青島は机の引き出しを開けて、領収書の束を取り出した。
思い出して、胸ポケットから財布も取り出す。
その中にも最近使った領収書が入っていた。
「うわ、また随分溜め込んだわねー」
背後からすみれが覗き込んでくる。
青島は肩越しに振り返り愛想笑いを浮かべた。
「すみれさん、精算手伝ってくんない?」
「やぁよ、溜め込んだ青島君が悪いんでしょー」
「ここんとこ忙しかったんだよ」
いじけたように唇を尖らせ、時計に視線を向けた。
今日中に出さないと精算してやらないよ、と嘘か本当か袴田に脅されている。
それだけ領収書を溜め込んでいた。
「面倒くさがって、後回しにしてるから」
自業自得だと笑われるが、その通りなので返す言葉もない。
刑事課にいれば皆忙しく、言い訳にもならない。
青島が単にだらしないということになる。
「ああもう、面倒くさいなー」
青島は頭を乱暴に掻いた。
どの捜査に何で金がかかったのか、思い出さなければならなかった。
「精算、諦めれば?」
すみれが悪戯っぽく笑う。
経費削減にうるさい上司も喜ぶだろうが、そんなわけにはいかなかった。
「冗談じゃないよ」
ぼやきながら腕時計を見ると、定時までまだ大分時間があった。
「青島君、今日なんか予定でもあんの?」
「なんで?」
「さっきから時計気にしてる」
すみれに指摘されて、青島は初めてそのことに気が付いた。
腕時計からゆっくりと視線をそらし、書類に向き直る。
「別に何もないよ」
「本当にぃ?」
「今日中にって課長に言われてるからね、時間が気になるだけ」
「なんか怪しいなー」
なに食わぬ顔をしている青島に、すみれが目一杯疑惑の目を向けてくる。
隠すようなことは何もない。
ただちょっと、言いたくないだけである。
浮かれている自分を悟られたくないだけ。
「なんか隠してる?」
耳元ですみれが囁く。
くすぐったさにちょっと首を竦めながら、青島は否定した。
「隠してないってば」
「私に内緒で美味しいものでも食べに行くんじゃないでしょうね」
「そんな後が恐ろしいマネ、できないよ」
「じゃあ、室井さんに内緒で浮気とか?」
室井の名にどきりとしながら、青島はすみれを横目で睨んだ。
「それこそ、するわけないでしょ」
「後が怖いもんね」
肩を竦めるすみれに苦笑して、青島は中西を指した。
「呼んでるよ」
タイミング良く、中西が「恩田君恩田君恩田君」とすみれを呼んでいた。
「はぁい、なんですかー」
面倒くさそうに返事をしながら離れて行くすみれに、青島はひっそりと溜め息をついて、領収書の精算を始めた。
煙草を吸いながら、腕時計を見る。
見てから、また時計を見ている自分に気付いて、青島は苦笑した。
精算も無事に終わり喫煙室で一服していたのだが、それでも時間が気になった。
定時まで後30分。
何もなければ、定時で上がるつもりだった。
咥え煙草で胸ポケットから携帯電話を取り出すと、昼過ぎに受信したメールをもう一度開く。
差出人は室井で、メッセージは短かった。
『空港についた。また、後で。』
それだけだったが、青島には十分である。
夕べ電話で飛行機の時間は聞いていた。
新しい官舎の住所も聞いてある。
仕事が終わったら室井の部屋に行く約束も取りつけた。
だから、また後で、なのだ。
青島はメッセージを見つめたまま、ついつい笑ってしまった。
室井が本庁に帰ってくる。
「何を一人でニヤニヤしている」
不意に声をかけられて、青島は弾かれたように顔を上げた。
喫煙室の入り口に、見知った顔だが久しぶりに見る顔を見付けて、目を丸くした。
「新城さん?」
「室井さんが帰ってくるのが、そんなに嬉しいか」
嫌味なのだろうが腹は立たたず、青島はちょっと笑ってみせた。
「そりゃあね、嬉しいっすよ」
待っていたのだから、当然である。
新城は面白くもなさそうな顔をしていたが、黙って青島の隣に腰を下ろした。
横目で新城を見る。
「うちに、なんか用っすか?」
「用事がなければ、こんなとこに来るか」
「ごもっともで」
にべもない新城に、青島はひっそりと溜め息を吐いた。
自分から話しかけてきたくせにこの態度である。
そんなことでへこたれるような青島ではなかったが。
「なら、こんなとこでサボってていいんすかー?」
「サボってるお前に言われたくない」
「俺は休憩してんですよ」
「同じことだろ」
「一服くらいさせてくださいよ」
「煙草を消せ、煙たい」
「ここ喫煙室ですよ」
呆れたように言いながらも、青島は煙草を灰皿に押し付けた。
