■ スプリング、ハズ、カム。
室井は目の前の建物を見上げて目を剥いた。
湾岸署がある。
―なぜここに。
何故にもなにも、まさか湾岸署が歩いて室井に会いにやってくるわけもない。
室井がここまで歩いて来たから目の前にあるのだ。
室井は眉間に皺を寄せて、考え込んだ。
本庁を出た記憶はあるが、それ以降の記憶がない、何故か思い出せない。
だからと言って、神隠しに会ったわけでもなければ、宇宙人にさらわれてきたわけでもない。
間違いなく自分の足で歩いて湾岸署までやってきたのだ。
それも無意識に。
室井の眉間の皺が深くなる。
疲れているのだ。
今日はろくなことがなかった。
上司に意見し煙たがられ、部下と噛み合わず空回りし、挙句うっかり新城と顔を合わせてしまいたっぷりと嫌味を言われた。
そんなことで一々へこんではいられないが、身体ではなく心で疲労を感じていた。
だから、こんな間違いを犯した。
どんな間違いだと内心で自分に突っ込む。
湾岸署の前で立ち尽くした。
―何故こんなところにいるのか。
「30分なんて絶対無理だって」
「そうかしら?でも、だって、ただよ?」
湾岸署から、見知った男女が出て来た。
「そりゃあ、そうかもしれないけどさー」
「なんかいける気がするのよね」
「普通はいけないよ」
「私が普通じゃないって言いたいの?」
「……滅相もない」
「何よその間は、青島君」
「だって、すみれさん……あれ?」
目を丸くした青島と視線が合い、室井はハッとした。
「室井さん?」
驚いた顔をしている。
室井がこんなところで突っ立っているのだから、それも当然だ。
自分自身でも驚いている。
駆け寄ってこようとする青島に気付いて、何故か室井は慌てて踵を返した。
青島と話したくないわけではなかった。
足が勝手に動いただけである。
室井が湾岸署まで来てしまった原因と同じだ。
スタスタ歩いていく室井の後ろ姿を、青島は呆然と見送った。
「どうしたの?室井さん」
「さぁ、俺に聞かれても…」
不思議そうなすみれに、青島も首を捻る。
訳が分からないのは、青島も一緒だった。
何故室井が湾岸署の前にいたのか。
何故青島の顔を見て逃げるように立ち去ったのか。
青島は遠ざかっていく室井の後ろ姿と、すみれを見比べて、室井を指差した。
「ちょっと、追っかけてきていい?」
すみれは手で払うような仕草を見せた。
「なんか気になるしね、行ってきたら?」
「ありがと、気を付けてね」
すみれに手を振って駆け出した青島の背中に、すみれの声がした。
「青島君も気を付けなさいよー」
何にだろうかと思いながら、青島は室井を追った。
―そういえば。
足早に歩きながら、ふと思い出した。
そういえば、本庁を出てすぐに、観光客らしき女性に台場への行き方を聞かれた。
だからといって、間違えて台場に向かうなんていうことがあるだろうか。
しかも、室井が向かったのは、湾岸署である。
台場までの行き方を説明しながら、室井が思っていたのは別のことではなかったか―。
大股で青島が駆けてくる。
足音でそれを知り、室井は眉間に皺を寄せた。
「室井さんっ」
声をかけられて、仕方なく足を止める。
振り返ると、青島がいた。
常日頃身体を使って捜査をしているせいか、これくらいの駆け足では息も乱れないらしい。
少し戸惑った顔の青島を見上げて、素っ気なく言った。
「なんだ」
「なんだじゃないですよ、室井さんこそどうしたんです?」
青島がもっともな疑問をぶつけてくる。
「どうもしない」
「なら、どうしてうちの署に?」
無意識に来ていた。
そんなことを言えば、余計に心配されるかもしれない。
室井は再び青島に背を向けると歩き出した。
すぐに青島が追ってくる。
「ちょっと、室井さん」
「たまたまだ、たまたま通りかかった」
「こんなところにたまたま?」
そんな言い訳が通用するとも思えないが、室井は頷いた。
「そうだ」
そういうことに、しておきたかった。
早足になる室井の後を、青島は難無くついてくる。
大股で隣りに並び室井の顔を覗き込んでくる。
「ね、室井さん、何かあったんじゃないですか?」
あったといえばあった。
何もかもがうまくいかない日だった。
多少の挫折や憤りで諦めるつもりも投げ出すつもりも毛頭ないが、前向きな精神状態とは言い辛い。
冷静さを欠いた人間に、最善の仕事ができるとは思えなかった。
どこかで気持ちを切り換えなければならない。
「室井さん、何かあったんなら、話してみませんか」
青島の気持ちは嬉しいが、青島に話しても仕方がないことだ。
ただの愚痴になる。
「役には立てないかもしれませんけど、愚痴聞くくらいならできますよ」
室井は足を止め、横目で青島を見た。
思ったよりもずっとまじめな顔をしていた。
「…心配してくれているのか」
小さく呟くと、青島は目を見張り、視線を泳がせ、曖昧に笑った。
「そりゃあ、あんなとこに突っ立ってるの見たら、心配にもなるでしょ」
茶化すような言い方に彼の照れを感じて、本当に青島が室井のことを心配してくれているのが分かった。
他人のことにどうしてそんなに親身になれるのか。
出会った頃は不思議で仕方無かったが、今なら分かる。
それが青島俊作という男の正義だ。
「で?どうしたんすか、一体?」
照れ笑いが、室井を気遣うような柔らかい笑みに変わる。
室井は眩しく感じて目を細めた。
―ああ、そうか。
