ただいま。
おかえり。
一緒に暮らしてるわけでもないのに、いつの間にか、そんな風に言い合うようになっていた。
言い馴れなかった最初の頃は、変に気恥ずかしくて、言い淀んだり、真っ赤に照れたりもしたけれど。
その度に、彼は――室井さんは――ただただ微笑うだけで。
それが余計、恥ずかしさを増長させる時もあったけれど。
でも、本当は。
単に、恥ずかしかっただけじゃなくて。
嬉しい、とか。
安心する、とか。
………愛しい、とか。
想う気持ちに、嘘は吐けなかったし、隠したくもなかった、から。
ねぇ、室井さん?
オレ、あなたに言いたいことがあるんだ。
青島が「それ」に気付いたのは、室井が浴室に消えてからしばらく経ってのこと。
タイトルを見ただけで頭痛と眩暈が一挙に襲ってきそうな、分厚い専門書が夥しく並んだ本棚の隙間。ま
るで隠れるかのように、ひっそりと、それはあった。
ちらり、浴室の方を見遣る。シャワーの水音が微かに聞こえるところからして、室井が上がってくるまで
まだ20分くらいは余裕を見ても良さそうだ。ほんの少しの興味と、多大な悪戯っ気から、青島はそれに手
を伸ばした。
それは、一冊のアルバムだった。
「室井さん、全然変わってないや」
くすくす、笑い声を忍ばせながら、一枚一枚、ページを繰っていく。
今の姿からは絶対に想像もつかない、生まれたばかりのあどけない表情、何処にでも居る腕白そうな少年
時代。子供の面影を少しずつ削り取りながら、成長は時の流れに従って規則的に続いていく。中学生の室井
なんて、柔道着を着て格好つけてはいるけれど、それもまだ子供の領域。
ぱらり、捲った次に目に飛び込んできた、学ラン姿。これは高校生の頃だろうか。
「この頃から眉間に皺寄ってたんだ」
ぷっ、と吹き出してから、青島は少し色褪せた写真の中に佇む「少年」の眉間を、指先でそっと撫でた。
今ほどではないにしろ、妙に気難しげにカメラを見据える、少年。この頃から、急速に「少年」は霞んで
いき、「大人」が目覚めていく。
大人の室井しか知らない自分が、こんな形で少年であった室井と出会えたことが、素直に嬉しい。
「家族、かあ」
青島はアルバムを捲り続けるうちに、途中から気付いていた。
毎年、どこかに必ず家族の写真がある。
教師をしているという両親と、今は既に嫁いで数年になるという妹。残念なことに後半には姿が無かった
が、室井の子供の頃には、その隣に祖父母も居た。
恐らく、室井が大学を卒業する年まで――故郷を離れるまで――毎年恒例の家族行事の一つだったのだろ
う。
そんなアルバムの、一番最後のページには。
最後の、家族の肖像が。
「………」
家族。
それが、不意に青島の心を翳らせた。
室井が故郷に残している家族を大切に想っていることは、知っている。青島がこの部屋に居る時にも、時
々両親や妹から電話が掛かってきて、会話の切れ端を耳にしたことがあった。紡ぐ言葉も、その音色も、垣
間見た表情だって。いつも穏やかに微笑っていた。
自分に見せる貌と似ているようで、何処かが違う、微笑。
それを見る度に、心が微かに軋むのを知っていた。
家族。
自分が室井の傍に居続ける限り、室井は新たな家族を構築することは出来ない。
気持ちだけは「家族」のつもりでいたとしても、本当の意味での「家族」には成り得ない。所詮、「家族
ごっこ」でしかないのだ。
室井の血を受け継いだ子供が、この世に生まれることは到底無い。
自分が室井を望み続ける限りは。
そして、室井が自分を求め続けてくれる限りは。
ふ、と小さく息を吐いて、青島はアルバムを閉じた。
見なきゃ良かった、とは思わないけれど。
今まで考えないようにしてきた、逃げ続けてきた現実を突きつけられた気がして。
膝の上に載せたアルバム。いやに、重い。
「青島?」
不意に背後から声を掛けられて、青島は慌ててアルバムを本棚に仕舞った。
「あ、室井さん、早かったですね」
取り繕うように微笑ってみせても、この手の誤魔化しが室井に効いた試しは無い。案の定、苦い貌をしな
がら、室井は小さな息を吐いた。
「……見たな?」
「え?な、何を」
「お前が今仕舞ったの、アルバムだろう?」
「……あ、はははは」
「他人のアルバムなんか見たって、何がおもしろいんだ?」
他人。
誤魔化しの微笑を一瞬で凍りつかせるには、それは充分効果があった。ありすぎた。
他人。
突きつけられた現実が、更にリアルな質量を伴って、青島を襲いに掛かる。
そう、他人なのだ。
確固たる目に見える繋がりも社会的認知も無いふたりは、ただの「赤の他人」でしかない。
かくり、と青島の首が落ちる。
何だろう。何か途轍もなく重いものが頭に乗っかった気分だ。
分かってる。他人だ。
今更、そんなこと言われなくたって。分かってるよ。
分かってるんだ。
分かってる。
けど。
「………さい」
「え?」
「………言わないでください」
「青島?」
怪訝になった室井は、青島の目の前に腰を落とし、俯いたままの顔を覗き込んだ。
「他人だなんて………っ、言わないでください!」
ぱっと持ち上がった顔。きっと正面を見据えて。室井の袖を力のあらん限り、握り締めて。
口を衝いたのは、衝動と、焦燥と。
