■ 甘い生活
『もうすぐ、バレンタインすねぇ』
電話の向こうで青島が言うから、室井はリビングの壁にぶら下がっているカレンダーに目を向けた。
来週末がバレンタインデーだった。
「みたいだな」
『興味なさそうっすね』
青島の笑い声がする。
青島の言う通り、特に興味はなかった。
義理チョコを貰う機会がないわけではないが、甘いモノ自体があまり得意ではなかった。
第一、恋人の青島とすらチョコレートのやり取りをしないのだ。
バレンタインデーに興味などあるわけがない。
青島に言われなければ、当日いくらか貰う義理チョコの存在でバレンタインデーに気付いたことだろう。
『室井さんはチョコレートいらないっすよね?』
青島の質問に室井は少し驚いた。
青島にそんなことを聞かれたのは、長い付き合いだが初めてのような気がする。
チョコレートの要不要を聞かれているということは、くれるつもりでもあるのだろうか。
そうならありがたいし嬉しいが、今更気を遣ったやりとりをする必要もない。
室井はもちろん、青島だって好まないチョコレートだ。
バレンタインだからと形式的なプレゼントを贈ることに意味はない。
なにより、わざわざ形にしてもらわなくても、青島の気持ちならしっかりと室井に届いている。
これ以上何かを望むことは贅沢にすら感じた。
もし青島が贈りたいと思ってくれているのなら喜んで受け取るが、男の青島がバレンタイン用のチョコレートを進んで買いたいと思っているとはとても思えない。
それでも室井が欲しいと願えば買いに行ってくれるつもりはあるのだろう。
そういう意図の質問だと理解して、室井は素直に言った。
「甘いモノはな…」
『ははっ、酒の方がいい?』
「君もそうだろ」
『そうだ、酒の種類の多い居酒屋見つけたんですよ』
日本酒の銘柄をいくつかあげ、気に入ったツマミを熱心に説明して料理も旨かったと教えてくれる。
室井は目元を和らげて、再びカレンダーを見た。
揃いの非番はバレンタインデーの翌日だった。
「日曜日に行ってみるか」
青島が明るい声を出した。
『定休日、調べときますね』
ただでさえ楽しみだった休暇が、更に楽しみになった。
青島は箸を置くと、リビングの床にひっくり返った。
存在感を露にしているお腹に手を乗せてさする。
「あー…苦しい…」
「作り過ぎたな…」
苦笑した室井が、中味の無くなった鍋に蓋をする。
作り過ぎたはずのきりたんぽ鍋は、きれいになくなっていた。
7割は青島が食べたと言ってもよかった。
そのおかげで、床に沈んでいたりする。
「残して良かったのに」
青島は室井を横目で見上げた。
「残せるもんなら、俺だって残したかったですよ」
別に作ってくれた室井を気遣って無理して食べたわけではない。
単純に美味かったから箸が止まらなかっただけだ。
「室井さん、店出せますね」
撫ぜていた手で無意味に腹を叩くと、いい音がした。
「きりたんぽ鍋だけのか」
「いいじゃない、きりたんぽ鍋屋さん。俺ならしょっちゅう通いますよ」
「客が君だけだと、すぐつぶれるな」
「ええー?大丈夫、すみれさんとか連れていきますから」
「…益々儲からんな」
「ああ……確かに」
すみれを連れていけば値切られ、たかられ、下手をすれば食い逃げされかねない。
本人が聞いたら「失礼ね!」と怒りそうだったが、日頃の行いを鑑みれば無理もない想像だった。
食い物に関することだけは、青島からも室井からも、すみれは信頼されていなかった。
真顔で深く頷いた青島に、室井は小さく笑った。
それに青島も笑みを返す。
「ご馳走さまでした、美味かったです」
「そうか、それなら良かった」
揃いの非番は結局自宅でのデートになった。
青島が行きたがっていた居酒屋は、運悪く日曜日が定休日だったのだ。
調べてガッカリしたが、室井が久しぶりにきりたんぽ鍋でも作るかと言ってくれたので、青島の機嫌はすぐに良くなった。
「コーヒー飲むが、いるか?」
立ち上がった室井が聞いてくれるが、生憎と青島の胃は、水分ですら受け入れる余裕がない。
青島は緩く首を振った。
「俺はいいっす、冷蔵庫に缶コーヒーも入ってますよ」
「ありがとう」
室井もコーヒーを落とすのは面倒だったのか、冷蔵庫に向かった。
缶コーヒーを取り出した室井が、冷蔵庫を眺めて首を傾げている。
