はじまりはいつも雨(2)
『青島を探れ!』
これが、今回真下に課せられた、逃れられない使命だった。もちろん、その命令は湾岸署の女帝たちから
問答無用に下されたものであって、本庁に復帰し、階級だって上がったにも拘らず、相変わらずそれに逆ら
えないのは、真下の真下たる所以だろう。が、本当はそんなことなどお構い無しに、青島とふたりで飲みに
行くというのは、真下にとってこれほど嬉しいことはない。
本庁に復帰しても、湾岸署に居た時のように心を許しあえるような同僚など、そうそう居るわけもないし
むしろ真下の背後にある父親の存在がそうさせるのか、皆が皆、腫れ物に触るようにしか接してこない。ま
た、自分としても、少しでも気を抜いたら潰されるかもしれない、という強迫観念が常に纏わりついていて
ちっとも呼吸ができないのだ。
けれど、湾岸署の面々は違う。自分がキャリアであり、サラブレッドであることなど、絶対に忘れてい
る。そうでなければ、こんなパシリのように扱き使われることなどあるはずもないし、あってはならない。
だから良いのだ、と真下は思う。自分を飾るものに対しておべんちゃらを使ってくるのではなく、ただ一
個の人間として対してくれるから。
それに。
青島は、真下にとって、特別な存在、でもあるし。
秘めたままの淡い恋心。告げる前に、散ってしまったけれど。
室井と青島が所謂恋人同士になったことは、誰かに聞いたわけではない。青島を見ていて、自然察しがつ
いただけ。だって、分かるだろう。
自分だって、同じように青島を見つめ続けていたのだから。
その青島が何かしら塞ぎ込んでいる。すみれは言った。きっと誰かに恋でもしてるんじゃないかしら。
真下は敢えて室井のことは言わなかった。言う義理はないし、言いたくもない。口にしてしまえば、己自
身でそれを認めてしまうことになる。それだけは断じてできなかった。それはプライドというよりも、単な
る現実逃避に近いものではあったが。
まあ、上手く行けば、オイシイ思いでもできるかもね。
電話を切る際、すみれが言ったセリフ。反論できなかった。少しだけ、そう思ってしまったから。
「先輩?全然飲んでないじゃないですか」
「えー、飲んでるよ」
馴染みの大衆居酒屋。週末ということもあって、サラリーマンで埋め尽くされた中、個室を確保できたの
は幸運としか言いようがない。待ち合わせた駅の改札口で青島の顔色を見た途端、これは重症だ、とピンと
来たのだ。いつもなら、ごちゃごちゃした狭苦しいテーブル席でも依存はないが、今日ばかりはちょっと事
情が異なる。個室が取れて良かった、と真下は心中で安堵した。
「まだビールでいいんですか?何でも飲んでくれていいですよ〜。…そうだな、日本酒でも頼みます?えー
と……限定品『耕雲』、秋田産ですって。うわ、たか〜」
自問自答のように呟く真下の言葉に、青島はピクリ、と反応した。
「それ」
「はい?」
「それ飲む」
「ええ〜っ、高いですよ、これ」
「何だよ、何でもいいっつったの、お前だろ」
いや、それはそうですけどねぇ…。
ぶつくさ言いながらも、真下は結局それを注文した。
ややあって、店員が持ってきた徳利と猪口は、高級酒を飲むに相応しい趣のあるものだった。たかが安居
酒屋とタカを括っていたが、こんなところでちょっとした趣向を見せてくれると、存外いい気分になるのだ
から、人間とはお手軽に出来たもの。青島が手を伸ばしたのを遮るようにして、真下がさっさと徳利を掴
む。
「さ、先輩」
「サンキュ」
とくとく、と注がれた透明な液体。小さな波紋はすぐに消えてなくなる。並々と注がれたそれを、青島は
一気に煽った。
「ちょっ、先輩っ。幾らなんでもその呑み方は……」
「うっさい。たまにはこんな呑み方もいいだろ。ほら、お前にも注いでやる」
