はじまりはいつも雨(4)

「室井さん、待って……っ!」

 青島の声が聞こえないはずはない。頃は深夜、辺りは眠りに静まり返っている。それでも、室井の足は止

まらない。

 いくら思考は冴えたとは言え、身体はまだ酩酊状態を保っている。追い駆ける足は自然ふらつき、速度も

室井の早足に到底及ばない。

「待ってってば!」

 どうして、室井が今自分の目の前に居るのか。青島はそれが不思議でならなかった。別に今日は逢う約束

などしてはいなかったし、「来る」という連絡を貰ったわけでもない。もちろん、「来て」と言ったはずも

ない。確か室井は特捜本部を3つ抱えているはずだ。室井は隠していたが(と言うか、電話でそんな話がで

なかっただけだ)、ある筋から聞いた情報では、特捜本部が既に解散した、過去ずっと追い続けていた事件

がここ最近になって突然動きを見せ、それの陣頭指揮も買って出ているらしい。それこそ、寝る間を惜しん

で、読んで字の如く駆けずり回っているはずだ。それを知っていたから、最近は電話を掛けることはしなか

った。携帯を握り締め、短縮ボタンで名前を呼び出し、後は発信ボタンを押すだけ、のところで踏みとどま

ることも何度もあった。1分だけでもいい、声を聞きたい。焦燥に駆られた。けれど、それを寸でのところ

で押し留めるのに、どれだけの体力と気力を使い果たしたことか。その1分が室井にとって惜しいことなの

だ、と知っているから。その1分の間でも、室井の思考は事件解決へ向けて、高速稼動している。それを遮

る行為など、青島にできるはずもなかった。

 室井からの連絡がなかったのだって、そうだ。一日にしてほんの僅かな1分であろうとも、彼は惜しんで

いるに違いない。いや、事件を追っている時の彼は、見事に自分のことなど忘れ去っている。それが悔しい

のではない。自分がそうさせていることは、ちゃんと理解している。自分が課した途方もない約束を果たす

為に、彼は寝食を削っている。彼の頭には約束しか刻まれていない。それを知っているからこそ、彼のノー

リアクションも、我慢できるのだ。むしろ、どんな時でも自分と交わした約束だけは、彼の中にしっかり根

ざしている。それは、逆に誇らしくもあり。だから。

 寂しい、なんて。口が裂けても、言えない。

 それなのに。なぜ、今室井がここに居るのだ。疑問は膨らむ。けれど、それに対する解答は出ない。た

だ、ひとつだけ分かったこともある。

 室井は、青島に逢いに来た。ただ、それだけは。

「むろ……っあ!」

 思うとおりに動かない足が交差して、躓く。転ぶ、と思った時には、既にアスファルトに身体は叩きつけ

られていた。

「ってぇ…」

 何が何だか分からなくなり、何もかもが口惜しくなる。真下と呑みに行ったことも、泥酔したことも、室

井を捕まえられないことも。歯噛みしたい思いで、無闇にアスファルトに己の拳を叩きつけた。

 と、すっと差し出される手。すらりと伸びた指のラインが綺麗な、追い駆けた手が。

 頭を上げた。そこには、室井の姿があった。眉間に刻まれた縦皺が、彼の心情を如実に語っている。そこ

にあるのは、憤りだった。

「あの……」

「捕まれ」

 抑揚のない声までが、青島を萎縮させる。それでも、更にずい、と伸びた手を払うこともできず、素直に

その手を取った。ぐい、と力強く引き上げられて、僅かにバランスを崩す。けれど、室井の胸の中に飛び込

むまでには至らず、中途半端な姿勢で、青島は室井と向かい合わせた。

 立ち上がったのを確認して、室井が解こうとした手を、逆に握り返す。それは、酷く柔な力だったけれ

ど。室井は、無理に振り解こうとはしなかった。

「室井さん、あの、」

「もう、何も言わなくていい」

 逸らされた視線。先を許さない言葉。何も伝えてこない表情。何をも隠そうとする声音。そのすべて。青

島を拒絶する。

「あの……っ」

「もういいと言っている」

 いつまでも交わることのない瞳。何も始まらない会話。何もかもが、青島を排除する。ただ、繋がった掌

だけが。いつまでも名残惜しく。それだけが、最後の糸。

「いきなり押しかけて悪かった。…もう、このようなことは二度としない」

