■ 痛みの在り処
帰宅した室井は、ドアの前でしばし立ち尽くした。
部屋に明かりが着いている。
付けっぱなしで出掛けたわけではない。
室井以外の誰かが付けたのだ。
そして、それが可能な人間は一人しかいない。
「……」
室井は難しい表情で、ドアを睨んだ。
中にいるのは、ずっと会いたかった人。
すぐにでもドアを開けて、抱きしめたい。
だが、室井自身の行いが、そうさせることを躊躇わせた。
今回の事件は、室井は嵌められたに過ぎない。
信念を貫き通したがために、窮地に追い込まれた。
過去を引きずり出され、関係のない傷まで暴かれた。
それでも、信念を貫き通そうとしたことに、後悔はない。
ただ、頑張り続けられなかった。
色んな痛みを堪えきれなかった。
それは室井にとって、負い目になった。
青島に対しての、負い目だ。
―逃げ出したい。
ドアの前に立ったまま、一瞬だけ頭に過ぎった。
だが、これ以上青島に背を向けたくはないし、何より青島に会いたかった。
青島に最後に会ったのは、クリスマスよりも前だった。
室井はもうじき広島に行く。
その前に、どうしても会いたかった。
怖くて逃げ出したいくせに、愛しくて会いたくて堪らないのだ。
室井には、そんな人間は青島しかいない。
意を決して、ドアを開けた。
靴を見て、緊張する。
リビングに入って、その姿を見て、室井は安堵した。
ソファーに踏ん反り返って座り、恐い顔で室井を睨んでいる青島を見て、心の底から安堵した。
青島は、今もなお、室井を諦めていない。
彼の怒りが、そう教えてくれる。
立ち上がり近付いてくる青島に、不思議ともう緊張はしなかった。
―殴られる。
そう思った瞬間に、頬で鈍い音がした。
青島に殴られたことなどないから分からないが、力いっぱいだったのではないだろうかと思った。
転びはしなかったものの、よろめいた。
頬が熱くなり、徐々に痛みが増してくる。
静かに見つめると、青島は見慣れた膨れっ面をしていた。
「俺を裏切った」
ズキリと胸に刺さる。
一度は辞表を出したのだ。
青島にそう言われても当然だった。
信念を貫き通せないばかりか、自分の成すべきことが分からなくなった。
自分がなんのために頑張っているのか、分からなくなった。
青島が傍にいたらと、何度となく思った。
見られたくない自分もいたが、それでも心に芯をくれるのは青島だけだったのに。
それなのに、約束を違える選択をしてしまった。
結果として警察には残れたが、室井がした選択が消えてなくなるわけではない。
青島が怒るのも当然だった。
室井は深々と頭を下げた。
「すまなかった」
少しの間の後、後頭部に軽い衝撃。
今度は力いっぱいではなくて、軽く叩かれただけのようだった。
「ばかだ、室井さん。本当にばかだ」
「すまない」
「俺に謝んないでよ」
それは謝罪を受け入れてはもらえないという意味だろうか。
室井は不安になり顔を上げたが、見下ろす青島はもう膨れっ面もしていなかった。
ただ悲しそうな顔で、室井を見ていた。
「俺にまで、謝んないでよ」
室井がどんな状況にいたのか、青島はほとんど知っているのかもしれない。
悲しそうな顔をしているのは、室井がこの事件で受けた傷をきっと知っているからだ。
―青島には、誤魔化すようなマネはできない。
室井は深く息を吸い、真っすぐに青島を見る。
「君を、裏切った」
青島が唇を噛む。
「言い訳くらい、してくださいよ」
「思いつかない」
開き直ったわけではなくて心からそう言ったら、青島は眉間に皺を寄せて声を荒げた。
「アンタは、そんなんだから…っ」
「そうだな。こんなんだから、嵌められるんだろうな」
「っ」
何故か青島の方が悔しそうに見えた。
歯ぎしりしそうなほど力を入れて、乱暴に頭を掻きむしる。
「俺は、そこがアンタの良いところだって、ちゃんと知ってる」
融通が利かなくて信念を曲げられないせいで、今度みたいな事件に巻き込まれた。
それでもなお、青島は室井を理解してくれている。
室井は少しだけ、表情を緩めた。
「約束は?」
短く問われる。
