はじまりはいつも雨(3)
「先輩っ、ほら、しっかり歩いてくださいよっ」
「ん〜〜〜。ましたぁ」
「はいはい、何ですか」
「オレ、今すっげえ良い気分〜」
「そうですか。それは良かったですね。…あ、ほら、足元気をつけて。段差ありますよ」
「ましたぁ〜」
「何ですか」
「ありがとぉ〜〜」
「……何の御礼ですか」
「いろいろぉ〜〜」
「………」
相手は酔っ払いだ。深く追求しちゃいけない。深く考えちゃいけない。
真下は強かに酔った青島を引き摺って、彼の住むアパートまで漸く辿り着いた。足元の覚束ない青島をそ
れでも何とか階上に上げて、部屋を開錠させる。当たり前だが、明かりの灯らない部屋。ただ暗いだけなの
に、どうしてか、押し潰されそうな重力を感じる。
「明かり、明かりっと」
手探りで青島をソファに横たえ、壁のスイッチを押す。一気に世界が眩く映り、思わず目を眇めてしまう。
「先輩?このまま寝ちゃうと風邪引きますよ?え、と……寝室はどこかな」
初めて訪れた青島の部屋。そのことに今更ながらに気付く。気付けば、訳もなく鼓動が速力を上げた。じ
っと部屋の中心に佇めば、否応無しに鼻に衝く香り。青島が好む煙草の香り、青島自身が放つ香り。それら
がまるで自分を覆い包んでいるような不埒な錯覚を覚えて、体内にふしだらな熾火が点る。
「あ、あの、せんぱい…?」
上擦る声は動揺の証、とばかりに、慌てながら青島へと近寄った。既に眠りの淵へと迷い込んだのか、う
っすらと開かれた唇の隙間からは、寝息のようなものが漏れている。
「先輩っ、もう寝ないで下さいよ〜」
このまま放置していくのは忍びない。いくら日中はまだ暑さが残るとは言え、季節はもう秋。夜更けには
気温も下がり、布団に入らなければ、間違いなく風邪を引く。どうしよう、という逡巡は僅かな時間だっ
た。意を決して、横たわる青島の両脇に己の腕を差し挟む。よっこいしょ、と小さく掛け声を上げて、青島
の上体を起こした。
「先輩、布団で寝ましょう?」
それは、故意ではなかった。が、結果としてそうなってしまっただけで。真下の囁き。青島の耳元を優し
く擽る。
「ん……っ」
ぶるり、と身震いして、青島が小さく声を上げた。鼻にかかったような掠れた呻きは、どう聞いても甘さ
しか感じ取れない。ぞくり、と背筋が粟立つのを真下は止められなかった。そして、今自分がどんな体勢で
青島を抱いているか、冷静に判断する。
いくら相手は正体を無くしているとは言え、これはまさしく、抱き合う、姿勢。どくん、と一際大きく心
臓が跳ね上がった。
漏れる吐息。少しアルコール臭を漂わせて。
それに溜息を零すのは、呆れているからじゃなく、ただ、切ない、から。もしかしたら。真下はふと思っ
た。最近は碌に眠れてなかったのかもしれない。よくよく顔色を窺えば、血色が良いとはとても言い難い
し、目の下にうっすら隈さえも現れている。無謀な呑み方をして、酒の力を借りて眠ってしまわないことに
は、独力では決して深い眠りを手にすることができないのかもしれない。
青島の身体を抱いた腕に力を籠める。
どうして。
室井さんなんだ。
そんなになっても、それでもまだ室井が良いと言い張るのか。逢えもしない、逢ったら逢ったで、何の触
れ合いも訪れない。大人の接触が無ければ、せめて手に触れるとかそれだけでもいい。それすらの施しも与
えない、そして与えられようとしない室井の真意が図り兼ねる。
もしも、これが僕だったら。
考えても仕方のないこと。分かってはいるが、走り出した思考を止める手立てはない。それだけ、真下も
多少なりとも酔っているということか。
もしも、これが僕だったら。
与えたいとか、そんな風に思うのではなく。単に自分が触れたいから。こうすれば喜んでくれるかな、と
