■ ゼロ(エピローグ)
仕事を終えた室井が青島の部屋に着いた時には、部屋の主はまだ帰宅していなかった。
遅くなるかもしれないとは聞いていたからがっかりすることもなく、合鍵で部屋に上がった。
合鍵は付き合い出して、すぐに貰った。
あれほど室井から逃れようとしていた青島だが、付き合い出してからは室井と親密になることを躊躇わなかった。
交際を決意してくれたのは室井の根気や熱意に負けて折れたからだろうが、腹を括った青島は嘘のように室井を受け入れてくれた。
合鍵を渡されいつでもどうぞと言われた時の室井が、硬い表情の下で舞い上がるほど歓喜したことは言うまでもない。
その代わり、青島が室井の部屋に来ることは全く無くなった。
官僚の住まう官舎に不用意に近寄ることは避けた方がいいだろうと、青島が決めたことだった。
ただの友人であった時にはあまり気にしなかったが、明確に後ろめたい関係になった以上他人の目を気にする必要があった。
そのことに関しては、室井にも異論はない。
青島に会うことさえできれば、その場所は自宅でなくても一向に構わなかった。
青島の部屋の合鍵まで貰った挙句、いつでも来ていいと言われていれば尚更だった。
室井はリビングの電気を点けて、コートとジャケットを脱いだ。
ネクタイも外し腕捲りをすると、提げて帰ってきた買い物袋片手に台所に立つ。
青島の部屋の台所で料理をすることも、そろそろ片手を数える。
勝手の分からなかった台所も、最近になり少し慣れて馴染んできた。
遅くなるかもと言っていたからには、青島の帰宅まではまだ時間があるはずだった。
室井は料理を作りながら青島の帰宅を待つことにした。
粗方の仕度が終わった頃に、玄関で物音がした。
がさごそと音がして程なく、青島がリビングに姿を見せた。
「おかえり」
台所から声をかけたら、青島は柔らかい笑みを浮かべた。
「ただいま。すいません、遅くなって」
「気にするな」
「美味そうな匂いですね」
「もう食えるから、着替えて来い」
「はーい」
着替えに寝室に向かおうとした青島が、方向転換して台所に戻って来た。
「どうした?」
「いや、別に」
そう言いながら、掠めとるようなキスを一つ寄越した。
室井の眉間が寄る。
それが照れだと分かっているらしく、青島は笑って「用事はこれだけです」と言い残し寝室に向かって行った。
室井はその後ろ姿を見送り、そっと吐息を漏らした。
付き合い出してからの青島は、ずっとこんな感じだった。
好意はちゃんと目に見える形にしてくれるし、あれほど室井が望んだ言葉も惜しげもなく聴かせてくれる。
その度に、都合の良い夢を見ているのではないだろうなと疑って掛かかることもしばしばである、なんてことは青島には内緒だった。
室井はもう一つ溜め息をついて、テーブルに皿を並べた。
室井の漏らす溜め息は、所謂幸せのそれに過ぎなかった。
食事が終わると、後片付けは青島がしてくれた。
手伝おうかとも思ったが青島が座っててと言ってコーヒーを淹れてくれたから、リビングのソファに座り大人しく待つことにした。
共働きの新婚家庭とはこんな感じだろうかと、結婚の経験のない室井は密かに馬鹿なことを考えていた。
青島と付き合い出して三ヶ月、中々会えない日もあるが会えたら大体こんな感じで仲睦まじく、関係は良好だった。
片想いをしていた時には想像もしなかった毎日、必死に口説いていた時には望んで止まなかった毎日だ。
幸せ過ぎて、時々本当に夢のようだと思ったりもするが、柄にもなく甘い毎日は嬉しかった。
嬉しかったが、一つだけ困っていることがあった。
贅沢な悩みだと自覚しているから、コーヒーを飲む室井の眉間に皺が寄る。
「終わりましたよ、室井さん」
言葉と一緒に背後から抱き締められて、室井は危うくコーヒーを溢しそうになった。
「…そうか、ありがとう」
「いーえ、こっちこそ。ご馳走様でした」
「いや」
「今度は俺がご馳走しますね」
「楽しみにしてる」
素直に言えば、耳に青島の笑い声が届いた。
それが聞こえなくなるのと同時に、耳朶に温もりを感じた。
