■ 天然の恋(1)
その日、室井が湾岸署に訪れたことに、大した理由は無い。
ちょっとした用事があったのは確かだが、部下に頼んだって構わなかった。
だが、その日に限って、室井はそうしなかった。
時間が少しばかりあったということもある。
大きな事件を解決したばかりで、珍しく時間に余裕があったのだ。
だから移動の途中で湾岸署に用事ができたと気付いた室井は、ふらりと湾岸署に立ち寄った。
室井にとって湾岸署は嫌いじゃない場所。
明確に意識したことはないが、湾岸署に対する好意や親しみを持っていたからこその行動だろう。
年に一度として買わないこともあるケーキをお土産に買ったのは、美人といって差し支えないのにやけに食いしん坊な誰かのことが頭に過ぎったからだった。
「わぁ、ありがとうございます〜」
過去に見た覚えのない笑顔を向けるすみれに、室井は少し呆気にとられながらもケーキの箱を手渡した。
隣に立った雪乃も室井に礼を言いながら、嬉しそうにケーキの箱を覗き込んでいる。
「やっぱり室井さんよね」
「他のキャリアじゃこうはいきませんもんね〜」
「あら、でも雪乃さんのためなら、真下君なんでもしてくれるんじゃない?」
「真下さんのは下心がありますから」
「あぁ〜まぁねぇ。でもあれだけ分かりやすいと下心とは言えないかもね」
真下に対しては随分な言い草な気はするが、喜んでもらえたのなら何よりである。
室井はそう思うことにすると、
「では、私はこれで」
小さく頭を下げ、その場を後にしようとした。
「あれ?もう帰っちゃうんですか?」
雪乃が残念そうに言ってくれるが、もう用事は済んでいた。
見たかった資料は手に入ったし、何となく買ってしまった手土産は喜んでもらえた。
もう湾岸署にいる理由が無かった。
「忙しいの?」
小首を傾げたすみれに聞かれて、室井は緩く首を振る。
「いや、そうでもないが」
「じゃあ、お茶してってください。そのうち青島君も帰ってくるし」
すみれがニコリと微笑みながら言った言葉に、少し顔を強張らせた。
「別に青島君に用事はないが」
嘘じゃなかった。
青島に用事はないし、湾岸署に寄ったのも青島に会うためではない。
刑事課に入って青島の姿がないことには気付いていたが、ただ「いないんだな」と思っただけである。
すみれは肩を竦めた。
「そう?なんか、室井さん見ると、青島君思い出しちゃって」
「……」
そう言われても、どう受け止めたら良いのか、室井には分からない。
特別不愉快ではないが、喜ぶべきことでも無い気がする。
いつか青島が言っていた「いいコンビなのかもしれない」という言葉が頭を過ぎった。
どう反応したら良いものか迷っていた室井に、すみれは苦笑した。
「でも、いいじゃない。折角だもん」
「そうですよ。青島さんもきっと喜ぶし」
何故青島が喜ぶのだろうと思ったが、二人に言われると急いで帰る理由もない気がしてきた。
「……では少しだけ」
「警視総監には、いつなる予定?」
空いていた青島の席に腰を下ろし、すみれがいれてくれたコーヒーを飲みながら、室井は眉を寄せた。
「別にからかってるわけじゃないわよ」
悪びれずに言ってケーキを口に運ぶと、幸せそうに笑う。
食べている時が1番幸せそうに見えるのは、室井がすみれのプライベートを知らないからか、それとも単純にそれが事実なのか。
室井には判断がつかなかった。
「期待してるだけです」
すみれが何食わぬ顔で言う。
前にも似たようなことを言われた気がした。
「…全力は尽くす」
青島やすみれの期待は感じている。
だからこそ、頑張れているのだという自覚もあった。