別に新城が怖くて従ったわけではなく、煙草が短くなっていただけだった。
二本目に手を付けようか悩んでいると、新城が言った。
「今日の飛行機で戻ってくるらしいな」
「みたいっすね」
誰と言わなくても室井のことだと分かる。
新城が話しかけてきた時点で、室井の話しがしたいのではないだろうかとも思っていた。
「迎えに行かないのか?」
意外なことを聞かれた気がした。
「仕事中っすよ?行けるわけないでしょ」
「そうか、まぁ必要はないか」
知らない土地に行くわけではない、東京に帰ってくるだけだ。
新城の言う通り、迎えが必要なわけがない。
「それに、小原君が行ったようだしな」
青島は思わず新城を振り返った。
「誰ですって?」
「小原久美子、室井さんが世話になった弁護士だ」
聞いたことないのかと聞かれて、首を振る。
話しには聞いていた。
弁護士になりたての若い女性だったが、室井のために尽力してくれた一人だったと聞いた。青島は会ったこともなかった。
「彼女が室井さんを迎えに?」
「室井さんが戻ってくるという話しをしたら、随分喜んでいた」
それはありがたいことだと思う。
青島のことではないが、室井の復帰を喜んでくれる人がいるのは嬉しかった。
だけど、腑に落ちない。
「なんで弁護士さんが迎えに?」
「さぁ…早く会いたかったんじゃないのか?」
意地悪く笑う新城に、青島は顔を顰めた。
新城は青島と室井の関係を知っているから、からかっているのかもしれない。
からかわれているだけだとしても、気分の良いものではない。
むやみやたらに嫉妬するほど若くはないが、青島は小原とは面識がないから、室井と小原の間にどんな付き合いがあったのかも知らなかった。
「彼女のことは、室井さんから聞いてないのか?」
「優秀な弁護士さんだって聞いてますよ」
「若いし、経験は足りないがな」
青島は煙草を取り出し、二本目を口に咥えた。
「人の痛みが分かる人だと、きっといい弁護士になるって言ってました」
室井が前にそんなふうに彼女について語ったことがある。
今まで忘れていたが、新城と話していて思い出した。
「室井さんは相変わらず甘いんだな」
ムッとしたが、振り返って見た新城の顔が少し笑っていたから、室井の批判をしたいわけでもないらしい。
顔を見ていたことに気付いたのか、急に無表情になった。
「室井さんに伝えておいてくれ」
「え?」
「折角戻ってくるんだ、誰かさんにつられて暴走するのも大概にしておけ、とな」
青島が眉を吊り上げると、新城は不適に笑い腰を上げた。
感じは悪いが新城らしい激励と思えないこともない。
了解と言って苦笑し、煙草に火をつける。
行きかけた新城が振り返った。
「室井さんに浮気されないように気を付けろよ」
それは決して、気遣いでも励ましでもない。
むしろ、嫌がらせと言ってもいい。
青島がむっつりすると、新城は満足そうな顔をした。
「ご忠告、どうも」
ベッと舌を出した青島を鼻で笑って、新城は去って行った。
「馬鹿馬鹿しい」
煙を吐きながら、一人呟く。
室井の浮気の心配など、いわゆる遠距離恋愛の間ですらしたことがなかった。
そんな心配がいらないだけの信頼関係にある。
ましてや、室井は浮気なんかができるタイプではない。
女性と気軽に友人になれる性格でもない。
少なくても、青島は室井が親しくしている女性を知らなかった。
知らないだけで、本当はいるのかもしれない。
小原久美子。
世話になったと言っていたから、友好関係にはあったのだろう。
少なくても、空港に迎えに行くという気になるくらいには、親しいということになる。
「だからって、浮気なんて」
青島は苦笑して、煙草を揉み消した。
馬鹿馬鹿しいことだった。
室井に限って有り得ない。
室井にも青島の知らない友人がいて当然なのだ。
そんなことに、一々嫉妬していられない。
そう思ってはいたが、灰皿に残った長いままの煙草が青島の動揺を表していたのかもしれない。
インターホンを押してから、ドアが開くまでの僅かな時間だけ、青島は緊張した。
なんで今更と思うが、久しぶりなんだから仕方がないとも思う。
ドアが開いて室井が姿を見せると、青島は自然と笑みを浮かべた。
「おかえり、室井さん」
会ったら何て言おうかな、なんて考えていたが、真っ先に出た言葉はそれだった。
室井は小さく笑うと、一つ頷いて見せた。
「あ、これ、引越蕎麦です」
手にしていたビニール袋を差し出す。
「コンビニので悪いけど」
「いや、助かった。ありがとう」