「え?おい、青島……」
「分かってるけど、何にもなりはしないけど、それでも!……他人だなんて、室井さんの口から、聞きた
く、ない……」
室井は困惑したような瞳で、青島をじっと見つめ返した。
何の意図も無く呟いた言葉に、過剰とも言える反応。
そこに映し出される、心の機微。室井には、視えた。
青島は怒っているのではなく。
怯えているのだと。
先行きの見えない関係。終止符が打たれるのは、いつとも知れぬ遠い未来のことかもしれないし、明日、
かもしれない。
いつかは何らかの形で、きっと終わりは来る。
始まりがあるのだから、当然、終わりだってあるのだ。
それは「死」かもしれないし、「心の乖離」かもしれない。
どちらなら許せるとか、認められるとか、納得できるとか。そんな問題じゃない。
終局自体を受け入れることの出来ないところまで、既に来てしまっているのだ。
今までずっと隠してきた怯懦が、初めて室井の目の前で露になる。
その引き金はアルバムであり、室井の言葉だった。
怖い、のだ。
形も言葉も何もない、不確かな繋がりが。「家族」じゃない、自分が。「他人」でしかない、この関係
が。
「青島……」
「あ……、ごめんなさい。オレ、何取り乱したりしてんだろ。ごめん、室井さんっ!今の、……忘れてくだ
さい」
無理に微笑おうとする青島が、痛々しく。
恥じ入るように再び俯いた所為で、感情を映し出す表情からは、何も確かめられない。けれども、視える
ものは、ある。青島が求めているもの、希っているもの、それは確かに室井の心には、視えているのだ。
頭をそっと抱き寄せると、ぴくり、と青島が小さく震えた。
「……言葉が悪かった。すまない」
「いや、だから別に謝ってもらうことじゃ……」
「一度口にしてしまった言葉は取り返しが付かないな」
「………」
「……なあ、青島?家族と他人の境界線ってどこだと思う?」
「え?」
「何も言わなくても通じ合えるのが家族か?何を差し置いても助けたいと思うのが家族か?何が起こっても
信じてやるのが家族か?それらの対極にあるのが、他人と呼ばれる存在なのか?」
「それは……」
家族、って一体、何?
他人、って、誰を指すの?
同じ血統を持つのが家族?同じ血統を持たないのは他人?
婚姻の証明を交わしたから、家族?婚姻の証明を交わさなければ、他人?
心が通い合うのが家族?心が通じ合わなければ他人?
「家族」と「他人」は、対義する存在?
「それが家族ならば、そうではない家族は家族じゃないってことなのか?ただの血統の集合体って名前にで
もなるのか?」
「室井さん?何を……」
「まだ、分からないか?……家族、という言葉の曖昧さが」
「だから、何ですか」
「……そういう意味では、俺たちは既に家族だと思ってる」
「………っえ?」
「お前のことはどんな時でも信じていられるし、何かあれば助けたいと思っている。それに、お前の考えて
いることは大抵分かる、と思うのは俺の傲慢か?」
「室井さん……?」
「他人とか家族とか、言葉が欲しいのなら、俺にとってお前は他人だけれど、家族なんだ」
「むろいさん………」
「お前は俺の家族だ。……そう思われるのは、イヤか?」
他人なんて。
物凄く遠く隔たった存在のようで。
違う。そうじゃない。
他人も、家族も、本当は同じこと。
形あるものだけが、家族であることを約束するわけじゃない。
室井の瞳。あまりにも真剣すぎて。その双眸を真っ向から捉えていると、不思議と荒れていた感情が急速
に凪ぎ。そうしたら、何故だか笑いたくて堪らなくなった。声を張り上げて、笑いたかった。
だから、微笑った。
果たして、優しく微笑えただろうか。
考えていることが分かる、と室井は言った。多分、それは本当なのだろう。
室井の顔。青島に釣られたのか、眉間の皺もすっかり形を潜めて、ただ穏やかに。
良かった。オレ、ちゃんと微笑えてる。オレの気持ち、室井さんに伝わってる。
「室井さん?オレ、室井さんにずっと言いたかったことがあったんですよ」
「なんだ?」
「でも……言われちゃいました」
「え?」
「先を越されたけど……でもだからって室井さんに言わせるだけじゃ、フェアじゃないから。……相当今更
だし、間抜けっぽいから、笑って下さいよ?」
うっすら頬を染めながら、くるり、と茶目っ気たっぷりに瞳が動いて。
室井の耳元にそっと唇を寄せて、囁いた言葉。
照れ臭すぎて、室井の顔が見れそうもないから、どさくさに紛れて抱きついてみたり。
返された腕の力の強さに、青島は幸せそうに微笑った。
返って来た言葉に、今度こそ青島は、声に出して笑った。
「オレの家族になって下さい」
「本当に、今更、だな」
それから、しばらくして。
室井の本棚には、真新しい一冊のアルバムが、並んでいた。
END
ふっふっふっふっふ(怪)
うらん様のサイト合体(統合)一周年記念フリーGIFTを頂いて参りましたv
いえぇぇぇい!
室井さんが男前でがしょ?(誰)
「お前は俺の家族だ」
言われた〜い!言わせた〜い!!
夫婦でも家族でも恋人でも、二人が幸せなら私たちも幸せ。
素敵なアルバムを作っていって欲しいものです!
うらん様、素敵な小説をありがとうございましたv
キレイな愛じゃないけれど