室井の体温が急激に上昇した。
「先、風呂入ります?」
青島の唇が耳朶に触れたまま動いていた。
「…君が先入って来い」
「ん、じゃあ、そうしようかな…」
唇が耳朶を柔らかく食み、名残惜しげに離れていく。
離れる瞬間に触れた熱い舌に、背中がぞわりとした。
背後から青島の気配が消えると、室井は知らぬうちに入っていた肩の力を抜いた。
室井が風呂から上がると、青島の姿はリビングになかった。
寝室を覗けば、ベッドの上にその姿はあった。
腹の上に開いたままの雑誌が乗っかっており、横になって読んでいるうちに眠ってしまったという雰囲気だった。
残業をしているし、疲れているのかもしれない。
室井は青島の腹から雑誌を取り上げて、そっとベッドの隅に腰をかけた。
マットレスが沈んだせいで目が覚めたのか、青島が瞼を持ち上げた。
室井に気付いて寝ぼけた顔に浮かんだやんわりとした笑みに、誘われるように手を伸ばす。
「このまま眠るか…?」
頬を撫ぜながら聞けば、青島の腕が首に伸びてきて引き寄せられた。
「嫌ですよ、勿体無い」
わざとらしく拗ねた言い種が可愛くて思わず小さく笑った室井に、青島も微笑んだ。
引き寄せられて、せがまれるようにして、唇を重ねる。
吐息混じりに名を呼ばれれば、それだけでまた背中がぞわりと震えた。
室井はぐっと眉間に力をこめて本能とも言える欲望を抑え込み、観念した。
青島にはどうやっても抗えなかった。
室井が唇を重ねたまま覆い被さると、青島はくぐもった笑い声を漏らした。
その嬉しそうな声だけで、室井には堪らなかった。
キスをしながら青島のパジャマを乱しその身体に触れた。
自分に反応してくれる愛しい身体が嬉しくて、夢中で唇を重ねた。
息を乱して室井に応えていた青島も、室井の身体に手を伸ばしてきた。
いつも互いの手や唇で愛撫して、快感を共にする。
青島とのセックスは、いつもそうだった。
男同士でありこれまでの恋愛経験が必ずしも役立つとはいえないが、男同士であるからこそ欲求は分かりやすく共有することは難しくなかった。
夢にまでみた青島との行為であり、青島との触れ合いは室井にこれまでの経験は何だったのかと思うほどの快感を与えた。
だが、その快感を知れば知るほど、欲求は大きくなる。
贅沢な悩みとは、まさにそれだった。
もっともっとと青島を望む自身の心の内を、室井はまだ青島に打ち明けられずにいた。
いつか、そのうちにとは思っているが、焦るつもりはなかった。
青島とは、現在良い関係を築けていて満足している。
焦って気まずくなるのは嫌だった。
だけど、焦ってはいないとはいえ、理性に自信がない夜だってたまにはある。
室井は伸びてきた青島の手を握り締めることで遮った。
「室井さん…?」
怪訝そうに問いかける声も熱っぽくて、室井はその欲求には躊躇うことなく望むまま口付けた。
「ん、室井さん、俺もしますよ…」
「俺はいい」
「いいって、なんで、あ、あ…っ」
上ずった青島の声が愛しくて、自然と室井の顔に笑みが浮かぶ。
「いいから、感じてろ」
キスして手を動かせば、青島が顎を反らして少し高い声を漏らした。
頬を上気させ快感に耐えるようにひそめた眉が色っぽくて、眉間にも唇を押し付け愛撫を続ける。
「いいか?青島…」
「ん、ん、いいです、気持ち、いい」
小さく頷いた青島は限界が近いのか、もう室井に疑問をぶつけることもなく、ただ室井の手を握り返して唇を噛んでいた。
声を聞きたいとも思ったが、濡れた唇に引き寄せられるようにキスをしたまま青島を追い上げたから、最後の瞬間の声を聴くことは叶わなかった。
びくりと震えた青島が、室井の手を濡らした。
そっと唇を離せば、青島は荒い呼吸を漏らし視線を揺らしていた。
乱れた吐息にも高揚した肌にも手を濡らしたそれにすらも興奮を覚えたが、室井は根性で身体を離した。
濡れた手を拭い青島の下肢も拭って後始末をすると、青島が少し戸惑った視線を寄越した。
「室井さんは?俺やりますよ?」
「いや、大丈夫だ、ありがとう」
