出勤してきた青島は大きな欠伸をしながら、不鮮明な発音で挨拶をした。

「おふぁおぅ〜」

挨拶は大事なことだが、いささか行儀が悪い。

「だらし無いですよ、先輩」

苦笑しながら指摘したのは、坊ちゃんキャリアの真下だった。

青島は眠そうな目でパチパチと瞬きを繰り返す。

「お前、なんでいんの?」

「仕事です」

「なんの」

「僕は交渉人ですよ。交渉しに来たに決まってるじゃないですか」

言い切った真下に、青島は呆れた顔をした。

「雪乃さんなら、今日は休暇のはずだよ」

途端に、真下が情けない顔をする。

「本当に?」

青島が頷くと、ガックリとうなだれた。

雪乃にいきなりプロポーズした真下は、あれ以降勇猛果敢に挑んでいるらしい。

彼女も満更ではないようだったが、うなだれている真下を見る限り、それほど進展していないの

かもしれない。

可哀想にと多少同情もするし、まぁ頑張れとも思うが、だからと言って何してんだネゴシエータ

ーと思わないでもない。

「それも良いけど、お前ちゃんと仕事してんのか?」

言いながら欠伸を噛み殺す青島を見て、真下はニヤリと笑った。

青島に擦り寄ると、コソコソと囁く。

「先輩こそ、良く言いますよ〜」

夕べはデートだったんでしょ?と囁いてくるから、青島は眉を寄せる。

夕べは確かに室井を誘ったが、断られたのだ。

珍しいことに仕事ではなくて、先約の飲み会があったからだ。

なんでも同期の警察官が退職することになったらしい。

残念だったがそういうことなら仕方ないし、電話でやっぱり残念そうな室井の声を聞けたので、

青島は少し嬉しかった。

そういうわけで夕べは一人だったのだが、暇だったために久しぶりにテレビゲームなんかやって

みたらはまってしまい、睡眠時間を削ってしまっただけだった。

どっちみち社会人のやることではなく、真下の行動を笑えない。

だから、「そんなんじゃないよ」としか言いようがない。

だけど、何故か真下は納得しない。

「またまたぁ、僕見ちゃいましたもん」

「何を」

本当になんの話か分からず聞き返すと、真下が何やらしまりのない顔で笑うから、青島は少し引

いた。

「な、なんだよ」

「今朝早くから本庁に行ってたんですけど、出勤してくる室井さんに会って」

「一応、お前も仕事してんのね」

「一応て、どういうことですか」

「で?室井さんがどうしたって?」

先を促すと、真下は思い出したように続けた。

「首筋にキスマーク」

殊更小さな声で囁かれた言葉に、青島は目を剥いた。

「ダメですよ、先輩。見えるところにつけちゃあ」

見えるところどころか、見えないところにだってついているわけがない。

室井の身体に、青島が付けたキスマークなど残っているわけがないのだ。

ということは、室井の身体にキスマーク自体がついているわけがない。

つくはずがない。

―俺以外の人が、あの人の身体に痕なんか残せるわけないじゃん。

青島はつめていた息を、そっと吐き出し苦笑する。

「お前の見間違いだよ」

「またぁ、ごまかしちゃって」

「本当だって。夕べは会ってないもん」

「ええ〜?あ、じゃあ浮気とか・・・」

青島はジロリと真下を睨んだ。

「あの人が浮気なんかできると思うか?」

「・・・はぁ、まぁ、そうでしょうけどねぇ」

真下は青島につられるように納得したが、悪いくせで余計なことを言う。

「でも分かんないじゃないですか。室井さんだって男だし」

室井が男なのは、青島だって身を持って知っている。

彼は聖人でもなんでもない、普通の男だ。

普通とちょっと違うのは、生真面目で融通が利かないことくらいか。

青島はそういう室井が好きだし、だからこそ、信じてもいた。

「ないない、ありえないよ」

青島は真下を避けて自分の席に座る。

「先輩、よっぽど自信あるんですねぇ」

感心したように、真下が言った。

