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座布団に腰を下ろし、お茶を啜って一服していた室井は、名を連呼されて青島を見た。
「これ、着ません?」
上機嫌な青島に差し出されたのは浴衣だった。
いかにも温泉旅館という薄い白地の浴衣ではなく、渋い青緑色のちゃんとした浴衣だ。
室井が差し出された浴衣を受け取ると、室井の返事も待たずに青島はさっさと着替え始める。
青島は雰囲気に弱いところがあった。
弱いというか、どうせやるならとことんというか。
温泉に来たのだから、とことん温泉を満喫しようという心積もりなのかもしれない。
苦笑しながら室井も立ち上がって、着替えようとシャツに手をかけたが動きが止まる。
さっさと服を脱いだ青島が、白っぽい淡い色合いの浴衣を羽織っているのを眺めた。
―青島は何を着ても良く似合う。
なんてバカなことを思わなくもないが、それ以前の問題に室井は眉を寄せた。
「待て、青島」
声をかけると、青島は素直に手を止め、室井を見る。
「はい?」
「もっと、ちゃんと着ろ」
胸元が緩い、帯紐が緩い、全体的にだらしない。
指摘すると、青島は自分の身体を眺め、また室井を見た。
苦笑している。
「そんな酷いっすかね?」
青島の大らかな性格は、こんな時にも出るらしい。
こういう時に出るのは、大雑把な性格と言うのかもしれないが。
室井もつられて苦笑すると、とりあえず浴衣をテーブルの上に置き、青島の背後に回った。
後ろから手を回して、青島の帯紐を解く。
「すいません」
着付けし直してやろうという意図が伝わったらしく、青島が大人しく身を任せてくる。
「浴衣の着方くらい、覚えておいた方が良いぞ」
「あー、でもあんまり着る機会ないし」
「そういう問題じゃないだろ」
「室井さんいるし、大丈夫大丈夫」
俺がいない時はどうする気だと思わなくはなかったが、そんな小さな甘えは嬉しくもあった。
前に回した手で襟首を正していると、襖の向こうから入室を求める声がする。
青島が首だけで振り返って、返事をした。
「どうぞ〜」
中居が入って来て、室井に着付けを任せている青島を見ると笑みを零した。
青島も照れたような愛想笑いを浮かべる。
「着慣れないもんで〜」
「こら、動くな」
「あ、すいません」
中居が笑みを深くした。
「仲が宜しいんですね」
肩越しに振り返った青島と視線がぶつかった。
思わず眉を寄せた室井に、屈託なく笑う。
「ええ、も〜、仲良しなんですよ〜」
室井が怖い顔をしているせいか、それを青島の冗談と受け取ったらしく、中居は笑みを崩さない。
夕食の時間を確認し、館内の案内を簡単に済ますと、中居は退出した。
去り際に、「旅館の裏手の川辺で、今時期なら蛍が見られますよ」と、一言残してくれた。
「蛍ですって、室井さん」
少し弾んだ声に、青島が蛍に興味惹かれていることが、簡単に分かる。
ぎゅっと帯紐を結んで室井が身体を離すと、青島はくるりと身体ごと振り返った。
「どう?似合います?」
調子に乗ってポーズを取って見せる青島に、室井は苦笑した。
「似合う似合う」
「心が篭ってない」
「本当に良く似合ってる、可愛い」
「・・・カッコイイと言ってください」
心を篭めると、それはそれで恥ずかしいらしい。
室井は肩を竦めて服を脱ぎ始めた。
「蛍、見に行ってみません?」
青島が取ってくれた浴衣に袖を通しながら、少し顎を持ち上げて考える仕草をする。
「いいな・・・蛍か」
子供の頃には、室井も見た記憶があった。
今となっては、その名前を聞くのも珍しい。
「俺、蛍見たことないんですよね〜」
「そうなのか?」
「実家も東京でしょ?田舎に行くこ
帯紐を縛ると、室井は青島を少し見上げた。
「いい時期に来れたんだな」
青島は嬉しそうに笑って頷いた。
この旅行を計画した時は、季節外れかもしれないと二人
季節は初夏。
夏休みというにも、あまりに早い休暇だった。
世間が夏休みのシーズンは、警察、特に所轄は繁盛しているので、揃いの休暇を取るのは難しい。
それでも今年は旅行に行こうと決めていたので、日程調整をして一泊二日の旅行に踏み切った。
