■ 犬も食わない(後編)
朝から30度を超えるような日は、いくら事件が起こるとワクワクするという困った習性を持つ青島でも、今日くらいは何も起こらなきゃいいなぁと思ってしまう。
当たり前だが、通報があれば、それが例え日の光を遮るものがなにもない空き地だろう原っぱだろうと砂漠だろうと―湾岸署管轄内にそんなものはないが、炎天下の中駆け付けなければならない。
誰だって暑い時は外にいたくないものだ。
だからといって、犯罪者が犯罪を犯すのに天候など気にしてくれるわけがない。
事件が起これば、やっぱり青島たちは炎天下の中、歩き回らなければならなかった。
「あちぃなぁ」
青島の横で、和久がぼやいた。
じりじりと肌を焼くような強い日差しを避けるようにビルの陰に隠れているが、実際は日差しから隠れているのではなく張り込みの最中なだけである。
バイト先の店長に暴行を働き、売上金の一部を奪い逃走中の大学生の目撃情報があり、和久と二人で張り込んでいたところだった。
「大人しく捕まってくれりゃあ、いいんだがなぁ」
「それくらいなら、最初から逃げないでしょ」
「こう暑いと逃げ回るのも大変だろうに」
「若いから体力有り余ってんじゃないすか?和久さんと違って」
「おめぇとだって、随分違うだろう」
和久に睨まれて、青島は肩を竦めた。
「ま、そうっすけどね」
大学生の頃なんて、もう随分昔のことのような気がする。
10年以上も前のことだから、それも当然かもしれない。
大学を卒業して13年、警察官になってからでも9年以上経っている。
―室井さんと初めて会ったのですら、6年前か…。
「どうかしたか?青島」
急に押し黙った青島に、和久が不思議そうな顔をした。
慌てて首を振る。
「や、なんでもないっすよ」
「なんだよ、なんか気になることでもあんのか?」
「いや、暑くてぼーっとしただけです」
ハンカチで額を押さえると、和久は呆れた顔をした。
「おいおい、しっかりしてくれよ〜」
逮捕する瞬間が一番危険なんだからなと、もう何度も聞いたお説教が返ってくる。
もう耳にたこだが、反論はないし、反抗する気もない。
和久の後悔からくる優しさだと知っているから、素直に聞くだけだ。
「分かってますよ、気を抜いたりはしてませんから」
青島が素直に言うと、和久はもちろんだと頷いてみせた。
気にかかることはあった、事件のことでは全くないけれど。
室井からなんの連絡もない。
夕べはもちろん、今朝になっても着信の一つもない。
薄情者とメールでも送ってやろうかと思ったが、どうしても躊躇われてメールができなかった。
平素なら、たった一晩連絡が来ないくらいで、気にすることなどない。
忙しいんだろうと思うだけだし、頑張れと思うだけだ。
ただ、今はそういうわけにはいかない。
ケンカの最中なのである。
室井はまだ怒りが覚めておらず、電話に出てくれなかったのではないか。
青島の声を聞きたくないから、電話をかけてくれないのではないか。
―まさかそんなはずない。
そこまで深刻なケンカではなかったはずだと、自分の思考を否定する。
最悪の選択、別れを選ばなければならないような、重要なケンカではなかったはずだ。
そうは思うのに、油断をすると思考が暗い方に向かう。
少しずつ、青島は不安に囚われていっていた。
「あ、青島、あいつそうじゃねぇか?」
和久が青島の肩を叩いた衝撃で青島は一気に現実に戻った。
濁っていた眼差しに力が戻る。
鋭い目付きで和久が指差す方へ視線を巡らす。
目深に帽子を被りサングラスをしている男が、張っていたビルから出てきた。
「……あれだっ」
言うのと同時に、青島は駆け出していた。
遅れて和久もついてくるが、もちろん青島には追い付かない。
背後で和久が叫んだ。
「青島…っ」
振り返らずに青島も叫んだ。
「分かってますって!」
この瞬間に、気を抜いてはいけないのだ。
命の危険をはらんだ瞬間。
そして、室井とのケンカの原因を作る瞬間でもある。
「十分…気を付けますよっ」
青島だってごめんである。