「愛されてる自信があるんだ」

「・・・・・・そんなんじゃないけど」

愛されてるとは思っているが、自信があると言うほどではない。

ただ信じているだけ。

だが真下には、青島の態度が余裕たっぷりにでも見えたのか、意地悪く言ってくる。

「室井さんの愛に胡座かいてると、そのうち泣きをみますよ〜」

青島は黙って真下の首を絞めた。





室井のことは信じている。

室井に限ってそんなわけないと思っている。

だけど、真下が見たキスマークの存在が気にならないわけじゃない。

信じてはいるが、どうしたって気にはなる。

恋人の身体に自分の身に覚えのないキスマークがあると聞いて、気にならないわけもなかった。

青島は定時に湾岸署を出ると、室井に電話をかけた。

悩んでいても仕方がない。

一目見て、ちゃんと話しを聞けばいいのだ。

室井が浮気をしているはずがないのだから。

心の中で繰り返し、青島は呼び出し音を聴いた。

『青島?』

周囲に誰もいないのか、室井の第一声はそれだった。

「お疲れ様です」

癖になった挨拶は、恋人になっても変わらない。

『お疲れ様』

「今大丈夫っすか?」

『ああ、一課にいるんだが、誰も帰って来ないんだ』

待ちぼうけでもくっているのか、少し重たい声だった。

疲れているのかもしれない。

『それより、どうかしたのか?』

いくらか声のトーンが上がる。

青島のことを気にかけてくれているのだろうと分かるから嬉しいが、その分自分の中のスッキリ

しない感情が不愉快だった。

信じているのに、はっきりさせなきゃ気が済まないなんて。

室井に対して失礼な気がしたが、青島もひけなかった。

「今日、室井さんち行っても良いですか?」

一瞬間があったように感じたのは、青島の気のせいか。

『何かあったのか?』

急な誘いだったからかもしれない。

いくらか室井の声が不安そうに聞こえた気がして、青島も少しだけ不安になった。

「なんもないです」

今のところは、何もない。

この目で見るまでは、青島は絶対に信じないから。

「何もないけど、会いたいです」

ただそれだけだと告げると、また少し間があった。

だけど、返事は嬉しい返事だった。

『俺が行こう』

「あ、いや、大して用事あるわけじゃないし、」

来てもらうのも悪いと思ったのだが、

『少し遅くなるから、君の部屋で待っててくれ』

そう言ってくれるから、青島は一言だけ返した。

「待ってます」





室井を待ってる間、青島は夕べやり込んだゲームの続きをやっていた。

夕べほどのめり込めはしないが、それでも何となく普通にしていたいと思う。

構えて待つ必要はないはずだ。

室井に会えるのだから、喜んで待っていればいいのだ。

10時を回った頃に、インターホンが鳴った。

青島は握っていたコントローラーを投げ出すと、玄関に向かう。

ドアを開けると、室井が立っていた。

「遅くなってすまない」

律義な挨拶に首をふり、中に入るように促す。

「こっちこそ、急にすみません」

「いや、それはいいんだが・・・」

青島は明るいリビングに入ると、室井の首筋に視線を向けた。

そしてハッとする。

ワイシャツの衿の少し上。

濃くはないが、確かに赤い痕があった。

―だからってキスマークかどうかは分からないじゃないか。

見方によってはただの打ち身に見えなくもない。

そんなところどうやってぶつけるのか分からないが。

青島は胸に痛みを感じながらそれを否定し、室井をまっすぐに見る。

「・・・?どうかしたのか、青島」

少し心配そうに小首を傾げる室井に、青島は指をさした。

指先は室井の首筋に向かっている。

「そこ、どうしたんです?」

聞かなくちゃ分からない。

青島はそう言い聞かせていた。

「そこ?」

不思議そうな室井に、青島は付け足す。

「首、赤くなってる」

それでもなんのことか分からないでいたようだが、すぐに目を見開いて首筋を手の平で押さえる。