青島の顔を見ていたら、妙に納得した。
何故湾岸署に来たのか分からなかったが、室井が用もないのに湾岸署に来る理由など一つしかなかった。
「君に会いたかっただけか」
うっかり口に出すと、青島が目を剥いた。
その顔を見て、なにかとんでもないことを口走ったのだと理解する。
とんでもないことどころではない。
室井はむやみに眉毛を上下させると、再び歩き出した。
さっきよりも更に早足になる。
一瞬遅れて、青島が駆け寄ってくる。
「ちょ、ちょっと待って、室井さんっ」
「何でもない」
「何でもないって」
「何でもないんだ、忘れてくれ」
「そんな無茶なっ」
頬をひきつらせ、強張った口をなんとか動かし、精一杯の言いわけを口にする。
「元気だろうか、と思っただけだ」
「元気ですけど…そんなことの確認のためにわざわざ?」
電話で済むじゃないかと言わんばかりの口調で言われて、全くその通りだと思う。
だが、他にいいわけが思いつかない。
どんな理由があれば青島に会いたくなるというのか。
そんなもの恋しいからに決まっている。
だからといって、そんなことは言えない。
「室井さん」
「ついでだ、近くまで来たから、ついでに君の顔を」
「俺に会いに来てくれたんじゃないの?」
いくらか攻めるような声音に気づいて、室井は目を閉じた。
やはりどうやってもごまかせないらしい。
室井の嘘が青島に通じるわけもないから、それも当然か。
青島がごまかされてくれないのであれば、ここで逃げることは不可能だし卑怯である。
室井はまた足をとめて青島を見上げた。
覚悟を決めて見上げたのだが、青島の顔を見て呆けてしまう。
「青島」
「なんすか」
「何でそんな顔をしているんだ」
「そんな顔って?」
「……真っ赤だぞ」
耳まで赤く染まった青島の顔に室井は驚いたのだが、当の青島は室井に言われるまで気付いていなかったらしく、慌てたように頬を擦った。
擦ったくらいで消えるわけもない。
青島はパチパチと手の平で頬を叩きながら口を開いたり閉じたりしていたが、結局何も言わずに室井を追い抜いて歩き出した。
唖然とした室井だったが、すぐに青島を追いかける。
「おい、青島」
「今日は暑いっすね」
「そうか?肌寒いくらいだが…」
「室井さん雪国の人だから。極寒くらいが丁度良いんでしょ」
「そんなわけないだろう、俺だって寒いのが好きなわけでは……青島」
話しが大幅にずれている。
最初に逸らそうとしたのは室井の方だが、そんなことは気にしていられない。
室井はどうしても知りたかった。
青島が赤面した理由を。
大股でずんずん進んでいく青島を追いかけながら、室井は言葉を探した。
「青島、ちょっと待ってくれ」
「さっきは室井さんが待ってくれなかった」
返事につまるが、確かにその通りである。
「それは悪かった」
素直に謝ると、青島の歩く速度が少し遅くなった。
前を向いたまま、ぽつりと呟いた。
「どこかで、少し…ゆっくり話しませんか」
頬がまだいくらか赤い。
思わず凝視していると、青島の視線が室井に流れた。
目が合って浮かんだ小さな笑みに、室井は心のどこかでうぬぼれるなと自分を戒めながら、別のどこかで信じられない奇跡が起きたと思った。
「忙しいっすか?」
呆けている室井に、青島が小首を傾げた。
「いや、大丈夫だ」
「忙しかったら、うちの署の前でぼんやりしてませんよね」
悪戯っぽく笑う青島に、室井の頬が強張った。
からかう口調の中にも照れ隠しが混ざっているように感じたのは、室井の気のせいではなさそうだ。
室井は深呼吸をして、精一杯の平常心を心がけて青島を誘った。
「飯でも、食いに行くか」
「いいっすね、俺腹減っちゃって」
力の入り過ぎて硬い声でのお誘いだったが、青島は嬉しそうに笑って頷いた。
二人並んで歩く歩調は、ゆっくりとしたものだった。
生きていれば、信じられない奇跡が起きることもある。
「恩田君は良かったのか?」
「すみれさん?ああ…いいんですよ、どうせ俺には付き合えないし」
「…?さっきは何の話しをしていたんだ?」
「30分で5人前の寿司を食べきったらタダ」
「…は?」
「そういうイベントを、今達磨でやってるんですって」
「……」
「それにチャレンジするってきかないから、一応同僚として止めておこうと思って」
「…そうか」
「いくらすみれさんでも、さすがに無理だと思うんですけどねぇ」
「恩田君はそんなに食うのか」
「食います」
「……」
「俺はそんなに食いませんから、安心してくださいね」
「奢れと言っているのか?」
「冗談っすよ、冗談」
「構わない、奢ってやる」
「お、太っ腹」
「だから、また付き合ってくれ」
「……」
「……」
「そんなの、奢ってくれなくたって、いくらでも付き合いますよ」
「…そうか」
END
2009.3.28
あとがき
珍しくタイトルから決まったお話でした。
私の愛するあの人たちの某舞台から拝借しましたけど、
内容は全く微塵も関係ありません(笑)
語感が良くて、なんか好きです、「スプリング、ハズ、カム」
これから、このお二人は春が来るんじゃないでしょうかね。
無意識に湾岸署まで来ちゃう、っていよいよですね、室井さん(笑)
青島君に元気もらって、また頑張るといいです。
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