「……て」

「え?」

「手。……室井さんと、手、繋いでる」

「あ、ああ……」

 言われて、室井は指先に視線を落とした。それは、繋ぐ、と言うには儚いほどの指先だけの交わり。けれ

ど、その僅かに接触した箇所に、急速に熱が集約されていく。室井は気付いているのだろうか。これが、

「あの日」以来初めての接触であることを。

 触れている。ただそのことだけが室井の思考のすべてを縛り付ける。望んでいた。願ったのだ。触れなか

ったのではない。触れられなかったのだ。秘め続けてきた灼熱の感情。恋とか愛だとか、そんな陳腐な言葉

では到底片付けられないような、それでいてそれらすべてをひっくるめてしまった上で余りある激情。己の

中に巣食う卑しく浅ましい欲望。青島の瞳に映る「室井」像は、恐らくそんな欲望を秘めた人物ではない。

どこにでも転がっているような、当たり前の感情を当たり前のように体現する普通の人間などではなく、人

間を形成する欲望一切から切り離された、人間ではない人間。彼の眼を見ていると、己がそう思われてい

る、そう望まれていることを思い知らされ、だから、手を伸ばせなかった。

 「あの日」、あんな愚挙を犯すつもりはなかった。室井が青島に抱く感情。それが清廉なもの、高潔なも

のでないことなど、当の昔に受け入れていた。青島が己の名を呼ぶ度、己に笑顔を向ける度、室井がどんな

想像をしていたのか、きっと青島は永遠に知ることはない。愚痴を零す時に吐く溜息さえも、甘く己の中枢

を刺激し、悔しさに揺れる瞳に、濡れた欲望を抱え。青島をその視界に映す度、どんなに浅ましい欲情を掻

き立てられていたか。それでも、まだ我慢できた。自制は己の最も得意とするところ。突き放そうとも思っ

た。けれど、自分が離れれば、青島がそれを察知し、するり、と擦り寄ってくる。拷問だ、と思った。取り

返しのつかない事態に陥る前に、決別すら考えたこともあった。

 気付いたのは、ほんの些細な仕草。確信したのは、ほんの小さな呟き。「室井さん」と呼んだ、甘えを多

分に含んだ、切なげに歪められた瞳を捉えてしまった。片想いだと思っていたのに、そうではなかった、と

半ば愕然とした衝撃を受けたのだ。けれど、まだ足掻いてみた。もしかしたら、それは自分勝手な自意識過

剰が見せた幻だったかもしれない。思って、努めて冷静になればなるほど。逆に焦燥は募る。

 限界だ、と思った時には、足は青島のアパートに向いていた。大粒の雨が打ちつける夜のことだった。突

然の来訪に、青島は驚きを隠さなかった。そして、揺れた光を見た。それで充分だと思った。気が付けば、

青島の唇に口吻を落としていた。

 確かにふたりの絆をより強く深くするものが、また増えた。が、青島の態度はそれまでと何ら変わりは見

られない。苛立ちは募る。そこで、室井は室井なりの結論を出さざるを得なかったのだ。青島はまだ理想を

夢見続けているのだと。青島の前では室井はただの男にはなれなかった。青島がそれを望まないから。そし

て、それを静かに受け止めることしか、室井の成す術はないように思えた。

 繋いだ、手。抑え続けてきた欲望が膨れ上がる。止められない。

「離せ」

 振り解けなかった。緩やかな力で繋ぎ止められたそれは、解こうと思えば、さしたる技は要らない。けれ

ど、室井には何よりも抗いがたい力でもあった。ここで青島が素直に手を離せば。

 そのまま、自分は消えるだけ。

「いやだ」

 相変わらず青島の籠める力は軟らか。それなのに、返ってきた言葉は硬く。

「真下は、違います。酔ったオレを介抱してくれて……」

 そんなことを言いたいわけではないし、聞きたくもない。室井は緩く頭を振る。ただ、引き金にはなっ

た。あの抱擁を見てしまって、即座に込み上げてきたのは、暴力的なまでの嫉妬。触れることを禁じたのは

己であるはずなのに、真下が青島に触れていることへの耐え難い怒り。矛盾だとは分かっていても、凶暴に

荒れ狂う激情の前では、冷静に己を叱咤することなどできやしない。残された手段は、黙ってその場を去る

ことしかなかった。頭を冷やせば、あんなこと、何でもないと言い切れるだろう、と。しかし、青島は追い