青島の顔色を窺いながら、真下は猪口を差し出した。
今日はヤケ酒かあ。
自分が望んだとは言え、損な役回りを感じざるを得ない。けれど、それを表に出さないくらいには、真下
も大人のつもりだった。特に青島の前では。
「どお?美味いよな、これ」
「ですねぇ〜。咽喉越しが良いって、こういうことを言うんですよねぇ」
差しつ差されつ杯を交互に空けていく。
口では「美味い」と言いつつも、それでも青島は胃に落ちていくそれを、本当に美味いとは到底感じられ
なかった。この酒を選んだ理由。簡単だ。秋田産だというのもある。だけれど、ふと以前に室井が言った一
言を思い出したからだ。
名酒が手に入ったんだ。限定品でな。『耕雲』と言う。今度、お前にも呑ませてやろう。
他愛もない会話だった。あれはいつのことだっただろう。
ああ、そうだ。「あの日」の1ヶ月後だった。
そこまで思い出して、少し上がり気味だった気分がまた沈降していく。
「あの日」から、もう既に半年近くが経っている。その間、彼と逢った回数は、きっと両手で数えられる
くらいではないだろうか。
逢えないのは仕方がない、と最初から諦めている。元々そんな頻繁に連絡を取り合っていたわけでもな
い。室井は管理官として相変わらずいくつも特捜を手掛けているし、青島だって頻発する大小様々な事件に
常に追われている。非番だってそうそう重なることはないし、たまたまかち合ったとしても、どちらかが呼
び出しを喰らえば、それでご破算。逢えない隙間を埋めるかのように、電話は時々する。掛けてもくれる。
けれど、それだって多忙の合間を縫ってのことだから、長電話なんてした試しはない。精々10分話せれば
上出来と言ったところだった。
お互い仕事に忙殺され、否が応でも疲労は溜まる。自分がそうなのだから、室井がいくら超人的体力を備
えていようが、疲れていないはずがない。だから、青島からの連絡は少しずつ減っていくのが自明の理。遠
慮しているのもある。それもあるが、それよりも、電話が出来るようなヒマがあるのなら、その分睡眠時間
に充てて欲しい、と思っても、当然のことだろう。
心配、なのだ。責任だって感じている。
自分が課した「約束」の為に、室井はまさしく身を粉にして走り回っている。少しでも早く、少しでも高
く。目指す理想郷は、まだ果てしなく彼方にあるのだから。
もう随分昔から室井に憧れていた。上司に対する憧憬が、一個の人間に対する恋心へと変貌したのは極自
然の成り行きで、それが一体いつ変化したのか、ラインが曖昧で分からない。それでも、見ているだけで良
かった。どうせ叶えられることのない禁忌の恋。そんなあやふやな恋情に振り回されるよりも、自分たちに
は確固とした「約束」という紐で結ばれている。それさえあれば、彼をいつまでも見つめ続けていても、誰
にも分かりはしない。見つめ続けるのは、自分だけに与えられた特権だ。「約束」を交わした同志なのだか
ら。
それなのに。その危うい均衡を崩したのは、室井だった。まさか室井が同じ想いで自分を見てくれていた
なんて、想像さえもしなかった。「あの日」は夢だとさえ、最初は思ったくらいだ。そんなつもりはない、
と突っ撥ねるつもりが、あまりの室井の鋭利な視線に抉られて、いとも簡単に陥落した。隠せるはずはなか
ったのだ。
恋心という名のグラスいっぱいに入った水。表面張力だけで支えていた、溢れんばかりの水。ほんの僅か
な揺らぎで一滴零れれば、後はどっとそれを伝い落ちるだけだったのだから。
最初は想いが叶えられたことだけで満足していた。もうそれだけで良い、とその時は素直に思えた。なの
に、どうだろう。人間とはこんなにも浅ましく、また強欲に出来ている、と我ながら己の浅薄さを恨めしく
思う。