赤い痕は見えなくなったが、室井の顔に赤みがさした。

青島は呆然とする。

室井のリアクションが何よりの証拠な気がした。

青島の頭の中は真っ白だったが、沸々と怒りが湧いてくる。

思わず室井の胸倉を掴んだ。

「待て、コレは」

室井の話しを聞くつもりだったことは、キスマークを見たら吹っ飛んでしまった。

「浮気ですか」

「違うっ」

「じゃあ、本気なんだ」

「何言っ」

「俺に飽きた?」

「話しを聞けっ」

「相手は女?男?」

「青島!」

「なんで先に俺に言わないの」

問い詰めていたら、怒りより悲しみが勝る。

青島は室井の胸倉から手を離し、ぽつりと呟いた。

「せめて言ってくれたら・・・」

心変わりは仕方がないが、浮気じゃないと言うのなら、別れが先ではないのか。

それほど自分は室井にとってどうでも良い男になってしまったのか。

そう思うと、青島は悲しくて仕方が無かった。

俯いてしまった青島の頬を、室井の両手が捕らえて、強引に顔を上げさせられる。

視線がぶつかると、室井は怖い顔で怒鳴った。

「これは、一倉がつけたんだっ」

青島は目を見開き、やがて表情を歪めた。

「いつから・・・」

「何?」

「いつから一倉さんを好きだったんですか・・・」

室井の相手が一倉だとしたら、昨日今日の出会いではない。

いつから室井が一倉を想っていたのかを考えて、青島はゾッとする。

室井と過ごした日々が、一気に遠くなった気がした。

目を剥いた室井だったが、眉間に皺を寄せて真剣に怒鳴った。

「一倉なんか好きになるわけないだろうっ」

「ええっ、じゃあ、やっぱり浮気ですかっ」

もはや青島は泣きそうだった。

室井の両手に力が篭る。

「だから、違うと言っているっ。一倉となんか誰が寝るかっ」

「こ、この期に及んで見苦しい!」

「見苦しかろうが醜かろうが、いいから聞いてくれっ」

室井の剣幕に、青島は息を飲んだ。

青島が黙った隙に、室井が必死に喋りだす。

「夕べ同期の送別会に一倉も来て、一緒に飲んでたんだ。あいつが酔うことなど滅多にないんだ

が、辞める同期は一倉と親しかったから思うところもあったんだと思うが、とにかく泥酔してた

んだ。言っておくが、酔った勢いで浮気したとかじゃないからな」

珍しく突っ込まれる前に、自分から釘をさしてくる。

青島は相変わらず室井に頬を包まれたまま、呆然としていた。

「酔った勢い・・・というのは間違いでもないが、とにかく泥酔してたのは一倉一人だったんだ」

「・・・それで、一倉さんが?」

「退職記念だとか餞別だとか言いながら、同期に馬乗りになってキスしてた」

それはさぞかし空恐ろしい絵図らだろう。

少し想像して、青島は顔をしかめた。

「同期も酔っ払ってたから、馬乗りになられて気持ち悪くなったらしくて、途中からトイレに篭

ってしまって」

「うわぁ・・・」

酒の席では良くあることだが、送別会というのにその男も災難である。

「それで一倉が」

そこまで言って、室井は顔をしかめた。

青島もなんとなく想像がついてくる。

「矛先が室井さんに向いた?」

室井は仏頂面のまま頷いた。

思い出したのか、若干具合が悪そうなくらいに見えた。

「馬乗りになられて首筋吸われて・・・・・・気持ち悪くてうっかり一倉の顔面に拳をいれてしまった」

俺も酔ってたんだと呟く室井に、青島は目を丸くした。

「余程思い切り殴ったのか、前歯が欠けたらしい」

「ま、まじですか」

「今日は歯医者に行っているから休みだった」

自業自得。

だが、前歯がかけるほどの悪行でも無かったはずだ。

室井が酔っていたというのも事実だったということだろう。

力加減ができなかったのだ。

室井は青島の頬から手を離すと、首筋をなぜた。

「一瞬だったから気にしていなかったんだが」

「うっすら、残ってますよ」

