太く鋭い爪を持った手足、大きく曲がり醜く盛り上がった背中、口元にのぞく大きな牙、全身を追おう太く硬い毛・・・。
暗い表情で俯いていた「野獣」は、突然大きな唸り声を上げると、手近にあったクッションを飾り棚目掛けて投げつけた。衝撃に耐え切れず飾り棚の戸が開き、中のグラスやカップが落ちて砕ける。その音に刺激されたかのように、野獣は手当たり次第にそこらにあるものを投げつけ、唸り、頭を掻き毟りながら大声を上げた。
一匹のネズミがちょろちょろと部屋へ入ってくると、野獣の投げるものを巧みに避けながら部屋を横切り、テラスの手摺へよじ登るとチーチーと鳴き始めた。その小さな声に野獣はピタリと動きを止めて振り返った。
ネズミは後ろ足で立ち上がり、腰に前足を当てて自分より何十倍も大きい野獣を見上げながら、まるで文句を言うように鳴き続ける。野獣は暫く黙って聞いていたが、イライラしたように屋敷が振動するかと思えるような大声で吼え、手を振り回した。その勢いに煽られてネズミが手摺から落下する。すると野獣は大慌てでネズミを拾い上げ、不器用な手つきでテーブルの上にそっと降ろした。ネズミは腰をさすりながら立ち上がると、片方の前足を野獣に向けて振りかざし、再び鳴き出した。野獣はがっくりと肩を落として椅子に座り込むと、申し訳なさそうな表情でネズミに向かって「グゥ・・・」と鳴いた。両手を腰に当て、更に野獣に向かって何事かを訴えているネズミを横目にチラリと見ると、野獣はのそのそと立ち上がり、自分が散らかした部屋を片付け始めた。
その時、完全に日が落ちて夜になった。
つい先程まで野獣とネズミがいた部屋には、鳶色の瞳が印象的な背の高い青年と、小柄で角張った顔をした色白の男がいた。青年はブルンと頭を一振りすると、小柄な男の方を向いてヘラリと笑って首を傾げる。
「ごめんね、シンジョー。痛かったよね?」
小柄な男はそっと尻の辺りに手を当てつつ、硬い表情を崩さずに青年に視線を向ける。
「何度言ったら分かるんですか。今、この屋敷に使用人は私しかいないんです。あなたが散らかすと、私の仕事が増えるんですよ。日中はあの姿ですからほとんど仕事になりませんし。」
「ごめん・・・。」
青年はシュンとしながら、散らばった破片を片付け始めた。その途端、指先に鋭い痛みが走る。
「・・っつ!!」
シンジョーが慌てて青年の傍へかがみ込むと、青年は顔を顰めて指を咥え、上目遣いに彼を見た。シンジョーはわざと大袈裟な溜息をついた。
「ああ、もう、後は私がやりますから、あなたはあちらの部屋へ行っていてください。」
「れも・・・。」
「却って仕事が増えるんです。ここを簡単に片付けたら食事の用意をしますから。その前に手当てしてしまいましょう。」
「らいじょぶ。そんらにふかくらいから、こうひてなめれればなおっひゃうよ。」
指を咥えたまま喋る青年にシンジョーは眉を顰めた。
「私が傷を負った主人をそのまま放って置くような者だと?」
無表情に一瞥されて、青年はプルプルと首を振る。
シンジョーは、指を咥えたままの彼の手を取って椅子に座らせると、別室から救急箱を持ってきて手早く手当てを済ませた。
「さあ、あちらへ。」
青年に有無を言わさず廊下へと追い出し、扉を閉めるとそれを背にして大きく溜息をついた。
シンジョーには、主人の鬱屈が分かりすぎるほどよく分かっている。
日が昇ると姿が変わってしまうために外出もままならない。日が落ちれば人間の姿に戻ることはできるが、今度は屋敷を取り巻く森に得体の知れない魔物が出るため、結局は敷地内から出られないことに変わりない。最初のうちこそ彼を捜して幼馴染の村の者が屋敷へ来たが、野獣となった彼が姿を現した途端に、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまって、それきり、たまに道に迷った旅人が迷い込んで来る以外、誰も来なくなった。もともと賑やかに人と交わっていることの好きな彼だけに、誰も訪ねて来ず、会いに行くこともできないこの状況はストレスが溜まるだろう。しかも、ガラスケースに収めて、風にすら当てないように守ってきたバラが、散り始めている。あのバラが散ってしまうまでに、野獣の姿でいる彼を心の底から愛してくれる者が見つからなければ、彼もシンジョーも二度と人間の姿に戻れなくなってしまうのだ。アオシマは元々楽天的な性質だが、それでも最近は考え込んでいることが増えた。
