■ 暖かい場所


すみれは報告書を前に、ぼんやりとしていた。
昨日捕らえた窃盗犯の報告書を書かなければいけないのだ。
どこかの誰かさんと違って、すみれは忙しくもない限り、報告書を溜め込んだりはしない。
幸い、今日は暇だった。
いつでも慌しいイメージのある湾岸署だが、たまには暇なときもある。
通報もないからほとんどの刑事がいるというのに、刑事課の中は普段より幾分静かだった。
「すみれさん?」
ボールペンを握ったままぼんやりしているすみれに、雪乃が声をかけてくる。
「具合悪いんですか?」
すみれは雪乃を見上げて、笑顔を作った。
「ううん。全然」
「そうですか?何か元気なさそうに見えたから…」
少し心配そうな顔をしている雪乃に、すみれは肩を竦める。
「お腹空いてるせいかなぁ」
そう言ってお腹に手を当てて見せると、雪乃は笑みを零した。
「もう、夕方ですもんね」
「早く定時にならないかしら」
「私、今日夜勤なんですよねぇ…ああ、そうだ」
雪乃は鞄からチョコレートを取り出すと、すみれに差し出した。
「ちょっとですけど、お腹の足しに」
にこりと笑う雪乃につられて、すみれも口元に笑みを浮かべる。
素直に手の平を差し出すと、小さな袋に入ったチョコレートが三個ほど乗せられる。
「ありがと」
「後少し、頑張りましょうね」
言って、雪乃は席に戻って行った。
手の平のチョコレートを眺めて、机の上に置く。
本当はお腹が空いているわけではなかった。
雪乃の優しさが嬉しかったので、一つだけ口に運ぶ。
お腹が空いていなくても、その甘みは酷く心地よかった。
ふと、机の上にコーヒーカップが置かれる。
顔を上げると、和久だった。
「俺も雪乃さんにチョコをもらってね」
自身のコーヒーカップを持ち上げてみせる。
ついでにすみれの分までいれたのだと言いたいらしい。
「ありがとうございます」
「疲れた時には甘いモノだよなぁ、やっぱり」
和久がしみじみと言った。
特別好きなわけでもないのだろうが、和久は意外とお菓子が好きだ。
駄菓子にまで手を伸ばすのは、単なる好奇心かもしれないが。
「疲れるほど働くなー、じゃなかったんですか?」
すみれは両手でカップを持ち、和久に悪戯っぽく笑って見せる。
苦笑しながら、和久は腰を叩いた。
「俺ももう歳かね。最近疲れやすくてなぁ」
ぼやいてから、すみれに優しい眼差しをくれる。
「すみれさんも、あんまり無理しちゃいけねぇよ」
ポンと軽く肩を叩いて、和久はすみれから離れて行った。
ぬくもりを感じた肩に視線を落としてから、コーヒーカップに口をつける。
和久もすみれの元気がないことに気が付いていたのかもしれない。
コーヒーを飲み込むと身体の中が少し暖かくなった気がしたが、それはホットドリンクを飲んだせいだけではなかった。



今日のすみれは、朝から元気がなかった。
夢見が悪かったのだ。
ここ最近は見ることのない夢だったが、何故か夕べは見てしまった。
恐怖で目が覚めてみれば、今日は火曜日だった。
―たかが夢。
そうは思うのに、どうしても心が晴れない。
夢の映像と現実に起こったことの記憶が、頭から離れなかった。
「…っ」
すみれはジャケットの上から、腕の傷に触れた。
もう痛むことはない。
何年も前の傷跡だ。
痛みを感じるはずなどないのに、何故かそこが疼くような気がした。
あの男が自分のことを忘れてはいないとでもいうように―。