一度は確かに投げ出しかけたそれだったが、今は前と同じように、当たり前のように室井の胸の真ん中にある。
投げ出せたことが、むしろ今は信じられない。
青島に殴られて、余計にそう感じた。
室井の心を支えるのは、やっぱりいつだって青島だ。
今も新城が繋いでくれた道へと、青島が動かしてくれるのを感じる。
だからこそ、室井にはやらなければならないことがある。
絶対に形にしなければならないことがある。
室井が力強く頷くと、青島は室井をじっと見つめた。
値踏みするような、計るような瞳ではなかった。
ただ強くて深い眼差し。
青島は今も室井を信じてくれている。
それが伝わってくる気がして、知らぬうちに口元に笑みが浮かんだ。
青島はまた膨れっ面になる。
「何笑ってんですか」
「いや…」
「人がどれだけ心配したと思ってんの」
「すまない」
「だから、あやまんないっ」
また怒られて、室井は口を噤んだ。
多分、今の青島は室井に怒っているわけじゃない。
その証拠に室井に怒鳴った自分にもいらついているようだった。
青島の憤りは確かに室井に向いているが、室井を通り越してその向こうに怒っているようだった。
今も青島が室井自身に怒っているとしたら、辞表を出したことだけだろう。
「また遠回りになるが」
「そんなの今更でしょ」
「そう言われると、返す言葉もない」
苦笑した室井に黙って近付くと、青島はその肩に額を押し付けた。
「諦めないでいてくれるなら、それでいい」
その表情は見えないが、自分の肩に触れている温もりに視線を落とし、柔らかく微笑む。
青島の頭を片手で抱くと、視線を前に戻した。
その顔はもう笑ってはないなかった。
「諦めるもんか」
青島がいる。
室井を信じている仲間がいる。
まだまだ戦える。
今の室井にあるのは憤りでも悲しみでもなく、強い意志だ。
「…頬、痛くない?」
ゆっくり顔を上げた青島が、少し気まずそうに聞いてくる。
「大丈夫だ」
「嘘ばっかり。腫れますよ」
熱を持った場所に青島の手がそっと触れてくる。
少し痛んだが、触れる指先は嬉しくさえあった。
「平気だ。こんな痛みはなんでもない」
青島の痛みを受け入れることが、苦痛であるわけがない。
耐え難い痛みは、他にあった。
「…室井さんの痛みは、俺の痛みだ」
室井の頬に触れたまま、青島が言った。
射抜くような眼差しに心が震える。
「アンタが痛いときは、俺も痛いんです」
それを忘れないで、と耳元で囁いた。
室井が青島を抱きしめたから、自然とそうなったのだ。
「ああ…わすれない」
「絶対ですよ」
念を押されて、室井はただ頷いた。
絶対に忘れない。
室井の過去は室井だけのものだが、室井の痛みは青島が一緒に背負ってくれるのだ。
それならば、耐えてみせる。
どんな痛みも、きっと。
「室井さん、冷した方が良いですよ、ほっぺた」
抱き合ったまま暫くして青島が言ってくれたが、室井は首を横に振る。
「いや、いい」
「でも、絶対腫れますよ?」
「もう少し、このまま…」
抱きしめた身体を離したくなかっただけだった。
それに気付いてくれたのか、青島は小さく笑みを零しながら、室井の背中を撫ぜた。
「今日は帰れと言われたって帰りませんから」
「それこそ当然だ」
内心で、誰が帰すかと思う。
「ただーあのー」
青島が言い辛そうに言葉を切ったから、室井は顔を上げる。
「どうかしたのか?」
「ええとー、そのぉー」
「はっきり言え」
「エッチできません」
本当にはっきりと返事が返って来て、室井は目を剥いた。
純粋に離れ難かっただけなのだが、したくないかと問われればしたくないわけもなく。
必然的に疑問が湧く。
「何故だ」
素直に尋ねたら、青島は苦笑した。
「ええと、実はですね、怪我しちゃってて」
目を剥いたまま眉間に皺を寄せるから、室井の顔が恐くなる。
「君はまた…いや、説教は後回しだ」
え?説教は決定事項?と引き攣っている青島に構わず、室井は青島の身体を見回した。
見た感じには良く分からない。
「どこだ?」
「えっと、肩なんですけど」
「肩?脱臼か?」
「いえ…」
言いよどむ青島に、室井の顔が更に恐くなる。