「どうかしましたー?」
青島が声をかけると、冷蔵庫のドアを閉めて室井が戻ってきた。
「今年はチョコレートを貰わなかったのか?」
毎年バレンタインの後は、冷蔵庫の中にそれと思しきチョコレートが入っている。
それが見当たらないから、室井は不思議に思ったのだ。
青島は横になったまま腕を枕に室井を見上げて苦笑した。
「室井さん、逆チョコって知ってます?」
「逆チョコ…?」
「ええ、今年はそれが流行りなんですって」
「義理チョコとか、友チョコとかの仲間か」
「おっ、友チョコなんて言葉、良く知ってましたね」
「それくらい俺でも知ってる……でも、義理チョコとの違いはなんだ?」
「さあ……一緒じゃないっすかね?」
首をひねった室井と一緒になって青島も首をひねる。
どちらも知らないのでは、答えが出るわけがない。
実際は、女性の友人同士が贈り合うチョコレートのことを指すが、青島たちからしてみれば義理チョコと大差はないだろう。
「…それで?逆チョコとは?」
室井が青島の傍に腰を下ろした。
「男が女の子にチョコレートをあげることです」
缶コーヒーを開けようとしていた室井の手が止まったが、天井を見上げていた青島は気付かなかった。
「すみれさんがね、『今年はそれが流行りだから、青島君がちょうだいね』って言うからさ」
わざわざ声色をかえて、すみれの台詞をまねした。
小首を傾げて二コリとおねだりするすみれは可愛かったが、そんなおねだりは是非とも彼氏に向かってやってもらいたかった。
どうせお菓子屋さんの陰謀でしょう?と言ってはみたが、だから?と笑顔で聞き返されればそれ以上の反論も出てこない。
陰謀であろうとなかろうと、すみれには関係ないのだ。
たまには私も美味しいチョコレートが食べたい!と主張するすみれに、青島が勝てるわけもない。
こうなったら、何を言っても無駄なのである。
仕方がないから、普段でさえ行かないのに商戦で激混みのデパ地下に一人挑んで、チョコレートを買いすみれと雪乃にプレゼントしていた。
「あ、知ってます?高いチョコレートってね、ひと粒……」
400円もするんですよ、と言いかけて、青島は言葉を止めた。
見上げた室井が、怖い顔をしていたからだ。
「ど、どうしたんすか?」
「なにがだ」
「何って……凄い形相ですよ」
青島が恐る恐る言うと、室井は気まずそうに眉間に指をあてて皺を伸ばす仕草をした。
「…なんでもない」
「いや、なんでもないって面じゃ…」
「なんでもない」
きっぱりと繰り返されても、ちっとも信憑性がない。
今までの会話のどこに室井の機嫌を損ねるポイントがあったのか。
今更すみれたちに嫉妬するとは思えない。
本人が聞いてきたように、義理チョコのやりとりくらいは毎年している。
そのことで室井が文句を言ったり、不満そうにしていたことはなかった。
大体、義理チョコなら室井だって貰うのだから、青島が貰ったからといって怒ることもないだろう。
今年に限って言えば、貰っておらずあげてはいるが。
「恩田君にあげたのか?」
室井が酷く気まずそうに聞いてくる。
「え?ええ、すみれさんと雪乃さんに……ダメでした?」
困った顔で起き上がり座りなおして、室井を正面から見据えた。
もしかして、あげたことが気に入らないのだろうか。
まさかとは思っていたが、本当に妬いてくれているのだとしたら、ちょっとは嬉しいかもしれない。
だが、室井は首を振った。
「いや、そういうわけじゃない」
「じゃあ、どういう…」
「……なんでもない」
室井が顔をそむけた。
強張った横顔を見つめて、青島は首を傾げた。
身体ごと傾く勢いで首を傾げていたが、唐突に目を見張って身体を戻した。
「もしかして、室井さんも欲しかったの?」
図星だったのか、室井の横顔が赤く染まっていく。
耳まで赤くなる様をまじまじと見つめて、青島は目を剥いた。
「だって、室井さん、いらないって言ったじゃないっ」
チョコレートを好まないことは知っていた。
青島だって室井が好まないものをわざわざあげたいとは思わない。
だから、今までバレンタインにプレゼントしたことはなかった。
室井からもなかったから、同じ気持ちなのだろうと思っていた。
だが、今年はすみれにねだられ、チョコレートを買うことになってしまった。