「でも、俺だけ良くしてもらって…」
「今夜はいいんだ」
もう休もうと言って青島の頭を撫でるつもりで手を伸ばしたが、青島が真っ赤な顔をしていたから途中で止まった。
青島はむくりと起き上がると、室井と視線を合わせた。
「青島?どうかし…」
「室井さん、もしかしてそんな気分じゃなかった?」
室井の声を遮るように聞かれた言葉の意味がすぐには理解できずに首を傾げた。
「なに?」
「違ったんなら、もっと早く言ってくださいよ。そしたら、俺だって遠慮したのに」
恥ずかしいなあもう!と赤くなった顔を手で扇いでいる青島に、室井は面食らった。
何か誤解が生じているようだった。
「青島、ちょっと待ってくれ」
「てか、もしかして、俺が言う隙も与えなかった感じですか?俺、がっつき過ぎ?わあ、もう、なんだよ」
また「恥ずかしいなあ」と言って頭を抱える青島に、室井も慌てる。
「青島」
肩に手をあて顔を上げさせたら、青島はいくらか気まずそうに見えたが、それよりも照れているようだった。
「いつもいつも同じ気分のわけないですからね、したくない時はちゃんと断っていいんすよ」
そう言って青島ははにかんだが、気分を変えるようにわざとらしく膨れ面を作った。
「ガキじゃないんだから、俺だってちゃんと我慢できますからね」
呆気に取られている室井をどう受け止めたのか、青島は苦笑して室井に軽くキスをし「もう寝ましょう」と言って布団に入り直した。
ちらりと室井に視線を寄越したが、やはり照れているのかすぐに背中を向けた。
「やっぱり恥ずかしいなあ…」
聞こえた小さな呟きに、室井は思わず青島を抱き締めていた。
今夜の出来事で青島が恥をかく理由は、一つもなかった。
「すまない」
詫びながら、目の前の首筋に唇を押し付けた。
青島の身体が小さく震えた。
室井の吐息の熱さに青島が反応したことに、室井は気付いていなかった。
「謝らないでいいですよ、そんな気にならない時だってあるし」
「違うんだ」
「違うって、何が?」
「すまない」
「いや、だから何が…」
室井の真意が見えない青島が振り返ろうとしたが、室井が強く首筋に吸いついたら固まってしまった。
もう一度すまないと詫びて、赤くなった痕に唇を押しつける。
「室井さん…?」
「抱きたい」
今度は言葉すら出なくなったのか、青島が絶句した。
当然だろうと思う。
青島にしてみれば突然のことだ。
無理に身体を繋げなくたって男同士でも十分気持ち良くなれるし、青島と触れ合えることには満足している。
それでも、もっと欲しいと望む瞬間が確かにあった。
愛しく思えば思うほど、青島の全部を自分のものにしたいと願ってしまう。
絶対に想いが伝わることはないと諦めていたくせに、思いがけないキスに舞い上がり告白して、逃げる青島を追いかけて追い詰めて手に入れた。
キスをして抱き合うことを許されて幸せの絶頂にいると自覚しているくせに、まだこれ以上を望んでいる。
自分はこれほど浅ましい人間だっただろうかと我ながら嫌になるが、室井にとっては青島に対する想いの何もかもが真実だった。
大事にしたい優しくしたいと願う気持ちも本音であれば、何もかも手に入れたい奪ってしまいたいと願う気持ちも本音だった。
もちろん、青島に室井の気持ちの全てを受け入れなければならない義務はないし、責任もない。
ここから先は、青島次第だ。
「今すぐじゃなくていいんだ、いつかで構わないから」
囁きながら、祈るように首筋に唇を押しつける。
「覚えておいてくれないか」
しばらくの間、青島は何も応えなかったが、抱きしめた手に青島の手が重なっていたから、拒絶されているとは感じなかった。
それだけで、室井は嬉しかった。
青島が身じろぐと、室井は青島に回していた腕を緩めた。
青島は室井の腕の中で身体の向きを変えると、何故だか室井の上に乗り上げて来た。
目を剥いて見上げると、青島が小さく笑った。
「もしかして、結構我慢してた?」
答えにくい質問に一瞬言葉が詰まったが、誤魔化すことに意味があるとは思えなかった。
