■ 呼び名
彼女を叩いた理由ですか?
彼女が浮気したからですよ、二股かけられたんだ。
彼女が否定してる?嘘ですよ、そんなの。
だって、寝言で他の男の名前を呼んだんですよ。
浮気に決まってます。え?…ええ、男の名前でしたよ。
は?もちろん、彼女が犬を飼ってることくらい知ってます。
それが何なんですか。
犬の名前?
…え?
初めは興奮して、青島を二股相手の男の代わりに殴りかからんばかりの勢いだった男が、自分の勘違いを認め大人しくなると、調書をとって反省を促して帰した。
彼氏に暴力を振るわれたと湾岸署に駆け込んで来た彼女も、彼氏が謝ると簡単に許し、二人仲良く湾岸署を後にした。
仲直りしてくれて何よりだが、話し合いで解決できることなら、是非とも警察に駆け込んで来る前にやってもらいたい。
事件にならない事件を解決し脱力した青島が席に戻り深い溜め息をつくと、背後のすみれが笑った。
「痴話喧嘩の仲裁、お疲れ様」
「全くだよ、ああ疲れた…」
「すぐ叩くような男とは別れた方がいいと思うけどなー」
あっさり仲直りしてしまった彼女に対して思うところがあるのか、すみれは少し不満そうだった。
「まあ、叩いたって言うよりは勢いで手が当たっちゃっただけみたいだったけど」
「何にせよ、人騒がせね」
「大体さあ、寝言=浮気って、短絡的過ぎるよね」
「しかも犬の名前だったんですって?」
「そう。嫉妬するほど惚れた相手のペットの名前くらい、覚えとけっていうんだよ」
ぼやき倒す青島に苦笑して、すみるは仕事に戻った。
「青島君も、寝言で浮気がバレないように気をつけてね」
捨て台詞に顔をしかめてすみれを振り返る。
「人聞き悪いよ、すみれさん」
「あ、そっか。浮気どころか、本命もいないもんね」
「ちょっと」
「こりゃ、失敬」
ちっとも悪びれないすみれに片眉を持ち上げたが、青島は諦めたように溜め息を吐き力を抜いた。
すみれに口で勝とうなんて気も起こらない。
「ちょっと一服してくる」
煙草を持ち憮然と席を立つ青島に、すみれは笑っていた。
寝言にまで責任は持てないよな。
煙草を吹かしながら青島は思った。
どんな夢を見ようと、どんな寝言を言おうと、意識が無い間のことだからどうにもならない。
例えば寝言で女の名前を呼んだくらいで、浮気を疑われるというのも困りものだと思った。
青島には浮気を疑ってくれるような相手がいないとすみれは思っているが、いないこともなかった。
室井だったらどうするだろうかと考える。
青島がベッドで他の女の名前を呼べば、室井ならいきなり浮気と決め付けず、問い質してくる気がした。
面白くはないだろうが、ちゃんと向き合おうとしてくれるだろう。
そして、青島が浮気なんかしていないと言えば、ちゃんと信じてくれるはず。
うん何も心配ない、と青島は勝手に納得した。
楽天的過ぎるかもしれないが、別に室井を軽く見てのことではない。
真剣な青島の言葉が室井に届かないわけがない、それを青島は知っていた。
ただそれだけだった。
仮に青島が寝言で室井の名前を呼んだらどうなるだろうか。
事件が立て込み帰宅できなければ署内で仮眠することも珍しくはないが、そんな時にうっかり室井を呼んだりして、誰かに聞き咎められたりしたら。
そこまで考えて、青島は苦笑した。
もし青島が寝言で室井を呼んだとしても、大抵の人は夢の中でまで一緒に捜査をしているのか、としか思わないだろう。
寝言で好きだとか抱いてとか分かりやすく室井を求める言葉を口走らない限り、怪しまれることもない。
さすがに「慎次さん」とでも寝言で口走ればまずいかもしれないが、青島が室井を名前で呼ぶことがないから、その心配も無かった。
ふと思えば、室井とは長い付き合いなのに、名前を呼んだことは一度も無かった。
室井が青島を「俊作」と呼んだこともない。
別に呼び方にこだわりはないが、恋人なのだから違う呼び方があってもいいような気がする。
それに、たまには違った関わりを持つのもいいかもしれないと思った。
室井との関係がマンネリしているとは思っていないが、長い付き合いだからデートをしても新鮮味がないことは確かだ。
それが不満なわけではない。
相変わらず一緒にいられる時間は嬉しいし、何年経っても心も身体も未だに室井を求めていると感じる。
だけど、やっぱり何事にも刺激は必要だろう。
呼び方を変えたくらいで何が変わるかは分からないが、少なくても室井はきっと驚くはず。
青島は悪戯を思い付いた子供のような顔で笑んで、煙草を消した。
次に室井に会う時の楽しみができた。
「俺の下の名前、知ってます?」
久しぶりに泊まりに来てくれた室井に言ってみた。
室井は缶ビールを開けようとしていたが、見事に手が止った。
怪訝な顔で青島を見ている。
「当たり前だろう」
付き合って何年経っていると思っている、と室井の顔に書いてあった。
「ですよね、じゃあ呼んでください」
「は…?」
「名前で呼んでくださいって言ってるんですよ」
室井が変な顔をした。