死ぬ目にあうことも。
これ以上室井とケンカをすることも。
そう思いながら青島は犯人に向かって一直線に駆け出した。
***
湾岸署を出た青島は、外気の重たさに顔を顰めて足を止めた。
日が暮れても、まだ蒸し暑い。
エアコンの効いた場所から出てくると、不快な空気を感じる。
それが、ただでさえ沈みがちな青島の気持ちを更に沈ませる。
溜息を一つついて、再び歩き出す。
室井の自宅に向かって―。
このまま待っていても、電話をしても、不安が募るだけだと悟ったから、直接会いに行くことにしたのだ。
室井に仲直りする気がないとは思いたくない。
正直に言えば、青島はまだケンカをひきずっている。
青島にも甘えがあったかもしれないが、頑固で分からずやな室井にだって非はあるのだ。
少なくとも青島はそう思い続けている。
だから、互いに謝れば済むのではないかと思っているのだが、室井に仲直りをする気がないのなら、それ以前の問題である。
―仲直りしないと、ケンカもできないじゃないか。
矛盾したことを考えながら、青島は室井に会いに行くことを決めた。
主のいない部屋で室井を待つのが、こんなに苦痛だった時は無い。
青島は何故かソファーの上で体育座りをし膝を抱えながら、煙草を吸っていた。
室井が青島のためだけに用意してくれた灰皿に灰を落とした。
ぼんやりと時計を見ると、日付が変わっている。
室井が帰って来ない。
「特捜…忙しいのかな…」
煙と一緒に吐き出した言葉は、頼りなく響いた。
青島が室井の部屋で待っていることなど室井は知らないだろうから、室井が帰らない理由は忙しいからに他ならないだろう。
そうだとは思うが、妙な不安にかられる。
―もしかして、避けられてるんじゃ…。
青島が部屋で待っていることを知らないのだから、室井には避けようもない。
―まさか、部屋の電気がついてるから入って来ないんじゃ…。
自宅前までやってきた室井が、青島が来ていることに気付いて踵を返す姿を想像してしまった。
電気を消して待っていたら良かっただろうかと思い、あまりにも暗い自分の思考回路に、青島は溜息をついた。
こんな自分に腹が立つが、自分で思うよりずっと室井とのケンカに不安を感じているようだった。
不安になるからには、やはり非は青島にあったのだろうか。
―室井さんも悪いはず。
その気持ちは相変わらずあるのに、室井の怒りが自分よりも上回っていたらどうしようとも思う。
それがまた、腹立たしい。
―なんで俺ばっかりこんな思いしないといけないんだ。
今度は段々とイライラしてくる。
室井も悪いはずなのに、何故自分ばかり不安にならなければならないのかと、悔しくなってくる。
今の室井の気持ちなど知りもしないのに、青島は勝手に決めつけてイライラした。
もちろん仲直りはしたいが、自分ばかりがそう思っているとしたらそれはそれで悔しい。
意味の無い、子供っぽい意地だった。
「…帰ろ」
灰皿に煙草を押し付けて揉み消すと、立ち上がった。
帰ろうと思い、部屋を出ようと玄関に行きかけて、立ち止まる。
視線を落とし俯いて、不機嫌そうに眉を寄せたが、天井を見上げると深い息を吐いて力を抜いた。
下がった眉尻のせいで不機嫌そうな顔が一気に頼りなくなってしまったが、青島本人には生憎と見えない。
「煙草吸ってから帰ろ…」
誰に言い訳する必要もないのに呟いて、青島は再びソファーに戻った。
それから、結局手持ちの煙草を吸いきるまで吸ってから、室井の部屋を出た。
―何か事情があるのかもしれない。
室井がなんの連絡もくれない理由をそんなふうに考えながら、青島は新木場に帰ってきた。
駅を出て、自宅に向かって歩きながら、なおも考える。
避けられているわけではないし、ましてや室井に仲直りする気がないわけがない。
そうに決まっている。
青島は持ち前のポジティブ思考というよりは、無理矢理そう思い込むように努力した。
―絶対そうだ。そうじゃなかったとしたら…。
ズキリと痛む胸を押さえながら、首を振る。
些細なケンカだ。