室井に告白された。それはつまり、一般的に男女間で形成される恋愛感情を伴った付き合いへの変化を意
味した。ただの同志から恋人という甘い響きを匂わせる関係へと移り変わったはずなのに。
「……なあ、真下」
「はい?」
「お前、……付き合ってる子、いる?」
唐突に飛び出したその質問に、真下は思わず口にしたばかりの酒を噎せ返した。
「げほっ、げほ……っ。何ですか、藪から棒に…っ」
「あー、なら、好きな子は…?」
「……いや、まあ、それは、ねえ」
「それはあなたのことです」なんて切り出せるほど、真下には豪胆な気概などありはしない。あれば、と
っくの昔に玉砕していたことだろう。ひとまずここはお茶を濁す程度に返答を収める。
「あー、ごめん。雪乃さんだったよな。お前も相変わらずっつーか、ケナゲっつーか」
いや、それは違うんですけど。
所詮「へなちょこ」と面と向かって言われ続けていた真下。言い返す勇気もない。でもまあ、一途に青島
を想い続けているわけだから、やっぱり健気なのだろう。
「それがどうしたんですか?」
いよいよ核心に入ってくるか。知らず真下は身構えた。
けれど、当の青島は「うーん」とか「いやー」とか、中々話を切り出そうとしない。酔いに任せて、「室
井さんですか」とズバリ打ち出してみたいけれど、多分青島は途端に逃げを打つ。それが分かるくらいには
一緒に居た時間は長かったので、真下はただ黙って青島の次の言葉を待つことにした。
「あのさあ………」
「はい、何ですか」
たっぷりの沈黙を置いてから、溜息を吐くように、青島はぽつぽつと言葉を紡ぎ出す。
「例えばの話だよ?例えば……、長いこと片想いしていたとする」
「ふんふん」
「それがひょんなことから両想いになってしまった」
「ほうほう」
「…浮かれる、よな?」
「そりゃあ、まあ」
「男だもん。手を繋ぎたいとか可愛いことを思いもするし、キスだってしたいし、それに、その……」
「セックス?」
「おま……っ、よくそんなことさらっと言えるよなあ」
「だって普通の健康的成人男性の思うことでしょう?したくなりますよ。思って当たり前でしょう」
我ながら大胆発言だと驚愕する。でも、それは単なる真実なのだ。好きな人を目の前にすれば、触れた
い、と思うのは当然の欲求であり、それが許されるのは、お互いがお互いを想い合っている、つまり両想い
だからして。逆に言えば、触れたい、と思わない方がおかしい。それはきっと、恋、じゃないのだ。人間だ
って本能というものが存在する。即物的、動物的、と表現されがちな、本能に直結した激しい感情を根底に
隠し持っている。それを誘発させるのは、他でもない、想い人。いくら男は下半身で物事を考える人種、と
蔑まれても、好きでもない相手を目前にして勃つことはあまりない。いや、ほとんど皆無と言ってもいい。
そうでなければ、街を歩くだけで、男は常に勃起し続けなければならないのだから。ちゃんとそこに想いが
あって。そこで初めて想うのだ。抱き合いたい、ひとつになりたい、と。
そこまで考えて、はた、と真下は止まった。
何だ、この会話の進行方向は。ちょっと待て。これって、もしかして。
「あのぉ、先輩?」
「何だよ」
「つかぬことをお聞きしますが……。それって、触れてくれない、ってことですよね……?」
聞いて、しまった、と思ったが、もう遅い。音になった言葉は二度と返ってくることはないのだ。
「………」
案の定、青島は図星と言わんばかりに睨みつけてくる。
何だよ何だよ。それってもちろん室井さんのことだよね。室井さんと先輩が既に恋人同士なのは間違いな
いとして。
「恋人同士」というフレーズを脳裏に思い浮かべて、ちくり、と突き刺す棘に胸が痛むのは、この際置い
ておく。
てゆーことは、何?先輩と室井さんって、まだなの!?てゆーか、接触自体がまるでなし!?