越してきたばかりで、料理をする余裕があるとは思えなかった。
コンビニの蕎麦でも、夕飯になるだろう。
「ビールも入ってますから、乾杯しましょ」
ニッと笑うと、室井の手が伸びてくる。
くしゃりと青島の髪を掻き混ぜると、もう一度「ありがとう」と言った。
「弁護士さん、迎えに来てくれたんですって?」
蕎麦をすすっていた室井が、少し驚いた顔をした。
「なんで知ってる?」
当然の疑問に苦笑しながら、青島は空になった蕎麦の容器を床に置いた。
荷受けは済んでいて、テーブルもソファーもあったが、荷物が置いてあり使える状態ではなかった。
リビングに転がるダンボールを見れば、余計な物が少ない室井の部屋でも、それなりに物があるのだということが分かる。
明日の休暇は部屋の掃除で終わるだろう。
青島もそのために明日は休暇にしてあった。
人手がいるだろうし、何より一緒にいたかった。
そんな説明はしなかったが、青島が休暇を取ると言っても室井も遠慮はしなかったから、同じ気持ちでいてくれているのだろう。
「新城さんがね、わざわざ教えてくれましたよ」
缶ビールを飲み干すと、二缶目に手をつける。
「そうか、そういえば彼女も新城に聞いたと言っていたな」
室井は納得しつつも、溜め息を吐いた。
どうやら、彼女が迎えに来たことは間違いないらしい。
―へーそうなんだふーん。
そんな感想しか出ない。
新城が言うからには事実なんだろうと思っていたからだ。
「昨日連絡をもらって、必要ないとは言ったんだが」
迷惑だったわけではないのだろうが、どこか戸惑った様子だった。
いくつも年下である彼女に懐かれて、困惑しているのかもしれない。
青島は笑って、からかった。
「いいじゃないの、美女のお迎え」
「会ったことないだろ」
室井の眉間に皺が寄る。
「会ったことはないけど、可愛いコだって聞いてますよ」
その手の話しの出所は、真下だった。
何の情報を収集して解析しているのか、気になるところである。
「まぁ、そうなのかもしれないが」
深い意味のない肯定だと分かっているのに、少しだけ胸がちくりと痛む。
ちょっとデリカシーがないぞ室井慎次と思ったが、からかった青島が言う言葉でもなかった。
内心で苦笑しながら煙草を取り出す。
「吸っても?」
今更だが、一応新居なので断った。
室井が頷くと、空いている缶を灰皿代わりに煙草を吸い始める。
「悪いな、どこかに灰皿があるんだが」
ダンボールを見回すような仕草をした室井に、青島は笑みを溢した。
室井の自宅には、随分前から青島専用の灰皿が一つだけあった。
広島に行く時にも、その灰皿を持って行ってくれたのだ。
大したことではなかったが、一度遊びに行った広島でそれを見付けて妙に嬉しかったりしたものだ。
「明日、探しましょう」
「そうだな」
青島が笑いかけると、室井も小さく笑った。
それきり沈黙が落りる。
今更沈黙が気になる間柄ではない。
話したいことがないわけではないが、急いで話さなければならないこともなかった。
黙々とビールを飲みながら室井を見ると、室井も同じように青島を見た。
視線がぶつかり、どちらからともなく笑みを溢す。
「元気だったか?」
思い出したように室井が聞いてくる。
「ええ、見ての通り。室井さんは少し痩せた?あっちも忙しかったんでしょ?」
「痩せたか…?」
自覚はないのか、頬をなぜて首を傾げる。
「忙しかったが、いい経験になった」
「そうっすか」
青島は笑って頷いた。
室井がそう言うということは、言えるだけの成果があったのだろう。
遠回りをしても無駄ではない。
室井の選択は、いつもそうだった。
それを、青島は誇らしく思っていた。
「お疲れ様でした」
室井に向かって缶を差し出すと、乾杯する。
「ああ…」
乾杯した室井の目に意志が宿った。
「いや、これからだな」
力強く呟いて、ビールを呷る姿にゾクリとして、久しぶりに感じる興奮に青島は苦笑した。
「どうした?」
「いや、なんでも」
首を振りながらも、何に興奮してるんだか、と自分を笑う。
誤魔化すようにビールを飲み、話題を変えた。
「空港からは?まっすぐここに?」
「ああ、彼女が車で送ってくれた」
「お礼にお茶でも…とか言って、連れ込んだんじゃないでしょうね」
ニヤニヤからかうと、室井は眉間に皺を寄せた。
恋人が聞くことではなかったかもしれないが、何故だかついつい茶化してしまう。
「青島…」
憮然としている室井に、青島は慌てて首を振った。
「冗談っすよ、ジョーダン」
溜め息混じりに室井が言う。
