連中に困り顔で、それでも丁寧に相手をしているのは
和久で、その背後で魚住が被疑者らしき人物に取調室に引きずり込まれていた。
それをいささか不安そうな顔で見送りつつ、インカムで電話をしながら、参考書を読んでいるの
は真下で、器用なものだと室井は呆れ気味に感心した。
元々は空き地署と揶揄されるくらいだから、事件の少ない所轄のはずだった。
この辺りも開発が進んできていることは確かだが、それにしても騒々しい。
というか、落ち着きがない。
それがこの所轄のカラーだとしたら、あの男がここに配属されたというこ
脱サラ刑事の青島俊作は、この一風変わった所轄で、更に一風変わっていた。
警察官がどういうものか、所轄がどういう場所か、全く知らなかったせいもあるが、本人の性格
もあるだろう。
曲がったことが大嫌いというほど清廉潔白ではなく、目的のためにはしばしば手段を選ばない。
そのくせ、弱者を見るとほうってはおけず、自分の身体を張ってでも助けようとする。
青島の中には、一本筋の通った『正義』がある。
それは室井が持つ『正義』と交わりはしないのだろうか。
何の縁か、青島と一緒に仕事をする機会が度々あった。
その度に、彼の憤りを何度と無く聞いた。
そのうちに、青島が自分と同じところを目指しているのではないかと、室井は感じるようになっ
ていたのだ。
それはおかしな感覚だった。
本庁の中ですら敵だらけだというのに、所轄の、それもまだまだ新米の刑事に、自分と近い意志
を感じとるなんて。
不思議ではあったが、悪い気はしなかった。
―こんな男もいるのだ。
室井がそう思ったように、青島も感じているかもしれない。
それは少しだけ、心地の良い感情でもあった。
「そんなとこに突っ立ってると、邪魔なんですけど」
冷たい声はすみれだった。
振り返ると、疲れた顔で立っていた。
いつにも増して態度が冷たいのは、彼女の機嫌が悪いからだろう。
怖い顔をしている。
室井は眉間に皺を寄せつつも、道を塞いでいて邪魔なのはその通りだろうと思い、短く謝罪しす
みれに道を譲った。
室井をちらりと見て、すみれは少しだけ口角を上げる。
「どうも」
「いや・・・」
「何か用ですか?」
言いながら自分の席に向かい、室井を振り返ると肩を竦めた。
「貴方の相方なら、外出してますよ」
「彼は別に相方ではない」
「あら、誰とは言ってないけど?」
グッと眉間に深い溝を作ると、すみれが可笑しそうに笑った。
機嫌が少し良くなったのかもしれない。
室井にはなぜ彼女が機嫌が良くなったかは分からなかったが、その理由が室井をからかうのが楽
しかったからだったと知ったら、今度は室井の機嫌が悪くなったことだろう。
「まぁ、室井さんにとってはいい迷惑でしょうけど、うちの署ではそんなイメージなんです」
一体どんなイメージなんだと思うより先に、別に迷惑しているわけではないと思ってしまい、室
井はちょっと動揺した。
「冗談はさておき、課長なら署長のとこだと思いますよ」
そう言って、すみれはもう興味が失せたとばかりに、室井に背を向けた。
実際は忙しかっただけだろう。
どちらにせよ、これ以上いらないことで突かれるこ
再び仕事に向かうすみれに、室井は礼を言って刑事課を後にした。
署長たちの接待を丁重にお断りをして署長室を出ると、室井は短く溜息を吐いた。
悪い人間だとは思わないが、神田や秋山と話した後は酷く疲れる。
湾岸署に妙なカラーを持たせているのは、間違いなく上の連中の影響だろうと思った。
悪いことばかりではないとは思うが、良くないところももちろんある。
とりあえず、勤務時間中のゴルフの練習は止めるように釘を刺しておいた。
階段を下りてエントランスに向うと、刑事課と同様ここもやっぱり騒々しかった。
バタバタと人の出入りが激しい。
一斉検挙でもあったのか、外国人がぞろぞろと連行されて来ていた。
室井が邪魔にならないよう道を空けると、気付いた刑事たちが何人も敬礼して通り過ぎて行く。
刑事たちの「ほら、ちゃんと歩いて!」という声と、色んな国の言葉が飛び交い、通り過ぎた後
には、室井はまたなんとなく溜息を吐いた。
再び歩き出した室井の視界に、更に騒々しい存在が現れた。
外出から戻ったところらしく、肩で息をしながらエントランスに入ってくる。
騒々しいというのは室井の単なるイメージで、今の彼が一人で騒いでいるという意味ではない。
むしろ、少し疲れて見えた。
肩で軽く息をして、呼吸を整えている。
室井は青島に向って歩いて行く。
別に青島に用事があるわけではない。