それを見て、青島がまた引き攣った。
「た、大したことないんですけどねー」
「いいから、何があったか言え」
有無を言わさない迫力に観念したのか、青島は引き攣ったまま愛想笑いを浮かべた。
器用なものである。
「また、刺されちゃいまして」
眉間に深い溝ができた室井を見て、青島は慌てて続ける。
「犯人に刺されたのは事実なんですけど、命に別状は全くなくって、ただ結構傷が深くて入院もしてたし、本当は今も入院してないといけないんですけど…」
無理やり退院してきたものの、絶対安静を言い渡されているらしい。
室井が恐い顔を崩さずにいると、青島は少し俯いて頭を掻いた。
言われてみれば、青島は片手しか使っていない。
もう片方の手は動かせないのだろう。
言いたいことは色々とあったが、今はあまり怒りたくなかった。
室井は深い溜息を吐くと、手を伸ばして青島の頭を撫ぜた。
「ばか…こんなところに来てる場合じゃないだろ」
「会いたかったんだから仕方ないでしょ」
少し拗ねたような口調が返って来ては、尚更怒れない。
お説教はまた日を改めてすることとして、室井はもう一度、今度は殊更そっと抱きしめた。
「絶対安静なのに、俺を殴って大丈夫だったのか?」
弾かれたように、青島が笑う。
「それ、殴られた人の台詞じゃないっすよ」
「それもそうだが…俺を殴って傷でも開いたら堪らない」
「いや、だから、それは殴られた人の台詞じゃないってば」
殴られたくせに青島の心配ばかりしている室井が可笑しいらしく、青島は遠慮なく笑っている。
笑われても、心配なものは心配なのだ。
室井は渋面になりながら、笑い続ける青島の額に自分の額をぶつけた。
それなりに勢いがあったから、軽い頭突きに近い。
「あたっ」
「安静にしてろ、ばかもの」
「はーい」
「青島」
「はい?」
「来てくれて、有り難う」
安静にしてろと言いながら、支離滅裂かもしれない。
それでも、無理やりに退院して来て、会いに来てくれて嬉しかった。
会えて良かったと、心から思う。
青島は室井の背中に回した片手で、軽くその背を叩いた。
「当たり前でしょ」
優しい声が耳に響く。
「アンタに会いに来ないわけがないでしょ」
「…そうだったな」
二人が会うのは、何も特別なことじゃない。
当たり前のことだ。
例え遠く離れても、それは永遠の別れではないのだから。
これからも、ずっと。
END
2006.9.30
あとがき
A様からの80000HITリク、「室井さんを殴る青島くん(希望は拳で)」でした。
か、勝手に、容疑者後の設定にしてしまいました;
A様、お好みでなければ、大変申し訳ありませんでした!
痴情の縺れ(?)チックなケンカにしようと思って書いていたのですが、
なんか昼メロっぽくなってしまって…いや、面白い昼メロなら良いのですが、
私の書く昼メロではちっとも面白くない(汗)
というわけで、青島君が多分尤も一番室井さんを殴りたくなったであろう場面にしました。
しましたが…も、盛り上がらなかったなぁ(滝汗)
「容疑者」は結局まだ一度しか見れていないのですが、
何度反芻しても、辞表を出すのだけは…!と思います。
ダメですよ。室井さん、警察辞めちゃあ(涙)
頑張り続けることって絶対に難しいですよね。それは分かるのですが、でも、だって;
あそこに青島君がいたら、絶対にそうはならなかったと思うんです。
物理的に青島君が何かをしてくれるわけではないでしょうが(できないんだろうな、って思いますが)、
青島君が「俺の信じた男っすから」と笑ってくれたら、
頑張れたんじゃないかなぁ…と。
単純すぎますかね。でも、そうであって欲しいんです。
そうだもん、絶対(?)
最後は、まあ、いつものごとく、ラブラブですみません(笑)
結局はラブラブしか、書けないんですねぇ。
A様、大分お待たせして申し訳ありませんでした!
殴…ってはいるのですが、一応;
でも、あっさりラブラブですみませんっ(笑)
少しでも楽しんで頂けていることを、お祈りしつつ…。
template : A Moveable Feast