シーズンオフなど、気にしていられない。
二人でのんびり羽を伸ばせれば、それでよかった。
だから、暑くなり始めている東京を離れ、田舎の温泉旅館を選んだ。
それが功を奏したのか、蛍のオプション付きだったようだ。
***
二人は暗くなるのを待って、旅館を出た。
旅館から川辺に向かって、二人並んで歩ける程度の小道がついている。
少ないが街頭も立っているので、二人は気軽に川辺に向かった。
「静かっすねぇ」
青島が空中に吐き出すようにぽつりと呟き、その声が少しだけ響く。
山の中だし、シーズンオフの平日というこ
外に出て来ていたのは、二人だけだった。
「寂しいか?」
団扇でパタパタと扇ぎながら青島を横目で見ると、視線がぶつかる。
どういう意味かと問われている気がして、付け足した。
「いつも湾岸署にいたら、騒がしいだろ?」
「ああ・・・そういうことか」
青島が苦笑する。
「まーあの雰囲気は好きなんですけどね」
ニッと笑って、口角を上げた。
「室井さんといて、寂しいわけないでしょ」
青島はいつもさらりとこういう言葉をくれる。
室井を喜ばすような一言を、ポンとくれるのだ。
その度、喜びと一緒になん
「ありがとう」
思わず礼を言ったら、青島は屈託なく笑った。
「なんで室井さんが、お礼言うの」
「なんとなくだ」
「なんとなく、ね」
可笑しそうに目を細めた青島から視線をそらすと、室井は「あ」と声を漏らし足を止めた。
「え?」
つられたように青島も足を止め、振り返る。
「室井さん?」
どうかしたのかと尋ねてくる青島に、室井は顎で前方を指した。
「ん」
「ん?」
「蛍」
「え!」
青島が慌てて振り返る。
暗がりの中、少し先に川が流れているのがなんとか見える。
そこにぼんやりと、だけどちゃんと輝きながら漂ういくつかの光りが見えた。
蛍に間違いない。
「わー・・・」
青島の感嘆の声は、語尾が消えていた。
感動しているらしい。
確かに幻想的な光景ではあった。
今の東京では蛍は生息できないし、例えできたとしても、光が目立つことはないから気付かない
かもしれない。
子供の頃に見た風景を思い出し、室井もしばし見入っていた。
やや暫くして、青島がぼそりと呟いた。
「あれが蛍?」
「ああ、多分な」
「本当に光ってるんですね」
子供みたいな感想に、室井はひっそりと笑いを噛み殺す。
「そうだな、光ってるな」
室井が相槌を打つと、青島がくるりと振り返った。
「近付いたら、逃げちゃいますかね?」
目が輝いている。
どうやら蛍と戯れたいらしい。
室井はたまらず笑みを零した。
「大丈夫じゃないか?掴もうと思えば掴めるはずだから」
「よし!」
いいことを聞いたとばかりに、青島は川辺に向かっていく。
何をする気が悟って、室井はその背に声をかけた。
「気を付けろよ。川が深いと危ないぞ」
案の定、旅館で借りた草履を脱ぐと、青島は川の中に入っていった。
室井も近くまで寄ってみる。
「大丈夫、大丈夫、浅いですよ」
言いながら、浴衣の裾を持ち上げた。
水で濡れるのを気にしてなのだろうが、膝辺りまでむき出しになった生足にぎょっとした。
意図せず声が出る。
「あ、青島」
「はい?」
振り返った青島と視線が合うが、室井の開いた口からは言葉が出てこない。
足を出さなければ浴衣が濡れてしまうし、足を出したところで見ているのは室井一人だ。
だらしが無い
「室井さん?」
不思議そうな顔をしている青島に、室井は何とか開いた口を閉じなければと思った。
「・・・蛍が」
「はい?」
「君の背中に、止まってた」
「えっ?」
弾かれたように首を伸ばして背中を見ようとする青島に、慌てて付け足す。
「もう、飛んでしまったんだ」
「なーんだ」
背中から視線を持ち上げて、青島は肩を竦めた。
室井の咄嗟の思い付きを、特に不自然とは思わなかったようだ。
本当のことを言えば、青島に笑われるに決まっている。
それだけは避けられて密かにホッとする室井に、青島が誘ってくれる。
「室井さんも来ません?」
嬉しそうな顔の青島には惹かれるが、室井は苦笑して首をふった。