外に出るには、彼がいるエントランスを通らなければならないだけだ。
―ただそれだけだ。
わざわざそう思うあたり、それだけではないのかもしれない。
自身がいくらか身構えていたことすらも、その時の室井は気付いていなかった。
―視線が合ったら、挨拶くらいしよう。
思った途端に、青島が振り返り、視線がぶつかる。
すぐに視線が合ったのは、室井が青島を見つめていたからだが、やっぱり室井は気付いていなか
った。
室井を見て、青島の目が少し見開かれた。
「あれ?室井さん?」
すぐに、こんにちは〜と笑いながら気安い挨拶を寄こす。
室井はいくらか頬を強張らせ、「こんにちは」と返事を返した。
馴れ馴れしい彼に、どう接していいのか分からない時がある。
青島のように笑いながら相手をすることはできない。
相手が青島だからではなく、性格の問題だ。
表情が乏しいことには慣れっこになったのか、青島は特に気にした様子も無い。
「今日もあっついっすねぇ」
そう言いながら、手の平で顔を扇いで見せた。
青島がそう零すのも無理はない。
青島の顔には汗が流れていて、頬もほんのり上気していた。
「外にいたのか?」
外から入ってきたところを見ているのだから聞くまでもない質問である。
だが、そんなことは知らない青島は、何の疑問も持たずに苦笑しながら頷いた。
「ええ、ちょっとお使い頼まれて、外出てたんですけど」
今日も暑いですよねーと繰り返す。
時間帯も昼過ぎで、丁度暑くなる時間帯だった。
「夏だからな」
何も考えずにそう答えたが、素っ気無い言葉だったかもしれない。
内心少しだけ不安に思ったが、青島はそれでも気にした様子は無かった。
「身も蓋もないなー」
そう言いながらも、可笑しそうに笑う。
笑いながら、手の甲で額を拭った。
やっぱり暑いらしく、輪郭をなぞるように汗が滴る。
それをどこかぼんやりと眺めながら、室井はポケットに手を入れハンカチに触れた。
触れてから、何故?と疑問に思う。
―青島に手渡すつもりか?
―子供じゃないんだから、お節介だろう。
―いや、ハンカチを貸すくらい、躊躇うこ
―人として、それくらい当然じゃないのか?
室井が瞬時に葛藤していることなど気付いてはいないのだろうが、青島が少し小首を傾げた。
「室井さん?」
声を掛けられ、室井は反射的にポケットから手を出した。
手にはハンカチが握られている。
ヤケになったわけではないが、その手をそのまま青島に突き出す。
「ん」
「え?」
「汗、酷い」
片言で外人じゃあるまいしと思ったが、元々器用に話すタイプではない。
虚を突かれたのか、青島は目を丸くしつつ「ああ・・・」と呟き、室井が差し出したハンカチと室井
を交互に見比べた。
「ええと・・・あ、有り難う御座います・・・」
少し躊躇ってから、手を伸ばしてくる。
指先が触れた瞬間にどういうわけか手を引きそうになったが、変に力が入っていたせいか、なんと
か微動だにせずにすんだ。
それが自然だったのか不自然だったのか、室井には良く分からなかった。
青島がハンカチを受け取り、手が離れていく。
「有り難う御座います」
もう一度礼を言って、額から頬をかけて、そっと拭う。
その姿をぼうっと眺めていると、青島と視線が合う。
それで自分がぼうっとしていたことに気付くと、室井は眉間に皺を寄せた。
青島に用事があるわけではないし、青島が室井に用事があるわけではない。
これ以上交わす世間話も特になかった。
ここにはもう用事は無いのだということを、室井はようやく思い出した。
「・・・では、私はこれで」
青島の脇を通り過ぎていく。
「あ、室井さんっ」
呼び止められて振り返ると、青島はハンカチを振って笑っていた。
「洗って、返しますね」
―気にしなくても良い。
そう言おうとして、言葉にならず。
―返してくれなくても構わない。
そう言うのも、おかしいだろうと思った。
結局一つ頷くだけで返事を返すと、嬉しそうな笑顔が返ってくる。
何故だろうと思う隙も無かった。
「今度、連絡します」
青島がそう言ったから。
―今度、青島から連絡が来るんだな。
素直に、ただそう思っただけだった。
室井はもう一つ頷いて、その場を離れた。
それから室井は、青島からの連絡を酷く待ちわびることになる。
青島が室井に連絡を取るのは、一ヵ月後。
その一ヶ月の間彼が連絡を躊躇っていた理由を、室井が聞かされるのは更に先のことだった。
END
(2006.12.10)
illustration:Licca
Kimura ss:Kazu