漸く結論が出て、真下は半ば呆然と青島を見返した。青島は不貞腐れたように、手酌で酒を飲み干してい
る。
プラトニック、ってことはないよなあ。いくらあの室井さんでも、一応男なんだし、それ相応の欲望は持
ってるだろうし…。先輩は見てれば、分かるけど…。
何だ何だ、この雲行きは?真下はまた再び疑問の渦に巻き込まれていく。
「……なに黙りこくってんだよ」
「え?あ、いや……」
室井と青島が付き合っていることを自分が知っていると悟られてはならない。真下は瞬時に判断して、
頭を振った。
「ま、まあ。それだけ相手を大事に想ってるってことも考えられますし、あんまり思い詰めない方がいい
ですよ」
混乱した思考が何とか解答を形作り、それを口にした。けれど、青島の表情は一向に冴えない。
「でも、さ……。半年、って結構時間経ちすぎじゃない?」
「は、半年ぃっ!?」
「バカ、声がデカいって!」
今度こそ真下の思考回路は煙を上げてショートした。
半年だって!?半年も付き合っていて、それなのに、セックスもキスも、それどころか、手だって繋が
ない!?室井さんって、もしかしてホントにダメな人なの!?
室井がこのセリフを聞いていれば、間違いなくあの鉄面皮を脱ぎ捨て怒りの侭に我を忘れたことだろう。
しかし、ここには幸いというべきか不幸にもというべきか、当の室井はいないわけで。
そうっ、と盗み見るように真下は青島を見る。
長い前髪の隙間から覗く、程よく長い睫毛に縁取られた瞳は、それだけで見る者を魅了して止まない。
意志の強さを思わせる瞳の光。それが時に鼓動が跳ね上がるほど、蠱惑的なものに変化することも知ってい
る。肉厚の唇は、ほんの僅かに震えるだけで、まるで誘われているような錯覚すら覚えさせる。そこに吸い
付けば、きっと熱くて、それでいて極上の甘さに酔わせてくれるような、陶酔をもたらすことだろう。日焼
けした肌は健康的で、けれど衣服の下に隠された肌はきっと指が滑るほど、滑らか。肌理細やかな皮膚は、
触れるだけでイってしまうような、上質の絹の感触を想像させる。
こんな人を目の前にして、しかも仮にも好きだと思っているならば、絶対に触れたいと思うに違いない。
その声が紡ぎ出す嬌声を、耳元で捉えてみたい。思うのが、当然だ。女であれ、男であれ、誰彼構わず目を
奪われるような魅力を、彼は包み隠さず振り撒いている。もし、自分が恋人であれば、こんな彼を公衆の面
前に晒すことは、耐え難い苦痛になるに違いない。常に嫉妬心に駆られて、監視することも厭わない。
その彼に、室井は触れない。
大切に思っているからか?そうだとしても、正常な成人男性の極普通の欲求であれば、滾る欲望を抑えつ
けるのには並々ならぬ忍耐力が要る。確かに室井は、桁外れの自制心を持ち合わせている。眉間に深く刻ま
れた皺は、その驚愕すべき自制心が端的に現れた結果であると言えよう。皺が増える度、深くなる度、彼は
またひとつ何かに耐えている証拠なのだ。
でも、だからと言って。そこまでして、自分を抑えつける理由もまた無い。見ろ。青島はこんなに望んで
いる。真下が見て分かるのだ。ふたりきりで一緒に居て、分からないほど室井は鈍感ではないだろう。この
切羽詰ったような、揺れる瞳を見ろ。体内の奥底に眠った、獰猛な獣はそれだけで牙を剥く。
一体、室井さんは何を考えて……。
「真下?おい、真下?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してました…」
「ごめん、こんな話するつもりはなかったんだ。もういいから、忘れろよ?」
「え、でも」
「いいんだって。所詮一般論だって。ほら、最初に言ったろ?例えば、って」
「そりゃ、そうかもしれませんが…」
それが例え話なんかじゃないことは、既に明白。青島の欝の原因は、確かに吐露された。しかし、だから
と言って、真下にはどうすることもできず。
ここに室井さんが居れば。
詮無いことを思う。
ここに室井さんが居れば、間違いなく胸元を掴み上げて、めいっぱい詰ってやるんだけどなあ。
恋の敗者でも、それくらいは許されるはず。むしろ、青島の幸せを思ったからこそ、気付かれぬうちにそ
っと身を引いたのだ。許されるとか許されないとか、そんな問題じゃない。真下はそうするだけの権利を、
確かに所有している。
「さ、呑み直そうぜ」
「あ、はい」
幻の名酒。咽喉に引っ掛かって、落ちていく。
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