■ 遅咲き(2)


ソファに腰をかけ、コーヒーを飲みながら新聞を読む。
室井にとって、久しぶりののんびりした朝だった。
休日自体が久しぶりだったからだ。
そして、珍しくも少し楽しみにしていた休日でもあった。
警察官になってからというもの、室井の人生における休日の役割とは肉体や精神を休めるためのものであり、休日そのものを楽しみにすることは珍しかった。
室井は新聞から顔を上げ、寝室のドアに視線を向ける。
寝室には青島がいて、夕べの疲れからかまだ起きてくる気配はなかった。
とはいえ、色っぽい事情では全くない。
残業のせいで室井の自宅に辿り着いたのが夜中になっただけのことである。
係長になり肩書きがついたが、青島曰く待遇は今までと大差がなく、若干給料が増えはしたものの相変わらずの忙しさらしい。
夕べ会う約束をしていたが急な残業になり、遅くなるからと遠慮する青島に何時でもいいから来いと言ったのは室井だった。
この歳になりこんなことで浮かれるのは気恥ずかしいが、長い時間を経てようやく恋人という関係になったのだから、可能な限り一緒に過ごしたかった。
休日を青島と初めて過ごす。
室井がこの休日を楽しみにしていた理由はそれだけだった。
―ガキ見たいだな。
内心で苦笑し、室井は再び新聞に視線を落とした。