駆けてきた。これは誤算だった。醜い感情は未だ腹の中でのた打ち回っている。きっとそれは顔にも出てい

るはず。そんな情けない姿、青島には見られたくなかったのに。

「気にするな」

 それは、青島を思いやってのつもりで吐き出された言葉だった。それ以外、他意はない。酔っているの

は、見てすぐに分かっていたし。また、日を改める、それだけのつもりだった。

「………なんで?」

 けれど、青島の反応は違った。何が「なんで」なのか、言わんとすることが不鮮明で、思わず青島を見返

す。

「なんで、そんなこと言うんですか」

 室井は眉間に皺を寄せた。分からなかったのだ。青島が何を言いたいのか。何でって、何でそんなことを

聞く?青島の瞳にそれまでとは異なるものが浮かんでいた。それは、間違いでなければ怒り、そのものだ。

「何を言いたい?」

「それは、オレのセリフです」

「何の話だ」

 訳が分からない、といった風に、室井は首を振った。それが、青島の癇に障った。据えた眼差しは、痛い

ほどの強い光を放ち、室井を睨みつける。

「あんた……、オレをバカにしてる?」

「は?」

「それとも……、ああ、そうか。そういうことか」

「何が言いたい」

 青島の不明瞭な言葉が、室井の感情を逆撫でする。

「あんたにとって、『あの日』はなかったものだったんだね」

「……何のことだ」

「あんた、さっきからそればっかだ。『何を言いたい』、『何の話だ』…。ああ、もういい。結局オレはあ

んたの気紛れに付き合わされて、一人勝手に踊ってただけだったってことか」

「ちょっと待て」

「もういいって言ってるでしょう!んだよ、『あの日』をいつまでも覚えてたオレがバカだったってことで

しょう!?女々しく、それこそ後生大事な想い出とかって、ひとりで浮かれてるオレを嗤ってたんでしょ

う!?……って、違うか。あんたは覚えてすらいないんだから、嗤うも何もあったもんじゃないね。

………もう、いい」

「待て、お前は……」

「触れられもしないこと、今までずっと悩んだりもしたけど、悩む必要もなかったんだ。だって、そうでし

ょう?オレとあんたは、」

「青島!」

「………始まってもいなかった」

「青島っ!」

 何か悪い方向に進んでいることを漸く掴んだ。青島が吐露する叫びが、何を意味するのか。呆然とする心

を、胸中で叱咤しながら、室井は青島の腕を振り解き、その肩を掴む。

 掴まれた肩に、室井の爪が食い込む。不思議と痛みは感じなかった。それよりももっと、別のところが痛

みに悲鳴を上げている。

「………室井さん、離して」

「青島、聞け」

「ごめんなさい。オレが先走ったりしたのが、悪かったんです。だから、もう忘れて……」

「待てと言ってるだろう!」

 びくり、と青島の身体が震えた。室井の激しい声音が耳を劈く。

「何を言ってるんだ、と俺は聞いている。お前は何を勝手に理解したと言うんだ」

「……ほら、平行線」

「だから、青島!」

「所詮、あんたとオレは違うんだってこと。知ってたけど、……こんな形では、気付きたくなかった

よ……」

 困り果てたような表情で、青島が微笑った。否、それは零れ落ちようとする涙を堪えた為に生まれたも

の。

 脳裏で警鐘が響く。何かがおかしい。警告がひっきりなしに騒ぐ。

「オレはあの日、夢を見たんだね。都合の良い夢。……好きだ、って言われたことも、言ったことも。キス

したことだって……」

「違う!」

 漸く青島の言いたいことが飲み込めた。青島が何か誤解していることは分かった。そして、誤解させてい

たのが、自分であったことも。その誤解が生まれることになった原因にも。

 室井は己を張り飛ばしたい衝動に駆られた。誰よりも青島を見てきた。誰よりも青島の奥深くに入り込ん

だつもりだった。誰よりも青島のことを理解しているつもりだった。それは、すべて間違いだったことも。

 確かに青島に望まれていたのだ。室井慎次というすべて奥底に秘めた欲望までを、確かに青島に求められ

ていたのだ。

「青島。もう一度、言う」

「もういい、って……」

「聞け!………青島、好きだ」