こんなことくらいで―と言えば室井にまた怒られるかもしれないが、こじれるような仲ではない。
ないはず。
ないに決まってる。
青島は自身にそう何度も言い聞かせて、むりやり笑った。
「大丈夫、大丈夫、室井さんだもん」
理由もなにもあったものではないが、大丈夫だと言い聞かせる。
室井は青島を大好きだ。
それを知っているからこそ、大丈夫だと言い聞かせることができる。
やっぱり室井の気持ちに甘えているのだ。
それを考えると、青島の気持ちがまた急降下してしまう。
だから、考えるのを止めた。
考えるのを止めて、足だけ動かす。
とりあえず、家に帰って早く寝なければ、明日の仕事に差し支える。
ゆっくり休んで、一生懸命働いたら、明日また電話をしてみよう。
そう決めて、青島は自宅に帰った。
自宅前まで来ると、鞄の中を探って鍵を取り出し、玄関に入る。
重い足を動かして適当に靴を脱ぐと、部屋に入り電気をつけた。
そして、目を剥く。
「遅かったな」
室井がいた。
床にあぐらをかいて座り、青島を見上げている。
「な、な、なん、どうして…」
驚きのあまり言葉につまるが、なんのことはない。
つい今しがた青島がしてきたことと同じように、室井も青島の部屋で青島の帰りを待っていたのだ。
呆けている青島に、室井は気まずそうに繰り返した。
「…遅かったな」
ええそりゃあアンタの部屋で煙草吸ってましたからとは言わずに、つかつかと歩み寄って、室井の前に膝をつき、ぐいっと詰め寄る。
仲直りがしたいとか、ケンカの続きをしたいとか、話すべきことは色々とあったはずだが真っ先にでた言葉はどちらの内容でもなかった。
「何で電話くんないんですかっ」
青島の勢いに驚いて反応が少し遅れたが、すぐに室井の眉が寄る。
「それはお互い様だろ」
「俺はしましたよ!」
「嘘つけ…いつ?」
「夕べ、八時頃ですよっ」
「夕べ?」
室井が携帯電話を取り出し確認して、首を傾げる。
「履歴にもないが」
「ええ?そんなわけ…」
青島も携帯電話を取り出し、履歴を呼び出す。
青島の発信履歴には、ちゃんと室井の名前がある。
だが、よくよく見ると、青島が掛けたのは携帯電話の番号ではなかった。
それに気付いて青島は目を丸くし、強張った顔で室井を見た。
「室井さん、夕べ自宅の留守電聞いた?」
「夕べは徹夜で家に帰ってないが……自宅に電話したのか?」
「そうみたい…」
「……」
「……」
無言で見つめあい、青島は一気に脱力した。
「なんだよ、もぉ〜」
床に手をつき項垂れるが、口から漏れたのは安堵の溜息だった。
無視されているのではないか、避けられているのではないかという青島の不安は、ものの見事に杞憂で終わった。
自宅の電話にメッセージを残したところで、室井が自宅に帰らなかったのでは聞いているはずもない。
ホッとしたのは事実だが、間抜けな自分に呆れてしまう。
どう考えてみても、夕べからの青島は一人相撲をしていただけだった。
「電話したのになんのリアクションもないし、室井さんちで待ってても帰ってこないし、俺てっきり…」
ぶつぶつと無意識に本音を溢すと、室井の笑みを含んだ声が返ってきた。
「…不安だったのか?」
からかわれているのかと思い、青島はむっと眉間を寄せた。
おかげで青島は今日一日不安に駆られていたというのに、室井が余裕たっぷりだったなんて許せない。
冗談じゃないと言ってやろうと思い勢い良く顔をあげたが、青島の口からそんな言葉は出て来なかった。
室井が柔らかい表情で青島を見ていたから。
表情のレパートリーが少ないくせに、こういう時にそんな顔をするのはずるいと思った。
そんな優しい顔をされたら、文句の一つも言い辛い。
精々虚勢をはるくらいである。
「全然、不安なんかじゃなかったですよ」
「そうか。俺は不安だった」
青島が疑わしげにじっと見つめると、室井は真顔で続けた。
「電話かけても出てもらえないんじゃないかと思った」
「…だから、ここに直接来たんですか?」
「合鍵があるから、部屋に上がってしまえば無視もできないだろ?」