シンジョーは、アオシマが魔法に掛けられる時、敢えて彼の元に残り、運命を共にすることを選んだ。アオシマは、他の使用人と同じ様に暇を取らせるつもりだったようだが、彼は頑として承知しなかった。
屋敷の執事を務めていた父に連れられて、初めて赤ん坊だったアオシマに会った時、彼はおそるおそる差し出したシンジョーの指を掴んでニッコリと笑った。その瞬間、シンジョーはこの先何があろうと、彼の傍を離れずに共にあり続けることを自らに誓ったのだ。それからは、誓いの通り常にアオシマの傍にはシンジョーがいた(彼は時折それをうるさがり、黙って屋敷を抜け出したりしていたが)。そんなシンジョーにとってアオシマと運命を共にすることに何の躊躇いもなかったが、アオシマがそれを気に病むであろうことも予測できた。しかし、こればかりは彼にとっても譲れない一線だったのだ。
「さて、と。」
シンジョーは小さく溜息を漏らし、扉に預けていた背中を引き剥がすようにして、散らかった部屋を片付け始めた。
シンジョーから邪魔扱いにされたアオシマは、おとなしく別室に移り、ソファにクッションを抱えて横になった。
今頃シンジョーは、せっせとアオシマが散らかしたものを片付けている。彼のことだから、「簡単に」などと言っていても、最後に破片が散っていないか手で直接床を撫でて確認するところまで、完璧にやってしまうのだろう。アオシマは、彼に余計な手間をかけさせてしまったことを思い、「ごめん」と一人ひっそりと呟いた。
アオシマが物心ついた時からシンジョーは常に彼の傍にいた。アオシマが小さかった頃は、シンジョーの姿が見えないとべそをかきながら彼を捜して回った。両親は、これではシンジョーは用足しにも行かれないと、よく笑って言っていた。思春期になると逆にシンジョーをうるさがるようになり、彼の目を盗んでは、大好きなワンガン村へ一人で遊びに行ったが、必ず彼が捜しに来た。見つけたアオシマに小言を言うシンジョーに、幼馴染のスミレがよく食って掛かっていたことを思い出し、思わず笑みがこぼれる。
「なんなの、あいつ。実は機械人形なんじゃないの?感情なんかないみたい。」
「そんなことないよ。あれで結構優しいし。」
「優しい?あいつが?アオシマ君って、ちょっと変よね。」
「は?どういう意味?」
「分かんなきゃいいのよ。」
勝気そうな笑顔の彼女に、もうどれ程の間会っていないだろう。
シンジョーがいなかったら、誰とも会えず、屋敷の中に閉じ込められたこんな生活には耐え切れなかっただろう。
シンジョーが遠慮の無いようなもの言いをするのは、不器用な彼なりの気遣いだとアオシマはよく分かっていた。彼に事情を話さずに他の使用人と同じように暇を取らせようとしたが、彼は頑なに拒否し続け、理由を話せと迫った。理由を話したら辞めると言うから話したら、今度は尚更辞められないと言い出した。絶対に後悔するからというアオシマの言葉に、彼はいつもと変わらない表情で言った。
「屋敷の中のどこに何があるかもお分かりでないあなたが、一体どうやって一人で暮らしていくのですか。無謀です。」
「そんなの、やってみなきゃ分からないじゃないか。」
むきになるアオシマに、シンジョーは滅多に見せない笑みを口の端に浮かべた。
「それに、後悔するとおっしゃるのなら、あなたが泣きながら私を捜し回る方が、よほど後悔します。」
「い、いつの話だよ。」
「さあ。随分昔のことのような気もしますし、つい最近のことだったような気もしますね。」
しれっとした顔をして言うシンジョーを見て、アオシマは苦笑するしかなかった。
「負けた。好きにすれば。」
言った後、いきなり自分より小柄なシンジョーに子供のように抱きついた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとう。」
ポツリと呟いた一言にシンジョーは何も言わず、小さい頃、泣いていたアオシマによくしていたように、ポンポンと背中を優しく叩いてくれた。もう子供じゃないのにと思いつつ、その手の優しさに甘えて、アオシマはそっと目を閉じた。
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