 掛け値なしの愛情。何の虚飾もない、研ぎ澄まされた、ひとつの想い。愚かだったのは、自分。見間違え

ていた青島の願い。見失っていた、青島の想い。

「俺は、勘違いをしていた」

「なに、を」

「お前を手に入れたこと、それ自体が幻だったのだと、勘違いをしていた」

「室井さん、何言って……」

「ほら、青島。俺たちは確かに平行線だった」

 青島は息を詰めた。

「交わったつもりでいて、それは単なる錯覚にしか過ぎなかった。平行線は平行線でしかなかった」

 永久に続く平行線。交わる先はどこにもない。交わる為には、ほんの少しでいい、圧力を掛けて、真っ直

ぐでしかなかったラインを歪曲させるだけ。今は交わることはなくとも、いつかどこかでそれは交差する。

必ず。曲げ損なった平行線。曲げるのは、今。

「青島、聞かせてくれ。……お前がどうしてそう思っていたのか。そして、俺にも言わせてくれ。どうして

こうなってしまったのか」

「……だって、室井さん、変わらない……」

「何が変わらない?」

「今も昔も、室井さんのスタンスはそのままで、オレひとりが右往左往してる」

「…俺は、お前がそう望んでいるんだと思っていた」

「ちが……っ、何でそんなこと…っ」

「お前の眼に映る俺は、それこそ今も昔も変わらない。お前が望む俺は、いつまでも『同志』の域を出な

い、清廉なものだと思っていた」

 今度は青島が愕然とする番だった。何だ、これは。何かがおかしい。なぜ、そうなる?

「オレは…っ、室井さんが好きだから、室井さんの邪魔にはなりたくなくて…」

「青島、最近電話を掛けてこないな。それは、なぜだ?」

「なぜって……、だってあんた、忙しいの分かってるし。迷惑がられるの、イヤだし……」

「そう、だったのか……。俺が電話をしなかったのは、多分、引け目があったからだろうな」

「引け目?何に対して?」

「お前に無理矢理『好きだ』と言わせた」

「だから、違くって…っ」

「ああ、そうだ。漸くそれが分かったんだ」

 青島の肩を掴んだままだった手。力が撓んで、ゆるり、と背中に回る。

 ボタンの掛け違いのようなものだ、と思った。お互いがお互いに後ろめたさが残る所為で、近付きたくて

も近付けなかった。ほんの少し、言葉を足すだけで良かったのだ。難しい専門用語など要らない。意味不明

の外国語で唱える必要もない。

 逢いたい。

 至極簡単で、けれども何よりも心を打つ。

「青島。俺はただの男だ」

「……はい?」

「清廉潔白な人間じゃない。ちゃんと持ち合わせた欲望だってある」

「………」

「心だけでも通わせることができれば、なんて考えちゃいない」

「え?あの、それって……」

「俺たちはまだ、お互いのことを何も知らない。…そういう意味では、お前の言うとおり、まだ何も始まっ

てなんかいなかった」

 す、と引き寄せる。存外容易に、青島の身体が傾いだ。それをしっかり抱き留める。背に回した手に、力

を籠める。

「青島、好きだ。お前のことを、もっとちゃんと知りたい、と思う。……意味、分かるか?」

 抱き寄せた所為で、青島の表情は窺えない。肩口に擦り付けるように俯いて。けれど、髪の間から見える

耳が、色を変えている。ほんのり、と紅く。

 平行線だったはずのふたつの線が、漸く交わった、と思った。室井の線が少し歪曲して、それと同時に青

島の線もまた。

 「あの日」は始まりなんかではなかった。今日が、本当のスタートラインだ。

「教えて、くれるか……?」

 耳元を擽るように、そっと囁く。ふるり、と青島が震えた。そして、ややあってから、こくり、と頷く。

「もう、何も隠さないから」

 だから、お前も何もかもを曝け出してくれ。

 口にはしなかった懇願は、それでも青島には届いたようだ。室井の背中にいつの間にか回されていた腕

が。きゅ、とスーツを握り締めた。





 いつの間にか、雨が降っていた。

 小糠雨。優しくいつまでも降り続いていた。





 雨の日は、室井さんを想い出す。

 青島はひっそりと思った。











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