「俺は良い」
川辺にベンチが一つ置いてあり、室井はそこに腰を下ろし団扇を扇いだ。
「ここから見てる」
「そうっすか?まぁ、離れて見た方がキレイかもしれませんしね」
そう言って、青島は室井から蛍に注意を戻した。
蛍は虫だから、確かに離れて光を楽しむモノかもしれない。
だが、室井が「見ている」と言ったのは、蛍も含めた青島自身だった。
青島は裾を捲り、少しだけ腰を屈めて、興味津々というふうに蛍を眺めている。
虫である蛍が光っていることが、不思議で堪らないのかもしれない。
微笑ましく見えて、室井は目を細めた。
いつの間にか手が止まっていたらしく、ふと気が付くと団扇が光っていた。
柄の上の方に、蛍が一匹止まっているのだ。
キレイだ。
キレイだが、暑い。
「・・・・・・」
これは扇いでも良いものかと悩んでいると、青島の笑い声がする。
青島を見ると、青島もこっちを見ていた。
「好かれちゃいましたね」
団扇の蛍を指して言っているらしい。
「・・・暑いんだけどな」
そう言いながら手を動かさない室井に、青島は感心したように言った。
「律儀ですねぇ、本当に」
室井の眉間に皺が寄る。
バカにされているわけではないのだろうが、何となく面白くない。
それが伝わっているのかいないのか、青島は朗らかに続けた。
「そういうとこ、好きですよー」
その一言で眉間の皺が消えるあたり、室井も大概単純だ。
それにははっきりと気付いたのか、青島は笑みを零した。
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「室井さん、肩かしてください」
川から上がった青島に催促されて、隣に立つ。
片手で室井につかまりながら、旅館から持ってきていたタオルで足を拭き草履を履くと、青島は
漸く裾を下ろした。
少し乱れた浴衣は、室井が簡単に直してやった。
「ありがとうございます」
「気持ちよかったか?」
「ええ。室井さんも入れば良かったのに」
大人二人で川遊び。
青島と二人なら悪くないと思えるから不思議だ。
次にこんな機会があれば、室井も一緒になってやっているかもしれないと思った。
そして、きっとこんな機会は、まだまだある。
滅多にはなくても、青島との付き合いが長くなればなるほど、その機会は確実に訪れるはずだ。
それならきっと、まだまだいっぱいある。
ふと、二人の目の前を、一匹の蛍が横切る。
手を伸ばすかな?と思ったが、青島はそれをそのまま視線で追っただけだった。
空に上っていく蛍を見上げる青島の横顔が、室井にはキレイに見えた。
「捕まえてみないのか?」
「うーん・・・なんか勿体ない気がして・・・」
そう言いながら、青島は蛍に手を伸ばした。
一度はすりぬけて、二度目には手の平で柔らかく捕らえた。
その瞬間に室井を見て笑うから、可愛い。
「手の隙間から光が漏れてる・・・」
ほんの短い間そうしていて、青島はゆっくりと手の平を開いた。
蛍がふわふわと飛んで行く。
それを青島と一緒に、室井も目で追った。
蛍の向こうには、満点の星空。
もしかしたら今、凄い景色を見ているのかもしれないと、室井は思った。
同じタイミングで、青島も似たようなことを思ったようだ。
「・・・俺たちって、やっぱり運が良いのかも」
ぼんやりとした青島の声に、室井は無言で頷いた。
蛍と星が重なってどっちがどっちだか分からなくなり、吸い込まれそうな夜空に圧倒されて、一
瞬周囲が見えなくなる。
空の真下に自分がいるだけ。
それ以外のモノが何もないような感覚に襲われる。
それでも何故か、いつの間にか、隣の青島の手をしっかりと握っていた。
青島が握り返してくれていたのも、無意識だったのかもしれない。
暫く経ってから、青島が笑って言った。
「夢のような世界って、きっとこんなでしょうね」
夢でも現実でも、隣にいるのは青島だ。
それだけは、きっと変わらない。
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END
(2006.9.6)
illustration:Licca Kimura ss:Kazu