頑張るのは自分のため。
警察を変えたい、正義を貫ける警察にしたい。
そう望む自分のためだ。
だけど、頑張れる理由はちゃんとあった。
「じゃあ、私も頑張ろーっと」
パクパクとケーキをつまみながら言うすみれに、室井は苦笑した。
和やかな空気ですみれと二人お茶していると、刑事課が俄かに騒がしくなる。
何事だと思ったが、騒ぎの中心にいるのは、大抵青島だ。
「ただいまぁ」
被疑者と思われる男を連れた青島が、疲れた声をあげた。
声を聞かなくても疲れているのは、目に見えている。
うんざりした表情でそこに立つ青島は、あちこち擦り剥いて、スーツも乱れてボロボロだった。
室井は眉を寄せた。
「どーしたの?」
聞いたのはすみれだった。
椅子から立ち上がったすみれに、青島は被疑者を差し出した。
「すみれさん、お土産」
「お土産?」
「空き巣の現行犯。係長と聞き込みして歩いてたら、偶然見つけちゃって」
「あら…お手柄じゃない」
言いながら、青島から被疑者を受け取る。
「そうだけど、最悪だよも〜。追い掛けっこして転ぶし、捕まえても暴れるしで……て、何してんすか?室井さん」
すみれの隣でコーヒーを啜っていた室井の存在に、漸く気が付いたらしい。
話しかけられて室井も気付く。
すみれに勧められるがまま腰を降ろしたのは、青島の席だったのだ。
「すまない、借りていた」
立ち上がりかけた室井に、青島は慌てて首をふる。
「いや、んなことは全然良いんすけど…」
「室井さん、お土産にケーキ持ってきてくれたの」
すみれが室井の代わりに答えてくれる。
「だから一緒にお茶しましょって誘ったの」
「あ、そうなの」
言いながら青島は唇の端っこを舌で舐める。
血が滲んでいるところを見ると、唇を切ったのだろう。
舐めては、血の味が不快なのか、顰め面になる。
「大丈夫か?」
思わず尋ねると、青島は苦笑した。
「慣れてますから」
「……そんなことに、慣れない方が良い」
言ってしまってから、余計なお世話だったなと思う。
それが違法捜査でない限り、青島たちの仕事に口を出す権利はない。
もちろんそんなつもりで言ったわけではなかった。
―じゃあ、どんなつもりだと言うんだ、俺は。
自分の言葉に、何故か自分で悩んでしまう。
言われた青島の方は、何やら納得してしまったようで、頷いている。
「それもそうっすね。その辺の感覚が麻痺してんのかもなぁ」
気をつけないとと頷く青島を見ていると、理由などなんでも良くなった。
青島が気をつけてくれるなら、それでいい。
「手当て、しなくていいのか?」
「あ、いや、ちょっと医務室行ってこようかな…すみれさん」
「こっちは任せてくれていーわよ」
すみれが取り調べに当たるらしい。
被疑者の腕を掴んだまま、青島に手をふる。
「んじゃ、頼むね。室井さん、ゆっくりしてってください」
「いや、もう帰ろう」
「そっすかぁ……あ、車出しますよ」
少し思案して言ってくれたのだが、事件で忙しいわけでもないし、軽傷とはいえ怪我人にわざわざ車を出してもらうのも気が引ける。
「いや、」
「あ、ちょっとだけ待ってもらえたら。さすがにこの格好じゃねぇ」
断ろうとした室井の言葉を、青島が遮って笑った。
そしてまた顔を顰める。
唇が痛いらしい。
「…いいから、早く医務室行って来い」
「そうします。ちょっと待っててくださいね〜」
そういうと、青島は刑事課を出て行った。
その後姿を見送って、室井は所在無げに立ち尽くす。
一人で帰った方が良いだろうと思うのだが、待っててくれと言われている。