「そうか・・・」

気まずい沈黙がおりる。

青島は浮気したと室井を責め、怒鳴った。

室井は一倉との恥ずかしくも情けない事の顛末を青島に洗いざらい吐いた。

お互いに微妙に気まずい。

キスマークを指摘されて室井が赤面したのは、夕べの怒りを思い出したせいだったのかもしれな

い。

青島は俯いて首筋をなぜながら、何と言おうか考えていたが、

「すまなかった」

不意に聞こえた室井の謝罪に、視線を持ち上げた。

「え?」

「誤解させて悪かった」

「あ、いや、俺も、なんかすいません」

「いや・・・それに」

「はい?」

「一倉に痕を付けられたのは事実だ。申し訳ない」

妙な謝罪だったが、生真面目な室井らしい。

言われてみると、確かにそうだ。

不可抗力とはいえ、室井が一倉に痕を付けられたのは事実で、それは青島が怒ってもいいことか

もしれない。

でも、室井もまた被害者だ。

こっ恥ずかしく怒鳴ってしまったため、青島の怒りも引いている。

青島はちょっと考え込んで、もう一度室井の襟首を掴んだ。

目を剥いた室井に構わずそのまま引き寄せ、唇を寄せる。

赤い目印に唇を押しあてると、思いきり吸いついた。

「っ」

室井が息を飲む音を耳元で聞きながら、青島は目だけで笑った。

反応してくれる恋人が嬉しい。

満足するまで吸い付いて、唇を離す。

先程よりも、濃く、はっきりと付いたキスマークに満足して、青島はそこに軽くキスをした。

「このキスマークは、俺んです」

嬉しそうに言ったら、室井は軽く赤面しながら自分の首筋に指先で触れた。

「そ、そうか」

「そうです」

どこか室井も嬉しそうだったが、思いついたように声を漏らす。

「あ」

そして眉を寄せてしまったから、青島は小首を傾げた。

「室井さん?」

「・・・・・・間接キス」

「は?」

「一倉と間接キスになるんじゃないのか?」

眉を寄せて、酷く難しい顔で呟く。

青島は目を瞬かせて室井を見ていたが、やがて弾かれたように笑った。

「ば、ばかじゃないの、室井さん、あは、間接キスって」

あははははと遠慮の欠片もなく笑うと、室井の眉間の溝が深くなる。

それでも青島は笑いが止まらない。

間接キスなんて、いい大人が目くじらを立てることではない。

それに触れたのは室井の肌だ。

間接キスなどと言えるだろうか。

そもそも他の男にキスマークを残された男の言う台詞じゃない。

室井は青島のことになると、時々普通じゃなくなる。

青島はそれを知っているから、可笑しくて堪らない。

「笑うな」

「笑いますよ」

「笑い事じゃない」

笑い事じゃなきゃいったいなんだというんだと思ったが、室井がどこまでも真剣なので青島は笑

いを引っ込める。

まだ腹筋が痙攣していたが、室井が愛しいからなんとか堪えた。

困ったことに、ばかな室井が愛しくて仕方が無い。

―俺もバカなのかもなぁ。

そんなことを思いながら、室井の首に腕を回した。

額をつき合わせて微笑む。

「なら、消毒してください」

「任せてくれ」

力強く請け負う室井をやっぱりばかだなぁと思いながら、青島は目を閉じた。





























END
(2006.5.2)


書いた自分が言うのもあれですけど、なんでこんな話を書いたのか分かりません(笑)
何が書きたかったんだろう一体・・・;
でも、折角書いたのでアップしてみました。
内容がないのに、微妙な長さですみません(^^;

ある意味、せくはらシリーズだと思うんですけどね。
一倉さんはどうあっても二人に波風を立てるらしいです(笑)
キス魔というわけじゃないのですが・・・酔っ払い一倉さん。
室井さんにはいやんですが、同期に馬乗りになってキスする一倉さんはちょっとみたい・・・。

信じてる信じてるといいながら、実はちょっと不安だった青島君(笑)
そういうことってありますよね〜。