また何かおかしなことを言い出したぞこいつ。
という気持ちが表情に現われていたが、青島は気にしない。
ニコニコとしたまま、呼んでくれるのを待つ。
「…何故だ」
しばらくしてから、室井が眉間に皺を寄せて尋ねてきた。
「何故って?」
「なんで急に名前なんだ」
「だって、呼ばれたことなかったから」
「だから?」
「呼んで貰いたくなっただけです」
室井は眉間に皺を寄せたままだった。
「何で今更…」
「深い意味はないですって」
青島は肩を竦めて、いじけたように唇を尖らせた。
「そんなに嫌ですか?」
本当に拗ねたわけではなく、半ば演技に過ぎない。
室井がそれに気付いていないとも思えないが、律儀に困ってくれていた。
予想通りの反応で、青島は内心で笑っていた。
室井が照れてしまうことは予想通りだった。
眉間に深いしわを刻み困惑と不機嫌を混ぜたような顔で黙り込む室井に、青島はとうとう声を漏らして笑ってしまった。
これはダメだなと思い少し残念だったが、そこまで照れる室井は可愛かった。
ビールの缶をテーブルに置いて室井ににじり寄り、目を覗き込むように顔を寄せた。
からかうような視線に気付いたのか、室井が青島の頬をつねった。
小さな痛みに益々笑いながら、青島は軽くキスを送った。
「いつかは呼んでくださいね」
無暗に眉毛を上下させた室井だったが、一つ溜め息を吐くと青島を抱き寄せた。
耳元に吐息がかかる。
一緒に名前が呼ばれ、青島は目を丸くした。
「これで満足か」
「はあ、まあ…」
聞いた室井の方が不満そうな顔をしているから、思わず笑ってしまう。
「アンコール!」
悪戯っぽく笑って言ったら、室井が青島の首に軽く噛みついた。
調子に乗るなと言われている気がしたが、室井はもう一度名前を呼んでくれた。
普段は自分の名前など特に意識しないが、室井に呼んで貰えると少し特別な気がして照れくさかった。
やっぱり青島と呼ばれる方が落ち着くなと思いつつ、たまには室井に名前で呼んで貰うのもいいかもしれないと思った。
たまにねだってみようかなと新しい悪戯を思いついた子どものようなウキウキした気持ちでいたら、室井が顔をあげた。
相変わらず眉間に皺が寄っている。
「俺ばかりずるいな、お前も呼べ」
「おっと…そうきましたか」
余程照れくさかったのか、室井が反撃に出てきた。
いざ呼ぼうと思うと確かに少し照れくさかった。
だが、室井に名前を呼べなどとねだらせることが出来るのは青島くらいなものだろう。
そう思ったら優越感が勝った。
ニコリと笑って唇を奪って名前を呼んだ。
呼んでみたら、想像以上に照れくさかった。
なんだか別の人を呼んでいるようで落ち着かない。
青島を抱き締める室井の腕に力がこもった。
「もう一度」
アンコールが返ってきた。
自分もしたから嫌とは言えない。
照れ隠しにわざとに呪文のように名前を繰り返したら、室井が微かに笑った。
顎を捉えて唇を重ねてくるが、青島が悪戯したような軽いものではなかった。
何度も重ねられる唇が、合間に青島の名前を呼んだ。
「俊作」
慣れ親しんだ良く知る自分の名前なのに、酷く落ち着かない気持ちにさせられる。
触れる唇が離れ室井が声を出す前に、その唇を自分の唇で塞いで阻止した。
室井に名前を呼ばれるのは嬉しい。
嬉しいが、慣れない呼び名に照れが勝った。
付き合いも長いと言うのに、何だかまた特別な関係になったような気になった。
今更なのに、気恥ずかしい。
青島が離すまいと口付けていると、室井が体重をかけて青島を押し倒してきた。
見下ろされて、唇が自然と離れる。
「室井さん、もういいです、もう十分」
「君から言い出したんだぞ…」
さすがに呆れた顔をしている室井に、青島は取り繕うように笑った。
「えーと、満足したんでもういいです」
「俺はまだ満足してない」
ギョッとした青島に、室井は言葉とは裏腹に満足そうな顔をしていた。
青島をやり込められて嬉しかったのかもしれない。
からかうはずが、いつの間にか自分がからかわれている。
くそうと思いつつ、室井が優しく笑うからどうでも良くなる。
「もう呼んでくれないのか?」
「また今度ね」
「そうか…」
キスをして、それなら最後にもう一度とせがまれて、青島は笑いながらリクエストに応えた。
END
2013.10.19
あとがき
泉さんから頂いた477774HITリクで、
「いつも名字で呼び合ってるので、試しに名前で呼び合ってみる室青」でした。
いつもと違うことをしてみるというのは、ちょっとときめきますよね。
このお二人も新鮮でドキドキしたのではないでしょうか。
余所で出ちゃうっても困るし、滅多に名前呼びはしないでしょうが、
時々は戯れに名前を呼び合っていちゃいちゃしてくれてもいいなあと思います。
泉さん、可愛いリクエストをありがとうございました!
またこっ恥ずかしいものを書いちゃいました…(笑)
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