待っているのは構わないのだが、わざわざ送らせるのも気が引けた。
だけど青島は、待っててくれと言った―。
身動きできずに思考がループしている室井は、自分でも気付かない程度に動揺していた。
「ね、暇なら、青島君診てきてあげてください」
背後からすみれに声を掛けられて、振り返る。
キャリアの室井にこういうことを平気で頼めるのが、すみれらしい。
「…君がしてあげたらどうだ」
思わず呟いた。
室井が青島の怪我を診るのはある意味不自然だが、キャリアとしてのプライドから口をついた台詞じゃない。
ただ何となく、青島の世話を焼くのはすみれの方が良いのではないかと思っただけだった。
「見て分かんない?今忙しいの」
すみれが真顔で言った。
そう言われると、なるほどと思う。
すみれは青島が捕まえてきた被疑者の腕を掴んだままだった。
これから取り調べになるだろう。
そうなると、彼女ももう室井とお茶を楽しんでいる場合じゃない。
青島の怪我を診てやる余裕もないだろう。
その点室井は暇である。
今は、だが。
―なるほど。
もう一度思うと、室井は一つ頷いて、青島の後を追った。
背後からすみれが医務室の場所を教えてくれる。
それを聞くとはなしに聞きながら歩く。
医務室というプレートのかかった部屋のドアをノックすると、中から青島の「はーい」という間延びした声が返ってきた。
「失礼する」
律儀に断って入室すると、青島は長椅子に腰を下ろしていた。
絆創膏を手にしたまま室井を見て、目を丸くする。
「え?あれ?どうしました?」
驚いている青島に、室井はなんと答えたものか迷って眉間に皺を寄せた。
素直にいえば青島の怪我を診に来たわけだが、ここまで来てみて、自分がここにいることが不自然な気がした。
気付くのが遅いとも言える。
いくらすみれが忙しかろうと、室井に時間の余裕があろうと、だからと言って、室井が青島の怪我を診てやる謂れは無い。
キャリアだとか所轄だとか、そんな次元の問題ではなくて、室井以外の適任はその場に山ほどいたのだ。
それでも、室井は特別疑問も抱かずに動いてしまった。
驚いている青島を見て、今更疑問に思った。
―俺は、何をしてる?
今更問いかけても仕方が無かった。
青島を追ってここまで来ておいて、今更「なんでもない」と言って出て行くこともできない。
「え、と…室井さん?」
困惑気味な青島に、室井は硬い表情のまま近付いた。
―考えても仕方が無いし、引き返せないならさっさと目的を果たしてしまうべきだ。
そう割り切ってしまうと、室井は行動を躊躇わない。
「怪我は」
「え?」
「酷く痛む所はないのか?」
骨折していればこんなに平然とはしていないだろうし、刺されてでもいればそれこそ自力で歩いて帰っては来なかっただろう。
大怪我はしていないだろうと思ったが、一応確認してみた。
きょとんとしていた青島だったが、自分の怪我の具合を聞かれているのだと気付いて、慌てて頷いた。
「あ、ああ、はい、大丈夫です。あちこち擦り剥いてますけど、それだけです」
「そうか…」
「後は頬を軽く殴られたんで…唇切っちゃったんですけどね」
唇の端が切れているのが気になるのか、青島はまた舌で舐める。
室井は視線を落として、青島が手にしていた絆創膏に気付くと、ソレを取り上げた。
「室井さん…?」
やっぱりきょとんとしている青島に構わず、室井は絆創膏の裏をぺりぺりと剥がすと、青島の顔を覗きこむようにしてその口元に手を伸ばした。
そこにペタリと絆創膏をはると、指先が青島の頬に触れる。
ドクリと、室井の中で何かが流れた気がした。
―……?なんだ?