青島も室井とちゃんと顔を合わせて話しがしたくて、室井の部屋に合鍵を使って入り室井の帰りをずっと待っていた。
室井も同じことをしていたということは、青島と同じように不安だったのだ。
青島ばかりが悶々と悩んでいたわけではない。
それを実感すると、青島は急激に色んなことがどうでも良くなってきた。
つまらない意地や怒りも、嘘のようにひいていく。
室井の手が頬に伸びてくるから、余計に心が穏やかになっていった。
「君も、俺の部屋に行ってたのか?」
先ほどの青島の呟きを聞いていたのだろう。
青島は苦笑して頷いた。
「ええ……室井さんの部屋、多分、かなり煙草臭いですよ?」
手を付けたばかりのアメスピの箱を空にしてきたのだから、室井の部屋は煙草の煙で充満しているはずだった。
「それは構わないが、すれ違いにならなくて良かった」
青島は笑みを浮かべて、室井の手の平に頬をすり寄せた。
「もう、怒ってないか?」
「怒ってますよ?」
言いながらも、表情は穏やかなままだ。
室井の手を取って、唇を押し付ける。
「でも、許してあげます」
偉そうに言って笑みを浮かべると、室井も苦笑した。
「俺もまだ怒ってるんだが」
「なら、許してくれてもいいですよ」
青島の偉そうな物言いが気に障ったわけではないのだろうが、室井の表情が少し曇る。
そして、そっと静かに、まだいくらか腫れている目元に触れる。
「君が気をつけてくれるならな」
青島が怪我をすることはやはり許せないらしい。
先日の室井の怒りは、青島を心配しているから、大事に思っているからに他ならない。
そう思える程度には、冷静になっていた。
青島はやんわりと微笑むと、室井の肩に手を置いた。
「今日ね、また被疑者捕まえたんです」
ちゃんと無傷でしたよと言って、頬にキスをする。
「捕まえる前に室井さんのこと思い出したから」
だから無事だったのだと伝える。
逮捕の瞬間、青島が忘れてはいけないのは、和久の教えと、室井の愛だ。
冗談めかしてそれも伝えると目を瞠った室井だったが、小さく笑みをこぼすと青島の頬にキスを返してくれた。
「なら、四六時中、俺のことを考えててくれ」
青島は笑いながら室井の首にしがみついた。
ごろごろと室井に懐いたまま、青島はふと思い出した。
「ところで、なんで電気消して待ってたんすか?」
至近距離で気まずそうに視線を泳がせた室井に、青島はピンとくる。
自分も一度は考えたバカな理由。
「……なんで笑ってるんだ」
声もなく笑っている青島に、室井は不機嫌そうに呟いた。
「いやぁ…似たもの同士だなぁと思って」
「なに?」
何でもないと言って、青島は室井の唇を塞いだ。
青島と室井。
性格は似ても似つかないが、想い合う気持ちは少し似ているのかもしれない。
そんなことが嬉しかったことは、室井には秘密である。
END
2007.8.27
あとがき
もうちょっとオロオロぐるぐるしちゃう青島君の方が良かったかしら〜;
二人のケンカを長引かそうと思って頑張ったのですが、
結局翌日仲直りしてます…(笑)
青島君の気持ち自体は、大分右往左往していたと思うのですが!
怒ってる最中の頭の中って、結構複雑ですよね。
自分に非があったかもって反省したり、
人のせいにしてみたり、八つ当たりしてみたり、
相手も怒ってるかしらと不安になったり…。
自分だけ悩んでると思ったら、それはそれで腹立たしかったり。
深刻なケンカではなかったので、
結局室井さんからの電話がなかったことが一番不安だった青島君…
甘ったれてます(笑)
でも、青島君ですから!
むしろ、室井さんとっとと電話しろよ!みたいな感じでお願いしますっ(何が?)
室井さん。
四六時中室井さんのことを考えて生活してる方が、
怪我しそうな気がしますよー(笑)
K様、おろおろする青島君といってもこの程度になってしまいました(><)
ごめんなさいっ。
せめて、お暇つぶしにでもなれば幸いです〜;
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