「恩田君」
ハッとして顔を上げると、袴田がすみれを呼んでいた。
慌てて立ち上がると、何でもない顔をする。
「なんですか?」
「これ、食べない?」
今日はやけに食べ物を提供される日だと思いながら、すみれは苦笑した。
袴田が差し出したのは、レインボー最中だった。
「どうしたんですか?これ」
「いやね、室井管理官がいらっしゃるって言うから、お土産に買ったんだけど」
「受け取ってもらえなかったんだって」
横から付け足した魚住は、袴田に睨まれて肩を竦めた。
「…まぁ、そういうわけでね」
袴田が苦笑しながら差し出してくる箱を、すみれは受け取りつつも一言添える。
「あの人絶対受け取んないから、もう買わない方が良いですよ〜」
お金の無駄ですと言うと、袴田も困った顔で頷いた。
「そうなんだけどねぇ、署長がねぇ」
あんな署長でも、署長であり、袴田の上司である。
もちろんすみれたちの上司でもあるのだが、すみれたちの神田の扱いは結構いい加減だった。
課長も大変だと他人事のように思いながら、すみれは辺りを見回した。
「その室井さんはどうしたんですか?」
刑事課に来た様子は無い。
「ああ、今ね、青島君が資料室に案内してる」
「あ…そう」
それじゃあ暫く帰ってこないかも、なんて思って苦笑してしまう。
青島はともかく、室井は絵に描いたような生真面目な男だ。
そんなところでなにをどうこうしているとは思わないが、折角二人きりになったのだから、少しの愛くらいは語っているかもしれない。
―愛…あの二人って、どうやって愛を語るのかしらね。
ふと思った。
他人の恋愛に興味なんて無いが、あの口数が少なく表情のレパートリーが少ない室井と、いるだけでなんとなく騒々しい青島が、どんなふうに恋愛をしているのかは少し気になった。
―室井さんが愛…語るか?
想像したら、笑みがこぼれた。
片言で語りそうだなどと失礼なことを考えていると、袴田が笑った。
「まあ、恩田君にとっては良かったね」
すみれが笑っていたせいか、袴田はすみれがレインボー最中を喜んでいると受け取ったようだ。
レインボー最中の箱を持って笑っていたら、確かにそう見えるかもしれない。
お菓子を貰えたのは当然のように嬉しかったし、袴田の気遣いを無駄にすることもないので、すみれは頷いておいた。