それがなんだか室井にはまだ分からない。
大きな瞳が室井を見上げていたが、ゆっくりと室井の手が離れていくと、青島は笑みを零した。
「ありがとうございます〜」
それは、子供みたいに素直な笑顔。
嬉しい嬉しい嬉しい。
それだけを伝える笑顔。
完全に動きを止めた室井は、心臓だけが別の誰かのソレのように激しく動いていることに漸く気が付いた。
この感覚は覚えがある、知っている痛みだ。
―ああ、そうか。
いつになく存在を主張する心臓とは裏腹に、心は酷く落ち着いていた。
―そういうことか。
一人納得する。
湾岸署が嫌いじゃないのは事実だが、不意に訪れたくなった理由はちゃんとあった。
すみれたちの誘いを断らず湾岸署に居座った理由も、青島の申し出を申し訳ないと思いながらも
断らなかった理由も、医務室までのこのことやって来た理由も。
ちゃんとあったのだ。
それに気付いたら、なぜ今まで気付かなかったのかが、不思議なくらいだった。
いつだって、見てたのに。
いつだって、惹かれていたのに。
ほんのちょっと接触で。
ほんのちょっとの笑顔で。
漸く気が付いた。
「室井さん?」
静かな呼びかけに、室井は青島を見下ろす。
硬直して押し黙ってしまった室井を、青島は戸惑ったように見上げていた。
小首を傾げて、大きな瞳が「どうしたのか?」と尋ねてくる。
室井は何も考えずに、素直に言った。
「好きだ」
あまりにもするりと口をついたから、言った本人も告白したような気分ではなかったが、言われた本人もそう思えなかっただろう。
それくらい、唐突だった。
青島は目を剥いた。
「は、はい?」
「君が好きだ」
もう一度繰り返す。
頭に回るのに時間がかかるのか、それとも何ぼ待っても回らなかったのか。
青島は呆然としたまま、頷いてみせる。
「そう、ですか?」
「そうなんだ」
「そう……ですか」
意味の成さない会話。
そのこと自体は、室井は特に気にしていなかった。
相変わらず動揺していたのかもしれないが、この時の室井が気になったのはただ一つ。
「気持ち悪いか?」
「え…?」
「私の気持ちは、気持ち悪いか?」
青島に気持ちを否定されること。
受け入れるとか受け入れないとかではなくて。
室井自身が今気付いたばかりの気持ちだが、この気持ちの存在を否定されていないかだけが無性に気になった。
青島は驚いた顔で室井を見上げていたが、やがて首を振った。
「悪くは、ない、です」
それは室井の不安を打ち消す一言。
無意識に表情が緩んだ。
その顔を見た青島が、今日一番驚いた顔をしていたのだが、それどころじゃない室井は気付いていなかった。
「今日は一人で帰るから、車はいらない」
それだけ言って、青島に背を向け踵を返す。
青島は一言も発しなかったが、それすら気にならなかった。
否定されなかった。
嫌われなかった。
青島のその気持ちを知れただけで、室井は酷く満足していた。
受け入れられるわけがないからそれだけで充分だと思ったわけではない。
そこまで考えるだけの余裕はなかった。
室井の中にあったのは、青島を好きだと言う事実だけ―。
室井が去った部屋の中で。
室井の言葉を漸く飲み込んだ青島が、赤面しながら頭を抱えていたことを、室井は知らない。
END
2006.3.29
あとがき
正式に言うと、「天然ボケの恋」(笑)
もっと言うと、「天然ボケ同士の恋」なんじゃないかな。
青島君は室井さんを好きじゃないわけじゃなくて、
青島君も気付いていないだけだといいなぁなんて思います。
なので、「天然ボケ同士の恋」(笑)
室井さんが、阿呆っぽくてすみません;
ちょっと、というか大分室井さんらしくないかもしれません…。
恋の始まり、結構幸せな瞬間なんじゃないかと。思います。
その幸せに気付いた室井さん。
なので、阿呆っぽいのかもしれません(笑)
(ちょっと後付ですが、「彼女」のことがあったから、
青島君を好きになったことを幸せに想う室井さんとかもいいなって思います。
否定的になる場合もあると思うのですが、そちらの可能性の方が高いと思いますが、
青島君を好きになって、室井さんが幸せな気持ちになっていると嬉しいですよねぇ。
後付で思っただけで、伏線でもなんでもありませんが〜(笑))
いつか続きを書くかもしれません(^^)
とりあえずは、短編ということで。
恋に落ちた室井さん。
もしくは恋に気付いた室井さん、でした。
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