物音がした。
振り返ると、青島が寝室から出て来ていた。
まだ半分寝ているのか、どこかぼんやりとした眼差しを室井に向けてくる。
「おはよう」
室井が声をかけると、青島は思い出したように挨拶を返して寄越した。
「おはようございます…起こしてくれて良かったのに」
「気持ち良さそうに寝てたからな」
「ええ、なんか凄いぐっすり眠れました」
「疲れが溜まってるんじゃないのか」
「そうかな…」
青島は首筋を手の平で撫ぜながらその首を捻り、まじまじと室井を見て目を丸くした。
「室井さん」
「なんだ?」
「眼鏡」
青島が不作法に室井の顔を指差してくる。
正確にいえば、室井がかけている眼鏡を指差しているのだ。
見慣れない室井の顔に驚いたようだった。
「室井さん、眼鏡かけるようになったんですか」
室井は苦笑し、肩を竦めた。
「老眼鏡だ」
二、三年前から近くの物が見辛くなり、業務に支障をきたすようになったから、老眼鏡をかけるようになっていた。
老眼鏡が必要になったという事実に多少抵抗がなくはなかったが、年齢も年齢だから仕方がないと割り切っていた。
「老眼鏡…」
呟く青島は少し意外そうだった。
「室井さんもそんな歳になったんですねぇ」
しみじみと言う声音はからかっているふうではなく、単なる事実確認のようだった。
出会って13年が過ぎている。
歳を取るのは当然なのだが、その13年間で共に過ごした時間はほとんどない。
自分の知らない変化が、相手にあって当然だった。
室井が知らない間に青島が係長に昇進していたように。
「君もそのうちかけることになるかもしれないぞ」
室井が新聞を畳みながら言うと、青島は室井の隣に腰を下ろした。
「そうっすね、まあ仕方ないか。俺たちもう初老っすからね」
「初老?さすがに早いだろう」
「この間テレビでやってました。辞書をひくと、初老って四十代のことなんですって」
「そうなのか…」
決して自分が若いとは室井も思っていないが、初老と言われるとなんだか一気に老け込んだ気がして嫌になる。
呼び方一つで随分と印象が変わるものだ。
眉をひそめた室井に、青島が笑みを見せた。
「初老の室井さんもかっこいいっすよ」
顔を覗き込まれるように微笑まれて、室井は顔を強張らせた。
「…君もな」
ただでさえ硬い表情筋を更にかちんこちんにしながら答えたら、青島は笑ったまま顔を寄せてきた。
意図を察して、室井も目を細めて顔を寄せる。
軽く唇を触れ合わせるだけのキスだったが、妙に感慨深い。
あの青島とキスをしているのだ。
若い頃に憧れて恋い焦がれた男が、十数年経った今は触れ合える距離にいる。
信じられないという思いもあるのに、こうなって当然だったと思う気持ちもあった。
互いに互いがどうしても必要だった。
青島に惚れられていると自惚れているわけではないが、室井はそう思っていた。
昔に比べれば、青島を想う気持ちは随分と穏やかだった。
若い頃の室井なら、青島とただキスをするという行為に、平常心は保てなかっただろう。
一つ許されればもっと欲しくなる。
そういうふうに青島が好きだった。
青島の全部が欲しくて仕方がなかった時が、室井の人生には確かにあった。
今も青島を欲しいという気持ちに変わりはないが、何もかもではなくて良かった。
彼と共に生きられて、彼の人生の一部になれるなら、それで良かった。
恋い焦がれるような熱い想いは穏やかになり、青島に望む関係は優しくなった。
それなのに、今、室井は多分自身の人生の中で一番幸せな時を過ごしていた。
青島が室井の唇を啄み、至近距離で笑う。
最初はキスをすることに随分と照れていたが、もう慣れたようだ。
「俺の顔はちゃんと見える?」
可愛いなと思いながら頷くと、青島の指が室井の眼鏡を引き抜いて行った。
そして、自分でかけてみたりしている。
老眼鏡が気になったらしい。
室井は苦笑して、青島の好きにさせた。
「ちょっと、視界が歪むな」
「まだ君には必要ないってことだろ」
納得したように頷き、外した眼鏡を差し出してくる。
室井は受け取った眼鏡をテーブルに置いた。
青島が起きたのだから新聞はもう読まないし、青島の顔なら眼鏡がなくてもちゃんと見える。
笑った顔が良く見える。
「夕べはすいませんでした」
不意に謝られて、室井は首を傾げた。
「何がだ?」
「そのー、いきなり寝ちゃって」
青島が申し訳なさそうに、そしてどこか照れくさそうに言う。
夕べ、室井の部屋に訪れた青島は、疲労と眠気で酷い顔をしていた。
会うのを楽しみにしていた室井だったが、その青島に会話や酒に付き合えとはとてもではないが言えなかった。
恐縮する青島をとっとと布団に押し込むと、ものの5分と経たずに眠りに落ちたようだったから、室井の判断は間違えていなかった。
青島は寝に来たような来訪を申し訳なく思っているようだったが、室井にとってはそう悪いものではなかった。
青島が自分の部屋で寝ているのである。
それだけでも幸せを感じると言ったら、さすがに安上がり過ぎるだろうか。
「気にしないでいい、夜中でもいいから来いと言ったのは俺の方だ」
「そう言ってくれるとありがたいんですけどね…」
青島は夕べより血色の良くなった頬を指先で掻きながら、曖昧な笑みを見せた。
まだ何かあるのかと、室井は首を捻る。
「別に君に気を遣っているわけじゃないぞ」
「いや、そういうことじゃなくって」
「じゃあ、何を気にしてる?」
青島が何かを気にしているのは分かるのだが、それが何かが分からない。
言い辛そうにしているということは、言いたいことがあるということだろう。
中々口を開かない青島をじっと見つめて目で促すと、青島は室井の表情を窺ったままごにょごにょと呟いた。
「ええと、その、何にもしないで寝ちゃって申し訳なかったな、と」
室井が目を剥くと、青島は照れからなのか、えへっと誤魔化すような愛想笑いを浮かべた。
青島と付き合いだして一月くらい経っているが、キス以上の触れ合いはまだなかった。
そのことに焦る気持ちは全くないが、かといって二人きりで会う時間に全く期待がなかったかと言えば嘘になる。
青島が泊まりに来てくれると聞いて、どうしてもと強く願っていたわけではないが、そうなればいいなとは思っていた。
そのことに青島は気付いていたらしい。
室井は苦笑すると首を振った。
「別にいい、それが目的で来いと言ったわけじゃない」
布団を並べて寝るだけでも十分楽しかったからいい、とは言わないでおいた。
さすがに浮かれ過ぎている気がした。
「なら、良かった」
青島はソファから立ち上がると、室井を見下ろして小さく笑った。
「ま、今日は時間がいっぱいありますしね」
ちょっと着替えてきますと言い残して、青島は寝室に消えて行った。
残された室井は言葉の意味を反芻して、口元に手を当てた。
そんなことでは、緩みそうになる表情を抑えることはできなかったが―。


期待していたのは、何も室井ばかりではない。
そういうことだ。










END

2011.3.21

あとがき


続けるつもりは特になかったのですが、
なんとなく書きたいお話ができたのでシリーズにしました(^^;

若かりし頃には、青島君が好きすぎて
室井さんも萌え苦しんだんじゃないかと思います。
ええ、私のように!
年齢重ねて恋心も落ち着いて、だけどやっぱり好き!みたいな、
室井さんの心情を書きたかったようなそうでもないような(?)

この二人は別に肉体的な意味で室青ではなくてもいい気がします。
いや、だからって、青室ではないんですけど(笑)
若いころならできた無茶も歳を取るとできなくなるといいますし、
そこまで冒険しなくてもいいんじゃないかと思います。
仲良しならそれでよし!


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