「少しな」
素直な返事に青島が笑みを深める。
困ったようにも見えるが、どこか嬉しそうにも見える。
室井が都合の良いように見ているだけかもしれない。
「してみます?」
流れを考えれば分からないはずがないが、あまりにも軽い問いかけに理解しかねた室井は馬鹿みたいに聞き返した。
「何をだ」
「だからー…」
今度ははっきりと困ったように笑って、青島がキスをくれた。
「抱いてみますか?俺の事」
いいもんだかどうだか保証はしませんけどと言う注釈は、室井の耳には届いていなかった。
今度は室井が絶句する番だった。
まさかそんな気軽な返事が返ってくるとは思っていなかったのだ。
信じられないものを見るような室井の眼差しに、青島は苦笑して肩を竦めた。
「室井さんと付き合うことになって、俺だってちょっとは調べてみたんですよ」
「調べたって…」
「ネットでね、まあ…その、やり方を」
室井があんまり凝視するものだから照れたのかなんなのか、青島は室井の胸に顔を埋めてしまった。
「別に無理してやんなくてもいいかなとは思ったんですけど、恋人が男なんだから勉強しといて損は無いかと思って」
「そ、そうか」
「室井さんが抱いて欲しい人だったら、ちゃんとそれに応えられるように準備しておかないとって思ったしね」
腹の上にいる青島を、室井はしっかりと抱きしめた。
青島は思ったよりもずっと、室井と恋人になったという事実を真面目に考えていてくれたようだった。
残念ながら抱いて欲しいとは特別思っていなかったが、室井の気持ちに応えるつもりでいてくれた青島に、室井も応えなければならない。
「俺は君を抱きたいが、君に抱かれるのが嫌なわけではない」
もし君がそうしたいならと言えば、青島は室井の目を覗き込み、真顔な室井に屈託なく笑った。
そして何度も唇を重ねてくる。
楽しげにキスをする青島が可愛かったから、青島が満足するまで好きにさせておいた。
「室井さんのいい方で、俺はいいですよ」
「…いいのか?」
室井の答えなどもうとっくに出ているし、青島にも知らせている。
「抱きたいって、先に聞いちゃったしなあ」
そう言って悪戯っぽく笑う青島はやっぱり可愛かった。
「本当にいいのか」
頬を撫ぜて、腰に回した手に力を込める。
無意識に離すまいとする感情が態度に出ていた。
それに気付いているのかいないのか、青島はやんわりと笑って頷いた。
「俺は…室井さんが良ければ、まあ何でも」
照れを誤魔化すように抱きつかれていたから、その言葉はくぐもって聞こえたが、それでも室井の耳にはっきりと届いた。
室井は青島を片手で抱きかかえたまま身体をひっくり返した。
目を丸くした青島に口付けて、真上から見下ろす。
「好きだ」
そんなことは青島もとっくに知っていることだけれど、どうしても口をついた。
「ん、俺もです」
青島が嬉しそうに笑うから、無駄なことでもないだろう。
「抱きたい」
「どうぞ」
「一生大事にする」
「ははっ」
「本気だぞ」
「…ん」
「青島」
「はい」
「愛してる」
「…もう、さっさと来てください」
頬を鷲掴みにして口付けてくる青島を抱きしめながら、室井は口から出せなかった言葉を飲みこんだ。
―言われるまでもない。
そして、その言葉は、口に出すまでもなかった。
END
2014.5.27
あとがき
エピローグでもない気がしますが(笑)
ちょっと書き足りなかった点を追加しちゃいました。
ただのお初話です。すいません。
6話目のラストではっきりと書かなかったのでもしかしたら伝わっていなかったかもですが、
あそこでは最後までいたしておりません。
でも、室井さんは青島君を抱きたかろうという老婆心(間違えた使い方)から、
こんな続きを書いてしまいました。
書きたかったのは、諸々から解放されて箍の外れた二人でした(笑)
いちゃいちゃしているだけで恐縮ですが、
最後までお付き合いくださりありがとうございました!
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