「お礼に昼飯はご馳走したが、部屋にはいれてない」
室井らしいなと思った。
馴々しくはしないが、礼儀は重んじる人だ。
交際しているわけでもない女性を、一人暮らしの自分の部屋に室井から招き入れることはまずないだろう。
だから青島も、ふざけてからかえたのだ。
彼女とのことは何も疑っていない。
だが、何も気にならないと言えば、嘘である。
気にしないようにしようと思う程度に気にしているのは確かだった。
気になるからこそ、茶化してまで話題にあげているのかもしれない。
「弁護士さんかー、何かあったら俺もお世話になろうかな」
「知り合いに弁護士がいるって言ってなかったか?いや、そんなことより、何も起こすなよ」
「分かってますってばっ、もしもの時の話しっすよ」
「…ならいいが」
「室井さんの紹介なら、安くなったりしないかな?」
「ならないだろう」
「そうかなぁ、わざわざ迎えに来てくれるくらいだから、好かれてるんだろうし」
「おい、青島」
「いや、別に変な意味じゃなくって」
「そうじゃなくて」
言葉を遮られて、青島はビールを飲む手を止めた。
改めて室井を見る。
「もしかして、妬いてるのか?」
青島が目を丸くすると、室井は気まずそうに続けた。
「いや…さっきから、彼女の話しばかりしているから」
室井の指摘は正しい。
再会したばかりで他の話題がないわけでもないのに、青島は顔すら知らない彼女の話しばかりをしていた。
室井が不自然に思っても、当然だった。
青島は煙草を缶に押し付けて、口角を下げた。
「そーいうことはねぇ、思ったって聞かないでくださいよ」
むっつりと呟きそっぽを向くが、その頬が若干赤くなる。
認めたくはないが、彼女のことがどうにも気に掛かるのは、そのせいだった。
つまり、妬いているだ。
室井を空港まで迎えに行った彼女に妬いていた。
「青島…」
そっぽを向いた青島の頬に室井の手が触れた。
ちらっと室井に視線を向けると、嬉しそうな困ったような顔をしているから、青島は苦笑した。
「別に、疑ってはないですよ」
ただちょっと…と呟いて、室井に手を伸ばすと、その手を掴まれ抱き締められる。
青島もすぐにその背を抱いた。
久しぶりに抱き締めた身体は、目を閉じしがみつくことで強く感じた。
室井の手が青島の頭に触れる。
「ただ、なんだ…?」
黙ってしまった青島を静かに促す。
青島は目を開けると、顔を上げた。
「俺だって早く会いたいのになーって、思ってました」
照れを誤魔化すように笑うと、室井は目を細めた。
「俺もだ」
顔が近付いてくるから、目を閉じる。
触れる唇の感触も久しぶりだと感慨に浸ったのも一瞬で、じわじわと蘇ってきた欲情が勝る。
唇が離れると、青島はちらりと視線を動かした。
リビングから続くドアの向こうは、おそらく寝室だ。
「室井さん」
「なんだ」
「ベッドってもうあんの?」
「ある」
即答されて、思わず笑ってしまった。
期待していることは、二人とも同じか。
ベッドが無くたってどうとでもなるが、あった方がありがたい。
「じゃあ」
「…ああ」
短い言葉を交わして立ち上がった。
当たり前だが、視線の先に室井がいる。
室井も青島を見ていた。
なんとなく微笑んで見せると、室井も小さく笑い返してくれる。
「おかえり、室井さん」
改めて、そんな言葉が口をついた。
室井が本庁に帰ってくると信じていたから驚くような出来事ではなかったが、やはり嬉しかった。
何より信頼できる男が本庁に帰ってきてくれたのだ。
また一緒に頑張れる。
そう思うだけで、やる気が出た。
「待たせてすまない」
室井の表情が引き締まった。
待たせたというが、周囲の予想より遥かに早く室井は復帰を果たしている。
努力も苦労も半端ではなかったはずだ。
そんなことは言わないし見せないのが室井らしかった。
出会ってから何年経っても、青島が惚れたままの室井である。
「好きですよ、室井さん」
唐突に告げたら室井が目を剥いた。
その顔がおかしくて声を上げて笑うと、室井は眉をひくりと動かした。
「なんだ、いきなり」
「別に」
笑いながら、首を振る。
「言いたくなっただけ」
「俺も好きだ」
ぶっきらぼうに言われて、青島の笑顔が柔らかくなった。
覗き込むように、室井を見る。
「頑張りましょうね、俺たち」
室井は力強く頷いた。
それに青島も頷き返して室井の手を掴むと、並んで寝室に消えた。
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