どうせ買うのなら室井さんの分も買おうかなという気まぐれで、青島は室井に電話で聞いていた。
『室井さんはチョコレートいらないっすよね?』
室井からの返事は予想通りだったため、青島は今年も室井にチョコレートを買っていない。
「い、いるんなら、そう言ってくれれば良かったのに…」
もしかしたら、聞き方が悪かったのだろうか。
いらないっすよね、だなんて決めつけて聞いたから、欲しいと言えなかったのだろうか。
やっぱりなーそりゃーそうかーと思っただけで、室井の返事を疑ってもみなかったことを後悔した。
「欲しかったわけじゃない……ただ」
室井が眉間に皺を寄せて呻くように呟く。
「お前が誰かにあげるなんて、思ってもみなかったんだ」
怒っているのではないかと思うくらい怖い顔をしている室井を見ながら、青島は考えた。
電話で尋ねた時には、本当に欲しくなかったのかもしれない。
青島が誰かにチョコレートをあげたと知って、今欲しくなったということか。
すみれたちが貰っているのに自分が貰っていないことが嫌なのかもしれない。
つまり、これはやっぱり、嫉妬なのではないだろうか。
―室井さん、可愛いなぁ。
思わず嬉しくて表情を緩めてしまう。
「…?」
訝しげに顔を顰めた室井が眉間の溝を深くするから、青島は慌てて居住いを正しぺこりと小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、室井さんの分買ってない」
「いい、いらないと言ったのは俺だ。俺の方こそ…」
床に手をつき身を乗り出して、言いかけた室井の唇を軽く塞いだ。
不意を突かれてきょとんとした室井に力強く宣言する。
「来年!」
「…なに?」
「来年は任せてください」
今年の分も、なんなら今までの分も含めて、豪華なチョコレートを贈ると約束する。
室井は青島をじっと見つめて、苦笑を浮かべた。
眼尻が優しく下がっている。
「いいんだ別に」
「良くない、全然良くない」
「チョコレートはいらないが……」
言いかけて口を噤む室井に、青島は首を傾げた。
「なんでもない」
室井は両手で青島の頬を掴んで、唇を重ねた。
誤魔化すようなキスは気に入らないが、抵抗する気にもならない。
薄く開いた唇に、室井の舌が侵入してくる。
それに応じながら、目を閉じて室井に身を寄せた。
「青島…」
抱きしめられて、室井の肩の上に顎を乗せる。
「室井さん、続きは?」
「してもいいのか?」
「…え?」
横目で室井を見ると、熱っぽい眼差しと視線がぶつかる。
「あ、違う、そっちの続きじゃなくて、話しの続き」
室井の頬が強張った。
その頬に唇を押し付けて、青島は笑った。
「いや、そっちの続きもいいですけど」
「いいのか」
「ん、もちろん……あ、でも後ちょっと待って」
青島はごろごろと室井の首筋に懐きながらも、片手で腹を押さえた。
「今したら、口から出てくるかもしれない」
何がといえば、先ほど食べ終えたばかりのきりたんぽである。
忘れていたが、腹が張り裂けそうなほど満腹だったのだ。
激しい運動はもう少し後の方が良さそうだ。
「…色気がないぞ、青島」
さすがに呆れた顔をした室井だったが、青島が悪びれずに笑うとつられたように笑みをこぼした。
寄りかかってくる青島を抱きとめたまま、室井は小さく囁いた。
「チョコレートはいらないから」
「ん?」
「来年もこうしていたい」
ガバリと顔を上げた青島は、室井の顔を穴があくほど見つめ、その頬をつまんだ。
「当たり前でしょ!」
そんなことは頼まれるまでもない。
そう言わんばかりの青島に、頬をつままれたまま室井は笑った。
END
2009.2.11
あとがき
こんな人たちなら、バレンタインに限らず毎日甘いんじゃないかと!
毎日は会えないでしょうけど、会えない時間まで甘いんじゃないかと!
ね!そんなわけで「甘い生活」でございます!
石投げてやりましょう!(何)
また、えらい文句なく甘い話ができてしまいました…(遠い目)
バレンタインということで、多めに見てあげてください。
いつもじゃないかなんて言わないであげてください(涙目)
青島君、たぶんすみれさんや雪乃さん以外にも
義理チョコもらってると思うんですけどね〜。
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