か少しは考えたりもするけれど、それよりももっと、自分が触れることで、己の中に住まう感情に仄かな灯
りが点り、そしてそれは温度を上げる。自分が幸せだと思っていることを、あからさまに見せつける。だっ
て、そうじゃないか。自分が幸せでなくて、一体誰を幸せにできるというのか。不幸の海に漂う人間は、他
人を同じ海に引き摺りこむことはできても、幸福の地上へ這いずり上がることは困難。地上に立つ人間が手
を差し伸べて、海に溺れ、もがき苦しむ人間を引き上げようと、その渾身の力を差し出してくれないことに
は。だから、手を差し伸べたいのだ。自分はこんなに幸せだと。あなたのお蔭で、こんなに満ち足りている
のだと。好きにならせてくれて、ありがとう。好きになってくれて、ありがとう。それを表現して、何が悪
い。
「せんぱい……?」
「ん………」
夢現か、ぼんやりとした返事が返ってくる。
募る愛おしさ。色褪せない、恋情。
海で溺れるこの人。僕が救ってやりたい。
「もう、いいじゃないですか……。僕が見たいのは、こんな先輩じゃないんです。微笑ってる先輩が見たい
んです。だから、この手を握ろうと足掻くのを諦めたのに…」
「ま、し……?」
「僕、頑張りますから。先輩の微笑う貌、守りたいって思ってますから」
ゆるゆると持ち上がる瞼。思案気に揺らめく瞳。保護欲なんて、清廉なものじゃない。もっと浅ましい欲
情を持って、掻き抱きたい情熱を目覚めさせる。
「このまま、室井さんと付き合っていたって、きっと先輩は幸せにはなれませんよ?」
「っえ……」
微睡と覚醒の狭間で揺らいでいた意識が俄かに叩き起こされる。真下は、今、何と言った?
「大丈夫、まだ誰も気付いてはいません。多分、僕だけです。……だから、引き返すなら、今のうちです」
唇が触れ合わんばかりのギリギリの距離で対峙する視線。いつになく強い眼差しの真下が、青島を知らず
追い詰めていく。
「あ、あの……」
ゆっくり、と真下の顔が近づいてくる。この感覚、どこかで覚えがある。
ああ、そうだ。「あの日」だ。室井がその想いを打ち明け、青島の退路を立ち塞ぎ、徐々に距離を詰め
た、あの日。
そして、それから。
キス、された。
「ま、した……っ」
「……何をやっている」
「えっ!?」
第三者の声が背後からして、弾かれるように振り向く。
玄関先に佇む黒い影。誰何する必要もない。
「むろいさん……」
突然の闖入者に、呆然と青島が名を呼んだ。力を籠めていた真下の腕が、驚きの所為か、不意に緩む。
「…………」
室井は何か言葉を紡ごうと口を開きかけて、止めた。そして、そのまま踵を返し、姿を闇に暗ませる。
「待って、室井さん…っ!」
乱れた衣服そのままに、青島は矢庭に立ち上がった。
「先輩っ!」
咄嗟に青島の腕を掴もうとした真下の手が、虚しく空を切る。何かの糸に引っ張られるかのように、青島
はそのまま部屋を飛び出した。真下を振り向きもせずに。
「……んだよ、僕、結局ピエロじゃないか……」
歯噛みするように呟いて、強張った肩から力を抜いた。
それでも、青島は室井を選ぶのか。抱える想いの質量が違っても、籠めた想いの形が違っても。それで
も、青島は室井を望むと言うのか。
脱力した真下の視線が捉えた、テーブルの上に放置されたままの煙草。何気に手を伸ばすと、最後の一本
がぽろり、と掌に降って来た。徐にマッチに火を点し、しばらくぼんやりとそれを見つめてから、咥えた煙
草に火を点けた。
「けほ……っ。まず……」
初めて吸った煙草の煙。苦さしか感じないその味は、まるで今の自分の気持ちに似ているようで。
思わず零れた一滴の涙。
それは、多分、煙が目に沁みた所為だった。
NEXT