定時になると、すみれは腰を上げた。
こんな日は忙しい方がむしろ良かったのだが、そんな日に限って珍しく一日中暇だった。
夢も記憶も、何度も思い出し反芻して憂鬱になることが多い一日だったが、一人でいるよりは署にいる方がずっと良かった。
署にいると、味方がいっぱいいるのだ。
言葉を交わすだけで、声をかけてもらえるだけで、気持ちが軽くなることもある。
朝よりいくらか元気になって、帰宅できそうだった。
「お先に失礼します」
席に残っている刑事たちに声をかけて、すみれは刑事課を出た。
すると、廊下の向こうから青島が歩いてくる。
隣を歩いているのは、室井だった。
どうやら資料室から出て来たらしい。
「あ、すみれさん」
青島がすみれを見つけて、軽く跳ねるように大股で近付いてきた。
つくづく歩幅が大きい。
すみれの5歩分の距離を、2歩くらいで移動してしまう。
「お疲れ様」
青島に言って、室井には頭を軽く下げる。
律儀に室井も返してくれる。
変なキャリアだと、内心で笑った。
「もう帰るの?」
「うん、定時だし。暇だし」
「そっか」
苦笑気味に頷いて、青島はじっとすみれを見下ろした。
心の中にまで入ってきそうな大きな瞳に、少し落ち着かなくなる。
これは青島の悪い癖だと、すみれは思っていた。
すみれは青島が室井を好きだと知っているから誤解も期待もしないから良いが、こういう仕草を他人に、特に異性に平気でするのは絶対に良くない。
だけど、すみれは指摘をしたことはなかった。
それをするのは、室井の仕事である。
室井が気になったら、青島に注意するだろう。
尤も注意されたからと言って、青島が止める保障はどこにもないが。
「すみれさんも行かない?」
青島がニッコリと笑う。
突然のお誘いに、すみれは目を丸くした。
「どこに」
「ご飯食べに。これから、室井さんと行くんだけど」
室井さんもこのまま直帰なんだって、と教えてくれる。
夜勤では無い青島ももう帰れるだろうし、一緒に食事に行くことにしたらしい。
それにすみれも誘ってくれているようだった。
すみれがちらりと室井を見ると、室井は青島を見て、すみれと視線を合わせた。
「もし、よければ」
「…お邪魔なんじゃないのー?」
肩に掛けた鞄の紐を握りながら、からかうように二人を見比べる。
本当は少し嬉しかったのだが、茶化さずにはいられなかったのだ。
室井は眉間に皺を寄せたが、青島は平然としたものだった。
「邪魔なら誘わないよ」
「ま、そりゃあ、そうでしょうけどね」
「あ、言っておくけど、高い店には行かないよ。ただの居酒屋だからね」
「あら、奢ってくれるの?」
「何を今更。俺のことも室井さんのことも、財布くらいにしか見てないくせに」
「室井さんの財布は魅力的だけど、青島君のじゃなぁ〜」
可愛くない言葉は止まらない。
それでも青島は唇を尖らせ、いじけたフリで付き合ってくれる。
すみれの照れに、きっと気付いているのだ。
鈍いようで鋭く、鋭いようで鈍いのが青島だ。
「…俺の財布も、あまりご期待に添えるモノじゃないんだが」
ボソリと言ったのは室井で、すみれは笑みを零した。
些か気まずそうな顔をしている室井が可笑しい。
「キャリアが夢の無いこと言わないで」
「夢…?い、いや、キャリアにも給料日前は存在するのだが」
言われてみれば、給料日まで後3日と差し迫った日だった。
確かに、誰の財布にも給料日前というのは存在する。
それでも室井の財布は青島の財布よりは切迫していないだろう。
「だから安いとこなんだってば」
青島が言う。
「なるほど」
「大丈夫。美味くて安いとこ、俺知ってるから」
だからさっと笑顔で言うから、すみれは青島の腕を取った。
もう片方の腕で室井の腕を取る。
二人の間に挟まって、両腕を組んだ状態だ。
目を丸くした青島と眉間に皺を寄せた室井に、すみれは胸を張って言った。
「男二人で行くのも寂しいでしょうから、私が付き合ってあげましょう」
嘯くすみれに青島は苦笑したが、照れているのか室井の顔は強張ったままだ。
恐れ多くも、キャリアと腕を組んでいるのだ。
すみれこそ恐縮するべきだろうが、相手は青島の恋人である。
腕の一本や二本、すみれが借りたって文句は言われない。
現に、青島は苦笑しているだけだし、室井は照れているだけだ。
同じ警察官として甘やかされてばかりではないけれど、この二人が、特に青島が自分に甘いことは知っていた。
だから、今だって、一緒にいてくれるのだ。
甘やかしてくれるのだから、甘えておけばいい。
「さ、行きましょう」
すみれがニッコリと笑うと、青島と室井は顔を見合わせて、笑って頷いてくれた。





男に乱暴されて、忘れられないことがある。
痛みは薄れ、思い出すことは少なくなった。
だけど、何年も経った今でも、完璧には忘れられない。
思い出せば恐怖に足が竦むし、痛みに腕が疼く。
それでも、そんな男ばかりじゃないことも知っている。
優しい人がいることを、ちゃんと知っている。
差し出される手に、すみれは素直に感謝した。



翌朝は、可笑しくて笑いながら目が覚めた。
夢に青島と室井が出てきたらからだ―。










END


2006.9.9

あとがき


私がこのホームページを作った当初から書きたかったお話です。
いや、そんな大層なお話じゃないことは重々承知しておりますが(笑)
すみれさんが愛されているお話が書きたかったんです。
仲の良い湾岸署とか。さりげなく暖かい人たちが書きたかったんです。
ちっともさりげなくないかもしれませんが;
でもいいんです。
書きたいお話を書けて満足!(笑)

物理的な解決ではなくても、
人に気にかけてもらえるだけで気持ちが浮上することもあると思います。
自分がしんどい時に心を砕いてくれる人がいるというのは、
何よりも心強い。んじゃないかと。

すみれさんが大好きです(^^)
湾岸署も大好きです。

ああ…また湾岸署が見たいなぁ〜(涙)←心の叫び…


すみれさんが見た夢は、
きっと金欠の青島君と室井さんの夢じゃないかしら(笑)



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